sanso114の日記

日々気になったことを気楽に書き留めています。

或る秋の日の独り言? ・・・R2.11.5①

 もう30年以上も前の或る秋の日の午後、藤沢慎二は南向きの部屋の大きな窓から沈み行く夕日を眺め、感傷を楽しんでいた。

『嗚呼秋やなあ。俺はまだ独り・・・。何や寂しいもんやなあ。フフッ』

 声には出していないはずであったが、気持ちが感じられたのか? 普段話したことのない女子高生が隣で頬杖を突き、しみじみと言う。

「私、勉強はでけへんし、運動もでけへん。いっこも可愛ないし、太ってる。えええとこ何処もないから、ボーイフレンドもでけへん・・・」

 何か言って欲しいようでもなく、まさに独白と言った感じであったから、慎二はただ聴いていると言う様子だけで付き合っていた。

 

 それからも暫らくしみじみとした時間が続いてはずであるが、そのことに付いては全く記憶がない。

 時々慎二はその時のことを他人に、

「ほんまは、ほんまやなあ、と言いたかったやけどなあ。フフッ」

 なんてふざけて言うのであるが、本当はちょっと違う。

 その女子高生が言うほどはっきりは感じていなくても、自分にも売り物になるようなものは殆んどない。

 比べるレベルを上げて行けば、惨めになるだけである。

 ただ、それを客観的に言おうとするだけ大人な部分を感じていたのかも知れない。

 ともかく、共感していたのである。

 秋はそんな風に人の心を揺らせる季節のようでもある。

 

 同じような場面を先日、NHKの朝ドラ、「エール」でやっていた。

 小山裕一、音の愛娘、華が自分には何もないと嘆き、落ち込んでいる時、伯母の吟が、自分もそうだけど、それで好いし、日常に転がっている何気ない才能と言うのもあるのではないか、と慰める。

 確かに、人は所詮人が作った基準なのに、それに縛られ、身動きが取れなくなる。

 ひどい場合は自分を壊してしまったりもする。

 そんなことを考えている内に慎二は、それでは将来、厄介な肉体を必要とせず、魂だけの存在となった場合、どうなんだろうか!? と思えて来た。

 自分の好きなように思い描き、好きな肉体、いやロボットか? ともかく用意して、楽しめば好い。

 でも、素人がやれば大抵はやり過ぎて、出来の悪いドラマか漫画みたいになる。

 それならば、今でもあるようにトップアスリート達が繰り広げるスパープレイを楽しめば好い?

『う~ん、変わり映えしないなあ。それでは、そんな風に生き長らえて行く魂にはどんな意味があるのだろう!?』

 自分で勝手なことを思い、自分で否定しているのは何時ものことであった。

 

 ぞれからずっと先の或る秋の日のこと、脳だけになった慎二は、脳団地の一室に並んだガラス容器の中から歪んだ外界を眺めながらしみじみと、

『結局、魂を何とかしないことには中々精神は満たされず、寂しい思いが続くのかも知れないなあ』

 なんて呟いていると、隣のガラス容器から、

『あんた、何時までそんなこと言うてんのん? まあその変わらなさ加減があんたやねんけどなあ・・・』

 そんな思いがひたひたと伝わって来た。