その2
小学校の6年生の春、藤沢浩一、高木綾子、及川春江たちは兵庫県宝塚市にある仁川まで遠足に来ていた。
所々に不心得者が残して行った弁当柄、お菓子の袋や箱、飲料のペットボトルや缶等が散乱しているものの、沢を流れる水は透き通って美しく、空気は美味しかった。都会からほんの少ししか離れていないのに、こんなにも清々しい場所があることが不思議でならない、はずであった。
と言うのは、そんなことが浩一たち男子を喜ばせるのは最初の内だけで、関心は直ぐに別の卑近なところに移って行く。
「なあなあ、春江の弁当、見たかぁ~? 地味な蒲鉾しか入ってなかったでぇ~」
少々軽いところのある田崎俊夫が邪悪な笑いを浮かべ、ちらっと浩一の弁当を見て言うのを聞きながら、浩一は玉子焼きしか入っていない自分の弁当を左腕で隠し気味にして気弱に笑った。
春江は遠足や社会見学が好きではなかった。家にお金がないからお菓子をあまり持たせて貰えなかっただけではなく、シングルマザーの母親には時間がなかったから、手の掛かる弁当を作って貰えなかったのだ。
その日も春江は皆から離れ、岩陰でそっと弁当を開き、蓋で隠しながら食べていたはずなのに、ふと気配を感じ、振り向くと、俊夫の顔があった。
《あっ、男子たちがまた私のことを噂して笑っている・・・》
そろそろ他の女子たちは好意を持つ男子の噂をして楽しんでいる年頃なのに、春江にとって男子たちはただただ鬱陶しい存在でしかなかった。
それでも大概のことは慣れて来るもので、春江はもう男子から話し掛けられたからと言って、泣くようなことはなくなっていた。
綾子は男子たちが他人の弁当を覗き込み、品評会をして楽しむのを悪趣味だとは思っていたが、自分の弁当がお子様ランチのようにバラエティーに富んでいるのを誇らしくも思っていた。
《浩一君も恥ずかしそうに隠しながら食べている・・・。それならば春江さんのことをあんな風に笑わなければいいのに、どうして皆と一緒になって笑うのかしら? あんなところが浩一君の駄目なところね・・・》
綾子はこの頃、浩一のことが不甲斐なく思えて仕方がなかった。
それに比べて、学級委員の山田高志は他人を悪く言うことがなかった。そんな風に他人を貶めなくても十分過ぎるほど飛び抜けていた。
浩一のことを振り払い、綾子は女子たちの高志を噂する輪に入った。
中学校に上がってからの浩一は、勉強においてあまり見込みがないことを知り、手先が器用で、美術が得意であることから工業高校に進むことにした。
入った学科は機械科で、製図では何時でも褒められるほどの出来栄えであった。
《そう言えば、春江は何とか高校に入ったのに、中退したらしいなあ・・・》
日曜日にデートをした綾子から聞いたのであった。
綾子は進学校に進み、どうやら同じ高校に進んだ高志のことが好きなようだが、競争率が激しく、その中の1人として争うのは好まないらしい。淋しくなったら浩一のことを誘い出す。
浩一はそれでも構わない。居場所を得て、何時かは綾子を振り向かせる自信のようなものが芽生え始めていた。
中学校においても春江は居場所がなく、息を潜めながら、ひたすら気配を消すようにして3年間を何とか遣り過ごした。
話し掛けたぐらいでは泣かなくなり、ふてぶてしくさえ見えるようになった春江に興味を失ったのか? 何時までも構うほどの時間がなくなったのか? 男子たちは離れて行ったから、春江は余計な人間関係に煩わされることがなくなり、小学校のときは最低であった成績が、中学校では中の下ぐらいにまで上がって来た。そして、公立高校への進学の道も見えて来た。
しかし高校に入ったからと言って、何かが変わるわけではなかった。相変わらず人間関係が煩わしい。それに経済的にも苦しい。
春江は折角勝ち取った一つの可能性への切符をあっさりと捨てた。そしてその挫折は思いの外春江の心に重く圧し掛かっていたようであった。
地元のトップ校に進んだ綾子は高志との距離が少し近付いたような気がし、密かに喜んでいたが、高志は早くも周りの女子から注目されているらしい。未だ3か月にもならないのに、同級生から自宅に、個人的な付き合いの承諾を求める電話が掛かって来たと言うのだ。
《他のところから来た人たちは凄いんだぁ~。それに比べて、私たちの中学校はどうやら飛び抜けてのんびりしていたようね・・・》
授業の進度やサークル活動のレベルの高さでも気後れしていた綾子は、ちょっと落ち込み気味であった。
そんなとき、漸く公立高校に入れた春江が中退し、手首を切ったと聞く。
気の弱いところのある浩一には、春江が経済的事情で止むを得ず高校を中退した、とだけ伝えた。
綾子は浩一等低レベル層の男子たちに加担したような気がし、ちょっと苦々しかった。
成長しじわじわ層が分かれ出し
友との距離が遠くなるかも
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
昨日も書いたが、何時もであれば私の分身である藤沢慎二がこの話では少し離れて藤沢浩一となっている。
友達、進路等も大分違って来ているが、私の分身達が小心者のところは変わらない!?
それはまあともかく、この頃の仁川(インチョンではなく、にがわ)はまだ清流であった。
ただ、もっと小さな頃に観たようなごみ一つない、と言った感じでは既になかった。
今は宝塚市内の高級住宅地になっているようである。
ちょっと調べてみたら、公示価格が坪62万円で、生駒市の坪31万円の倍である。
そう言えばこの前近所にある東山の駅前で80坪の宅地が1300万円ぐらいであったから、大分高い。
それだけから考えたら、仁川の清流自体は期待出来ないだろう。
人も土地も時間と共に汚れるもののようである。
それはまあ仕方がないにしても、出来れば恥ずかしくない汚れ方をしたいものだなあ。フフッ。
人や物時間と共に汚れ出し
それが自然の定めなのかも
出来るなら恥ずかしくなく年重ね
顔上げながら過ごしたいもの