序章 学君の夢
広瀬学君は電車に乗ることが大好きで、通学バスで通っている曙養護学校から帰ると3日に一度は、直ぐに自宅の近くにある京阪電車の古川橋駅まで出掛けます。最近は自動改札になって中々無賃乗車はし難いはずなのに、学君は本当に上手に潜り込むことが出来るようで、その日も荷物を両手に抱えてのんびりと改札を通ろうとしている見知らぬお爺さんの後ろにぴったりと付いて、スッと通り抜けてしまいました。
「さて、今日は何処に行こうかなあ?」
そんなことを独り言ちながら、京都方面行きのホームに上がろうとするお爺さんの背中から離れ、立ち止まった学君はちょっと迷っています。
学君は学力的にはそんなに遅れていないのですが、思ったことが自然と口を衝いて出てしまいます。
「取り敢えず、また大阪駅にでも出てみようかなあ?」
どうやら、夏休みに独りでJRの特急、「サンダーバード」に乗り込み、福井県の武生まで行ったことを思い出したようです。武生では小振りなガソリンスタンドの前に陣取り、車が出入りする様子を眺めていただけですから、普段、暇さえあれば自宅の近所でやっていることと丸っ切り同じなんですが、見知らぬ土地でそれをしたと言うことが妙に旅情を誘い、ちょっと好い思い出になったのでしょう。
JR大阪駅に着いた学君は慣れた様子で環状線ホームから薄暗い下の通路に下りて行き、迷わず駅のコンビニ、ハート・インに入って行きました。夏休みの経験で、大きな駅でも混乱しなくなったようです。
ハート・インを出た学君は買い込んだ飲料や食料で大きく膨らんだリュックを背負い、少し考えてから、7、8番線、つまり京都方面に向かう電車が発着するホームに上がり始めました。
ホームに上がった時、折よくやって来た野洲(滋賀県)行きの新快速に乗り込んだ学君は、新大阪に着くと直ぐに降り、新幹線コンコースの方に入って行きました。
今度は一体何処に向かう積もりでしょう? 幾ら1時10分に下校のバスが学校を出て、2時には帰宅出来る水曜日とは言え、もう3時半ですから、明日のことを考えれば、そんなに遠くまでは行けないはずです。
しばらく迷った後、東京方面に向かうホームに上がった学君はベンチに腰を下ろし、リュックを開いておもむろにお茶とお握りを取り出しました。そして、お握りを頬張ったまま、キョロキョロし始めました。どうやら今日は新幹線車両を眺めに来ただけのようです。
「あっ、のぞみの500系やぁ~! やっぱり格好ええなあ。う~ん・・・」
感心する間もなく、次に入って来た車両に目を奪われ、
「あっ、今度はのぞみの700系やぁ~! 面白い格好やなあ。ハハハ。あれぇ!? 何や同じような形やなあ。そうや、そうや。あれはひかりレールスターやぁ!」
学君は幾ら見ていても飽きないのか? 電車が来る度に目を爛々と輝かせながら、嬉々として独り言ちています。
そこに、今度は真っ黒な電車が入って来ました。
「あれぇ!? これは何ちゅう電車やろぉ? 今までこんなん見たことないなあ・・・」
学君は乗りたくて堪らなくなって、思わず立ち上がり、フラフラとホームの端に引かれた白線の方に近寄って行きました。
その時のことです。学君の肩をグイッと掴み、ホームの中央に引き戻そうとしながら、低い声で耳元に、
「坊や。その電車に乗ってはいけないよぉ! 乗ってしまっては、もう帰って来れなくなるから・・・。それでも好いのなら、さあ乗って行きなさい」
と囁く白装束の小父さんが現われたのは。
横目に白い姿を感じた学君は小父さんの姿をはっきり見ようと振り返ってみたところ、
「あれぇ!? 誰もおれへん。一体どうしたんやろぉ? 分からへんなあ・・・」
「おい。学君、学君。大丈夫かぁ!?」
その声で目覚めたらしい学君は、どうも様子が分からないようで、ボンヤリとした顔をしながらキョロキョロとベッドの周りを見回しています。
「あれぇ? あの黒い電車は一体どこに行ったんやぁ!?」
「黒い電車? 一体何のことやぁ、学君!?」
「あっ、先生! あれえ、ここはどこやぁ!?」
漸く焦点が合って来たようで、学君は訪ねて来た藤沢慎二先生の顔を見ながら、不思議そうな顔をしています。
「そうかぁ~。学君は夢の中で、どこかの駅に電車を見に行ってたんやなあ・・・。それで今度はどこの駅に行ったんやぁ?」
「うん。新大阪に行ってんけどなあ、ひかりレールスターの後に、真っ黒の、見たこともない電車が入って来たんやぁ!」
「ふ~ん、そうかぁ~。それでぇ?」
「それでなあ、先生。乗ろと思たら、真っ白の服を着た小父さんが出て来て、乗ったら帰って来れんようになる、言うて止められたんやぁ・・・」
それを聴いた藤沢先生はブルブル震え出しました。
どうやらそれは学君を黄泉の国へと誘いに来た電車のようで、止めたのは、まだ行ってしまうのは早過ぎると判断した使者ではないのか!? と思えて来たようです。
暫らくして藤沢先生は、「ふぅーっ」と深呼吸した後、おもむろに、
「よかったやん、学君。それはなあ、まだ行かんでもええと言うことやぁ! さあ、今日の勉強でもしょうかぁ~」
と言いながら、優しく微笑みました。
藤沢先生はそれ以上言うと涙が零れそうだったのです。
夢の中黄泉の国へと誘われて
未だ早いかと止められるかも
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
これはもう15年以上前に書いた話である。
元になっている話はあるが、大分変えてある。
そこに私の分身を絡めて、そんなに長い話ではないが、思い出深い話である。
出来ればもっと現実に近付けたい気もしている。
そう思うだけで緊張して来るから、それにはまだ時間が足りないようである。
焦ることは無い。
そんな時間は来年度からのんびり持つことにしよう。
そう言いながら、今のままでも十分に思い出深いこの話をこれから少しずつ上げて行きたい。