その0
令和2年3月末の朝のこと、藤沢慎二は何時も通り今の職場である心霊科学研究所東部大阪第2分室に7時50分頃に着き、タイムカードにスリットした後、執務室に入る。既に正木省吾、すなわちファンドさんが来て居り、スマホを何やら熱心に見詰めていた。
「おはよ~う」
「おはようございま~す」
挨拶を交わした後、世界では新型コロナウイルス感染症に関する騒ぎが彼方此方で大きくなっていること、ファンドさんの一番の関心事である株価に大きな変動が起こっていること、東京オリンピックの延期を初め、スポーツ界が壊滅的な打撃を受けていること等、ひと通り世間話をし、慎二は自前の中古ノートパソコン、「神の手」をおもむろに開いた。そして、上手く書けたと思う時は即座にブログにアップ出来るように、テザリング用に格安のSIMを挿したスマホまで用意しておく。
迷うところがあったのか? その後は暫らく考えて、それからおもむろに年季が入って多少くたびれ気味の256MBのUSBメモリー、「愛のバトン」を取り出して、「神の手」に慎重に挿し、休みの間に家で書き続けている私小説っぽい作品、「明けない夜はない!?」の一部を取り出して加筆修正を始める。
明けない夜はない!?
その4
キリスト教系の聖書研究会、「希望の光」の夏季キャンプから戻った後、北河内の駅前の食堂街にあるうどん屋、「さぬき庵」で青木健吾はアルバイトで店員をしていた中野昭江に声を掛けられ、挨拶を交わした。そして昭江の定期テスト前には近所の図書館の自習室で一緒に勉強するようになったが、他の利用者に煩がられ、場所を駅前のガストに移していた。
そんなこんながあって、2学期の中間試験が終わった或る日のこと、昭江のクラスでは成績表が配られた。その日の放課後、昭江は所属している女子バスケットボールクラブの部員で中学校の時からの友達、橋本加奈子から訊かれる。
「なあなあ、昭江、あんた何番やったぁ~!?」
2人共中学生の頃は常に300人中10番前後であったが、北河内高校にはどこの中学校でもそれぐらいであった生徒が集まるから、そこからまた新たな順番が付く。どうやら2人共、北河内高校ではそれほど出来るわけでもなかったようだ。1学期末のテストでは450人中、加奈子が387番、昭江が412番であった。何方もいきなり高くて分厚い壁にぶつかって戸惑い、卒業後は短大に進んでOLにでもなるコースかと親子共々早くも諦め始める層に入っていた。
今回も加奈子はあまり変わらない気がし、せめて昭江より少しでも上であれば好いかと思っていた。
それが、何だか昭江は自信がありそうで、ちょっと照れたように見せた成績表によると、クラスで23番、学年で254番に上がっていた。
「ええ~っ、嘘やろぉ~!? 一遍に150番も上がって、あんた凄いやん! 私のん見せるの、恥ずかしなって来たわぁ~」
そう言いながら見せた加奈子の順位はクラスで39番、学年では382番と、1学期末とそんなに変わらなかった。
「あんた、これやったら関関同立とかでも狙えるやん! 何でこんな急に上がったん!? あんた、夏休みにキリスト教のキャンプに行った、言うてたなあ? もしかしてご利益があったとかぁ・・・」
加奈子は心底羨ましそうであった。
「うふっ。そんなん分からへんわぁ~」
そう言って昭江はちょっと迷っていたが、思い切って口に出す。
「あんなあ、近所に親切なお兄ちゃんおってぇ、勉強、教えて貰うようになってん。ほな、何か少しずつわかるような気がして来てぇ・・・。そのお兄ちゃんかて北河内高校出ててぇ、国立の浪花大学の理学部出たらしいでぇ~」
「ふぅ~ん、凄いなあ。でも、昭江だけそんなんずっこいわぁ~。今度私も誘ってぇ~やぁ!?」
「分からんけど、今度会った時にでも訊いとくわぁ~」
その時はそれで終わったが、家に帰ってから昭江がその話をすると、母親の徳子はあまり好い顔をしない。
「えらい急に上がったと思ったら、あんた、そんなことしてたんかいなぁ~。本当にその人、大丈夫かぁ~!? 幾つぐらい、その人? どこの大学出て、今どこで働いてるん? 収入はどれぐらい?」
と矢継ぎ早の質問を重ねる。
「ハハハ。何や興信所か何かが身元調査してるみたいやなあ。もう結婚でも考えてるんかぁ~!? ハハハハハ」
と笑うのは5つ違いの兄、陽介であった。陽介は北河内高校から一浪して国立の阪神大学に進み、今、2回生であった。
「・・・・・」
