「言うまでもないことだが、自然が先にあって、物理はそれを出来る限り実際に近い形で簡潔に、美しく記述し、理解、更に応用する手段である。だから、物理が提示する理屈に合わない自然現象があっても全然不思議ではないし、もし明らかな相違が見付かれば、自然や我が目を疑うよりも、物理の理論の方をこそ疑い、構築し直さなければならない。分かるね、諸君?」
綾敷琢磨博士はそう言ってにやりと笑う。博士は心霊科学の権威で、研究生の安藤盛夫は思わず頷いていた。
「ところで、君たちはブラックホールって聞いたことがあるだろう? 怖ろしいほど高密度で、光までも吸収してしまうと言われている。勿論、ただ吸い込まれるだけではなく、怖ろしい重力で、近付く物は皆破壊されてしまう。真面目に勉強してきた君たちなら、そう信じているはずだ!? しかし、果たして本当かな? フフッ。実はね、あれはアインシュタインの一般相対性理論に基づく重力方程式の解が求められない点、つまり特異点に近似的に決められた解に過ぎないのだよ。そして、そんな解をでっち上げなければならないこと自体、あの理論はまだまだ不完全なんだなあ・・・」
綾敷博士の顔は益々得意気である。安藤盛夫はすっかり話に引き込まれていた。
「物理学者でもないし、数学的にもそんなに造詣が深いわけでもない私がこんなことを言っていると、また僕が怪しげなことを言い始めた、なんて思う人がいるかも知れないね。では、そろそろ種明かしをすることにしよう。あれは、異界への通り抜けなどとても出来ないんだ、この宇宙は君たちにとって唯一無二のものだよ、ここで大人しく暮らすことだな、と思わせるまやかしでね、実は意外なところに抜け穴があるものなんだ。SF作家や漫画家は流石に鋭いね。たとえばドラえもんのどこでもドアなんかもそうだな。感じるからこそ描いたのだろう」
種明かしなんて言いながら、綾敷博士の話は何だか怪しくなって来た。
「そう、この私もずっと感じて来た。そして、信じるものは救われるとはこのことだなあ。瞑想の修行をしていた私はあるとき、不思議な波動を感じるようになった。それに身を任せるとだなあ、一瞬で全く別の世界へ飛び出しているんだ。先ず宙に浮かんで、自分の身体が小さく見えたな。そして、次は何処にでも行ける。空間のみならず時間でも何でも、壁なんて存在しない。人間の想像の及ぶ範囲は精々その辺りだが、なんと宇宙を区切っている壁でも自由に超えられる。そう、精神と言うか? 魂と言うか? 肉体を抜け出た存在は、小賢しい物理の理論など屁の河童、何処にでも自由に移れるのだ」
安藤盛夫は漸く綾敷博士の話に不安を覚え始めた。
しかし、もう遅かった。気付いたときには綾敷博士にじっと目を見詰められ、目の前で手をひらひらされたかと思うと、安藤盛夫はすぅ~っと夢の世界に入って行った。
「どうだね、安藤君? 君の魂は今、空中を浮かんでいるわけだが、下を見てごらん。ほら、君の肉体が小さく見えるだろう?」
「ええ」
本当であった。綾敷博士の前で目を閉じ、じっとしている自分がいる。安藤はそれをどう考えていいか分からなかった。
《そうか! 考えてはいけないんだ。見たままを信じるしかないんだ!》
安藤は一瞬でも綾敷博士を疑った自分を恥じ、それからは博士に言われるままに時空の旅を楽しんだ。
《しかし、どうして何時でも綾敷博士の声が聞こえるのだろう?》
安藤盛夫がそう考えたとき、近くで声がした。
「それはなあ、君の近くにいるからだよ」
「えっ、一体何処に!?」
「フフッ。見回したところで見えんよ。最早形はないからね。まさしく心眼だな。私が君の気持ちを読めたのは一瞬で君の魂に入り込めたからだが、誰でも直ぐに出来ると言うわけにはいかん。特に今の君は私に言われるままに魂が肉体を抜け出ただけだから、まだまだだなあ。フフフッ」
それからと言うもの、安藤盛夫は綾敷博士の下で修行に励み、自分でもある程度肉体から離れることが出来るようになった。
そして或る日、暫らく時空の旅を楽しんで来た後、肉体に戻ろうとすると、驚いたことに戻れなくなっていた。
《おや、どうしたことだろう!?》
すると、自分の肉体から何だか聞き慣れた声が聞こえて来た。
「フフッ。君の若くて元気な肉体は私が貰ったよ。私は何時も君の恵まれた肉体が羨ましくて仕方が無かった。君の凡庸な精神には勿体ないよ。悔しかったらもっと修行をして私の精神に打ち勝つか、それが無理なら別の肉体を捜すことだなあ。フフフッ」
そして、地上では就寝中に眠るように亡くなっていた綾敷博士の亡骸が、丁重に葬られ、急に頭の好くなった安藤盛夫が綾敷博士の研究室を去って、2度と瞑想に耽らなくなっていた。
仕方が無く、安藤盛夫の魂は時空を超えて、自分の魂の落ち着き場所を探す旅に出た。
ほらほらそこの君。ぼんやりしていると、何時の間にか肉体を奪われ、君の魂は空中に叩き出されているかも知れないぞ。フフフッ。
さて、安藤盛夫の肉体を見事乗っ取った綾敷博士の精神は、精神が肉体の影響を強く受けると言うことを知らなさ過ぎた。愛知万博(2005年)の見学をしていたときのこと、あるパビリオンで人形のように整った顔立ちの白人コンパニオンに話し掛けられ、上の空で答えている内に、強い衝撃を受け、何時の間にか綾敷博士の精神は空中に叩き出されていた。
「ハハハ。綾敷博士敗れたりぃ!」
下を見ると、安藤の肉体に安藤の精神が戻り、得意気に笑っていた。
そして、安藤の肉体の中でのうのうと暮らして来た綾敷博士の精神には最早、修行を積んで来た安藤の精神に打ち勝つ力は残っていなかった。
精神に身体が強く影響し
刺激受ければ抜け出すのかも
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これは15年ぐらい前に書いたものを見直し、簡単に加筆訂正した。
愛知万博が出て来ることからも時期的なことが分かるであろう。
人形のように整った顔立ちの白人コンパニオンのことは実際にあったことで、私と同じような背丈(170㎝台前半)なので、話すと目の前に小さな顔が来て、現実離れしていてちょっとくらくらした覚えがある。
中学生の頃に行った大阪万博の時にはもう少し遠巻きに見ていたのか? そんな印象は残っていなかった。
今、大阪府知事の記者会見を観ていると、2025年の大阪万博を意識したジャケットを着ているが、今の喧騒が収まり、実現出来ることを願うばかりである。