あとがき
これでこの話はひと先ず終わりである。
話の中に始終出て来る新型コロナウイルス感染症については、暑くなって来た頃、確か5月下旬のことか? 新たな感染者が殆んど0になり、一旦収まるかと期待されたが、1か月も経たない内にまたじわじわ増え始め、私の職場がある大阪府ではこのところ連日新たに5人前後出ている。東京都ではそれが10倍になり、50人前後出ている。
今日(7月2日)なんかは東京圏、大阪圏だけではなく、福岡、鹿児島等九州、北海道、宮城県等東北まで広がっている。
要するにそう簡単には終わってくれないようである。
それもあって、この話について何処で区切りをつけて好いのか分からなくなって来たから、取り敢えず6月一杯と言うことにしておいた。
この後も書き続けることもは可能であるが、それをすれば、もう日常になってしまうように思われるのである。そうなると、惰性になってしまう。
なんて、既にそうなっていたのかも知れないが、私としては多少意識して書いていたつもりである。その意識がある内に一旦まとまりを付けておきたくなった。
さて、タイトルの「人は見かけが9割!?」であるが、「その1」にも書いたように、吉村洋文大阪府知事の言動の好い意味における若さ、見映えの好さ等、インパクトの強さに刺激されたのがきっかけとなっている。書き続けている内に何のことか曖昧になって来ていたので、改めて触れておく。
その後に付いて強いて言えば、私の分身である主人公の藤沢慎二がずっと見映え、見かけ等を気にしながら生きて来たことであろうか!?
一方で見えない世界にも強く惹かれるものを持っており、それが舞台を心霊科学研究所などと言う怪しい場所に設定している。
この振れ幅の大きさは理屈的に言えば当たり前のことである。例えばブランコを片側に大きく振れば、もう一方にも大きく振れるものである。
観ている分にこれは面白いかも知れないが、当事者としては結構しんどい時もある。そんなことも書いている内に表されていればと思っていた。
何回も挿入したお話、「明けない夜はない?」はそれ自体何とかまとまりを付けたが、正直なところを言えば、藤沢慎二は私に近い分身、青木健吾はもう少し離れた分身とでもなるのだろうか!?
何れにしても、今回日々感じていたこと、私の中に長く留まっていた思い出等を彼方此方にちりばめている気がする。
いわば私にとっての個人的な記録にもなっている。
そして、その過程で面白いことに、他人との物理的な距離は確実に遠ざかっているのであるが、その分、精神的なところではかえって近付いていた面もあったように思われるのである。
コロナ禍に向き合う日々を書き綴り
我の記録にするつもりかも
コロナ禍で想像付かぬ日々送り
他人との距離が近付くのかも
上にも書いたように、この騒動が何時思わるともまだまだ予測が付かないが、その過程でこれからも色々なことが起こるはずである。一先ずはそれを静かに見守りながら、また色々のんびりと考えてみることにしたい。
令和2年7月2日