第1夜 透明になればブルー?
「隣接する2つの物質の境界面に入射した光の一部は反射して今通って来た物質の方に戻り、残りの光は屈折してもう一方の物質に透過して行く。これは諸君が高校の物理でも習ったことであるから、勿論知っておるじゃろう? ここで、もしある物質を空気と同じ屈折率、まあ真空とほぼ同じ1ということじゃなあ。ここまで持って行くことが出来たら、平たく言うと、空気のような存在に出来たとすれば、その物質を空気中に置いたとき、最早境界では反射も屈折もしないわけだ。つまり光は素通りし、全く見えない存在となるなあ。フフッ」
寺門博士はそこまで言うと、ひと息吐いた。
学生たちの反応を確かめたかっただけではなく、感極まって言葉が出なくなったらしい。博士は自己満足により滲み出る汗と油でてらてらする顔を暫らく天井に向け、それから再び顔を引き締めて話を続けた。
「それでは、果たしてそんな物質を作ることが本当に可能なのか!? それが、ほぼ見通しが付いたのじゃ。このピンクの錠剤、キエールを飲むと、ほらっ!」
錠剤を飲み込み、そう言った博士の顔色が次第に薄くなり始めた。
5分も経つと、向こうが透けて見えるほど薄いピンクがかった霧の様になった。
「残念ながら今はまだここまでじゃが、近い内に全て消えてしまうようになるじゃろう。うん!」
そこで博士の顔が少し濃くなり、ちょっともどかしそうな表情がぼんやりと見えた。そして言葉を続ける。
「しかし、この薬には大きな欠点がある。ほら、今も興奮すると少し濃くなって来たことからも分かるように、残念ながら感情の動きが激しくなるに連れ、はっきり見えるようになってしまうのじゃ。何故だか分かるか?」
「体温が上がって屈折率が変化するから!?」
飛び切りシャイな僕には珍しく、思わず答えていた。
「その通りじゃ! 透明ではなくなってしまうのじゃ」
「でも、それじゃあ役に立たないじゃないですかぁ~!?」
そのときは本当にどうにもならない気がして来て、普段の僕をかなぐり捨てていた。
「おい、おい。君はこれが今、もし完成したとすれば、一体何に使おうと思ったんだね!? フフフッ」
博士は、僕に芽生え始めていた男としての好からぬ欲望について十分に察知しているくせに、とぼけるように聞いた。
「いや、そんな博士が思っているようないやらしい意味ではなく、透明人間でいる為には心まで静めて、まさに空気のような存在にならなければいけないなんて、何だかあまりに当たり前過ぎて面白くないなあと思いまして。ほんと、単にそれだけのことですから・・・」
少し落ち着いた僕は、理学部、それも心霊科学科では数少ない女子学生であり、皆のアイドル的存在でもある脇浜綾子の存在に気が付いて、取り繕うように言った。
それが言い訳めいて聴こえ、余計に嫌な感じを与えたのか?
