sanso114の日記

日々気になったことを気楽に書き留めています。

明けない夜はない?(9)・・・R2.5.13①

            エピソードその7

 

 昭和61年当時、大阪府の学区割が分割される方向に変更された結果、青木健吾が高校生の頃よりまた少しレベルが上がって、地域トップの進学校にラックアップしたとは言え、北河内高校の校風は他の地区のトップ校に比べて十分に緩かった。のんびりした地域性と言うものはそう急に変わるものではない。府民の目、保護者の目がきつくなり、その分、行事の見直し、日程変更等はされていたが、これは地域性の好さが出て全体に生徒達の聞き分けは好く、大した混乱は無かったから、一見何の問題も無かった。

 ただ勘の鋭い生徒には、高度経済成長期が行き過ぎて無暗に膨張し始め、変に競争意識が高まって行くゆとりの無さが如実に感じ始められていたようである。そして巧妙に構築されたいわゆる常識の壁の範囲内で動いている分にはまだ好いが、一度でもその壁に近付き、触れようものなら、強力なお仕置き電流によって跳ね返され、普通は二度と壁に近付こうと思わなくなる。

 優秀な君達は言われたとおりにすれば好い。課題として与えられた情報を上手く録音し、そのまま再生出来れば十分! それで君達なら何もかも上手く行く。下手に疑うなかれ、と言うわけだ。

 それでも勇気を振り絞って壁に近付き、運好く? 壁の向こう側を覗いてみると、見渡す限りただ茫洋とした空間が広がっているだけであることを知り、あまりのショックに何も出来なくなってしまう。一体どの方向に次の第一歩を進めれば好いのか分からず、怖くなって足がすくんでしまう。 

 それが引き籠りであるが、そうなった生徒が北河内高校でもぼちぼちと目に付くようになっていた。

 健吾が常勤講師として物理を担当し、副担任も担当している2年4組には、そんな引き籠りから漸く卒業出来た女子生徒、安藤清美がいた。

 また、入り掛けていた男子生徒、丸山康介がいた。

 何方も人並み優れて感性鋭く、今も迷いの中にある健吾にとっては気になり、或る意味関わっていたい生徒であった。

 勿論、恋と言う意味では明らかに中野昭江への思いが強かったが、人間それだけではない。幾ら流れで教師の真似事をし始めたとは言え、若い情熱を傾けてある程度真面目に取り組んでいると、見えて来るものがある。恋よりは上位にある人生を考える上でより惹かれるものもあるのだ。

 

 それはまあともかく、北河内高校では文化祭が6月上旬に行われるようになっていた。1学期の中間テストが終わり、期末テストまではまだ間がある。怒涛の2学期の前には長い夏休みがある。1番気の緩められそうな時期であったからである。以前は2学期の中間テストの後、11月頃に行われていたものが、保護者の要望もあってこの時期に移され、同じくこれも保護者の要望を入れて教育実習を受け入れる期間もこの時期に移されていた。

 立場も経験も違うが、健吾にすれば常勤講師を始めて2か月ほどで、教師経験としてはあまり変わらない教育実習生が大量にやって来たわけである。ある種の緊張感はあったが、それでも元々が年配で経験豊かな教師が多い北河内高校であるから、健吾にとっては仲間が増えたような気がし、救いにもなっていた。

 その空気が生徒達にも十分伝わっていたようで、或る日の放課後、健吾が2年4組の教室の前を通る廊下で文化祭の準備を手伝っていると、似た空気を感じたのか? 2人だけになっていることを確認して、安藤清美がおもむろに話し掛けて来た。

「先生、私なあ、中学校の時は引き籠っててん」

 唐突であった。どう答えて好いのか? 健吾は分からないながら、何か言わなければいけない気がして、取り敢えず返事だけはしておく。

「ふぅ~ん、そうかぁ~」

 聴いてくれていると分かり、安心したようで、清美はその後、色々話し掛けて来た。

 今一よく分からないながら、中学生の時に何やら迷い、悩んでいるところに、同じ空気を感じたのか? 気になる存在であったのか? ともかく丸山康介が頻りと話し掛けて来たと言う。それがまたストレスとなって、とうとう長く休む結果となってしまったらしい。

「でも、出て来る方を選べたんやなあ。好かった、好かった・・・」

 健吾が気が軽くなった感じで言うと、

「ウフフッ。先生、正直やなあ。何やよう分からへんけど、出て来たからまあ好かった、とか思ってるんやろぉ~!?」

 図星を差されて、健吾はたじたじになっていた。

 そんな様子を観て安心したようで、以後清美は健吾のそばに来て作業をすることが多くなった。

 やっていた作業は長さが2mぐらいあるのぼりの制作で、やがてそれを康介も手伝うようになっていた。

 清美は別に康介が嫌いと言うわけではないらしい。中学生の頃はいきなり近寄り過ぎただけに、空気のようには無視出来ない相手と言うことで、状況によってはむしろ惹かれる部分の方が多かったのかも知れない。

 そんなわけで、基本的には3人で作業をすることが多くなった。そして何方かがその場を離れ、健吾と2人だけになった時、何方ももう片方のことを健吾との話題に自然と出すのであった。

 清美にすれば康介のことが気になる程度で、まだ時期ではなかったのか? 好きと言うわけでもないようであった。

 康介の方は気になる相手が、自分が悪気ではないにせよ関わったことも影響して長く休む結果になってしまい、更に気になる相手になっていた。

 真面目に考え、生きている男女はこんな風に擦れ違うことが多く、それが上手く重なり合った時に、漸く恋として成就するもののようである。

 そして康介にとって今は恋どころでなく、自分のことで精一杯の時期になっていた。

 そんな康介が惹かれているのは、ただ授業を担当する現代国語だけではなく、漢文、英文学、ロシア文学等、文学全般に造詣が深く、それを生徒達にも熱っぽくを語る国語教師、森村義雄であった。その森村のことを引き合いに出しながら、時々上から目線で諭すように言うことがあるから、健吾にすればちょっと可笑しかった。

「なあ先生。先生はまだ始めたとこでしゃあないと思うけど、ただ教科書通りの授業をしてたらええと言うもんやない。僕らは先生等を通して、その向こう側にあるものも見てるねん。その点、森村先生、流石やわぁ~。授業の初めとか、ひと区切り付いた時とかに、現代文だけではなく、漢詩や、シェークスピアや、トルストイの話とか、色々な話をしてくれはる。守備範囲が広いだけではなく、それがまた深いねん。先生も続けて行くんやったら、そんな風にならなあかんでぇ~」

 その時の健吾には、一面の真理を突いた一端の意見に頷くしかなく、気弱な笑いを浮かべながら聴いていた。

 ただ康介の場合、器がまだそこまでは強くなっていなかったようで、頭の中の理想と現実社会の猥雑さが相容れなくなり、そう立たない内に学校に出て来れなくなって、再び出て来れるようになるまでかなりの時間を要することになった。