昭江は真っ赤になって黙ってしまった。
それを観て徳子は更に心配そうな顔になり、
「あんた、もしかしてぇ・・・」
「何言うてるんやぁ、母さんはぁ~! 昭江の様子観たら分かるやろぉ~!? 何かあるわけないやろぉ~。ほんま、箱入り娘なんやからぁ・・・」
また陽介が助け舟を出す。
昭江は黙って勉強部屋に入った。
その辺りまでを見直して加筆訂正し、ちらっと時計に目を走らせてここで置くことにした。「愛のバトン」をそっと抜いた後、「神の手」を優しく閉じ、慎二が創作の余韻に浸ってしみじみしていると、
「おはようございま~す」
「おはようございま~す」
「おはよ~う」
井口清隆、すなわちメルカリさんが執務室に入って来た。
慎二はまだ恥ずかしさも少し残っていたが、ちょっとは軌道に乗り始め、自信も出始めているので、メルカリさんの方におもむろに「神の手」の液晶画面を向けて、
「ふぅーっ」
ひと息吐いて気持ちを落ち着け、静かに問いかける。
「どう、これぇ? この前もちょっと見てもろた書き掛けの小説みたいなもんの続きなんやけど、自分としてはまあまあ書けてると思うんやけどなあ・・・」
「おっ、あの主人公が能勢の宗教キャンプに行って、その後再会して意気投合し、一緒に勉強するようになったとか言うてた小説ですかぁ~!? あの後どうしたのか? 中々その続きが出て来えへんから、ちょっと気になってたんですわぁ~。それにしてもブログさん、毎朝、よう精が出ますねえ・・・」
半分呆れ、半分感心しながら、
「どれどれ・・・」
気の好いメルカリさんはさっと目を走らせて、
「おっ、やっぱりブログさんが好きやった子こと、中々ええ感じになって来てますやん!? 一緒に勉強して成績も上り、心配していた親兄弟も憎からず思い始め・・・」
どうやらますます実際通りと決め付けられているようである。
《然もありなん。でも、ここも違うことを言っておかなければ・・・》
慎二は慌てて否定に掛かる。
「おいおい。そんな風にどんどん先走らんといてぇ~やぁ~! これぇ、何回も言うてるように、あくまでも小説やってぇ~。全くの作り話やからぁ・・・」
そう聴いてもメルカリさんはちょっと悪戯っぽい笑いを浮かべながら、
「フフッ。本当かなあ? やっぱりこれも殆んど自分のことちゃいますのん!? 表現はともかく、感情がちょっとリアル過ぎますやん・・・」
勘の好いメルカリさん、流石に鋭いことを言う。
なまじ当たっているだけに慎二としては事務を担当する若くて溌溂とした依田絵美里の手前益々恥ずかしく、やはりここでは強く否定しておくことにした。
「いや全然違う! 俺が大阪に帰って来て勉強や就活している時に、そんな子は絶対おらんかったぁ・・・」
毎度同じような言い訳めいたことを言っては、慎二はちらっと絵美里の方を見る。
絵美里もこの話が出た時は毎度同じように、オヤジの与太話になにか興味はないと思わせる風に視線をさっと逸らすが、頬をちょっと紅潮させ、耳をひくひくさせていることで、これも毎度同じく完全に失敗していた。
メルカリさんはそんなちょっと怪しい空気を鋭く感じ取り、これ以上からかうのは慎二に酷かと思って軽やかに立ち上がり、コーヒーを淹れに行った。
それだけではなく、絵美里をこれ以上刺激して、慎二に対して特別な感情を持たせてしまってはと、心配にもなって来たのである。
そう。メルカリさんも実は絵美里にちょっと惹かれ始めていた。そこは人間、職場の中のこんな空気はよくあることで、それが上手く働けば日々のマンネリ化しがちな仕事に活力を与え、また好い出会いに繋がることもある。
それはまあともかく、メルカリさんが立つと、空かさず絵美里が慎二の机の上にお茶をそっと置いて行った。何も言わず、それ以上は慎二になんか興味が無いと言う風に装いながら・・・。
そこで珍しくその日はファンドさんが立ち上がり、執務室の窓を一気に、大きく開け始めた。
「新型コロナウイルスのこともあるし、ちょっと寒いかも分かりませんけど、窓、開けさせて貰いますねぇ」
聴いていないようで、よく見るとファンドさんも時々にやりとしていることがあり、それなりに興味を惹かれているようであった。
「よしっ!」
新鮮な空気を吸って慎二は湿りかけていた気持ちが吹っ切れたようで、すっかり仕事の顔になっていた。たとえ先ずは形からにせよ、見かけだけにせよ、そんなことが周りの空気も簡単に変えるものであった。 (取り敢えず終わり)