「男なんて本当に皆いやらしいんだからぁ!」
綾子は吐き捨てるように言った。
《嗚呼、どうしよう!? 大好きな綾子に本心を知られてしまった! 嗚呼、恥ずかしい・・・》
僕は居たたまれなくなって、教室をそっと後にした。
それから10数年後、心霊科学研究所の主任研究員になっていた僕は、博士の遺志を受け継ぎ、透明人間の可能性について研究し続けていた。そして、とうとう叶える方向での一つの結論に達し、その実験にもほぼ成功していた。
それはこうだ! 肉体があるから空気のような存在になるのが難しい。だから、いっそのこと精神を肉体から切り離してしまえば好いのである。
それから更に10数年を要して、僕は遂に、肉体から精神を自由に切り離すことが出来る薬を作るのに成功した。
「それがこのダークブルーの錠剤、リダーツである!」
僕もキエールを発明した当時の寺門先生と同じぐらいの年になり、学生たちを前にして得意気に講義していた。
「一粒飲めば、ほらっ・・・」
そう言って暫らく経つと、僕の精神は文字通り腑抜けになった僕の肉体を見下ろしていた。
「あれぇ!? 博士が動かなくなっちゃったぞぉ~」
「ほらっ、目だってガラス玉のようになっちゃった・・・」
「博士、博士! 一体どうしたんですかぁ~!?」
下で学生たちが騒いでいる。
しかし、肉体から離れた僕はもう、何も言うことが出来なくなっていた。
《あんまり驚かせてもいけないなあ。仕方が無い。そろそろ戻るとするかぁ~!》
再び肉体の中に納まった僕は、天井の方を指しながら、得意気に口を開いた。
「ほら、どうだね!? 吃驚しただろう? 僕の精神は、ほらあの辺りで、僕の肉体と、その周りで大騒ぎしている君たちを静かに見下ろしていたというわけだ。フフッ」
「でも、そんなの本当に死んじゃったみたいで、つまらないじゃないですかぁ~!?」
1人の男子学生が顔を赤くして、抗議するように言う。何だか昔の僕みたいな奴だ。
「こら、こら。フフッ。君はこの薬を使って、黙って観ている以外に一体何をしたかったのかね? フフフッ」
僕も、昔、寺門博士が僕にしたように、その男子学生に揶揄するように聴いた。
「いや、別にそんな変な意味ではなく、ただ・・・」
「ただ、何だね? フフフッ。別に恥ずかしがらなくても好い。君たちの年頃の男性が考えそうなことぐらい分かっておるよ。僕も昔はそうだったなあ・・・。でも、心配はいらない。安心しなさい。精神だけになったら、もう余計な欲望なんて無くなるから、観ているだけでも十分なんだなあ、これがぁ・・・」
「そんなの全然面白くな~い! それに、腑抜けになった肉体は見えているままじゃないの! 格好が悪いわぁ・・・」
声のする方に目をやると、妻の綾子であった。綾子は寺門博士の遺志を直接引き継ぎ、別の部屋でキエールの完成を目指していた。
それにしても年月は、あんなに初心(うぶ)で可愛かった綾子をすっかり小母さん臭く・・・、いや失礼、大人の女性に変えたようである。
「大人しくしている肉体ぐらい別に構わないだろう? 放って置けば好い・・・」
「駄目よ。それでは完全じゃないわぁ~!」
「では、君ならどうすれば好いと思う?」
「これを同時に飲めば好いのよ!」
そう言って綾子は白い錠剤を差し出した。
「ほぅ。とうとう完成させたのかぁ~!?」
「そう。キエールⅡよ!」
綾子は鼻を蠢かせ、得意気に言う。
《研究者としては僕より優秀な綾子のことだ。その綾子が言うのであれば、きっと間違いはないだろう!?》
僕は早速リダーツとキエールⅡを1錠ずつ口に含み、躊躇いが大きくならない内に一気に飲み込んだ。
暫らく経つと僕は天井近くから綾子や学生たちを見下ろしていた。
《おや、僕の肉体が見えない!? そうかぁ~! 空気のような存在になった肉体を見ることは最早出来ないのかぁ~!? フフッ。こそばい! フフフッ。おい、おい、止めてくれよぅ~!》
学生たちが面白がって、透明になった僕の肉体を弄んでいる。どうやら肉体への刺激は直ちに精神に転送されるらしい。
ドタッ! ゴロン、ゴロゴロゴロ、ゴロン!
《あっ、痛い!》
悪乗りした学生たちが皆して僕の肉体を何処かに転がしてしまったようだ。
《やい! 一体どうしてくれるんだぁ~!? それでは戻りたくなったときに戻れなくなっちゃうじゃないかぁ・・・》
《いや、存在はしているわけであるから、ペンキでも掛ければ好いのかぁ~!?》
そう思い付いて僕はペンキを探そうとしたが、精神だけになった僕は物を持つことが出来ないんだった・・・。
《仕方が無い。少し不安だし、憂鬱ではあるが、肉体を取り戻す上手い方法が見付かるまで、僕は空間をのんびり彷徨っていることにするかぁ~!?》
覚悟を決めると、滅多に体験出来ることではないので、話の種としては悪くない気がして来た。
そう思って窓から見る晩秋の空は限りなく青かった。
窓の外晩秋の空青深く
どこか寂しさ漂うのかも
肉体を離れた我は果てしなく
この空間を彷徨うのかも