その3 故郷は遠くにありて・・・
「そう。そうなの? それは淋しいわねえ、おばあちゃん・・・」
お多福出版のトップセールスレディーである大山佳代は心底そう思っているように深い目をしながら続ける。
「でもね、おばあちゃん、本当に息子さんがおばあちゃんのことを忘れているのかと言うと、そうは思わないわぁ・・・」
そこで佳代はちょっと間を持たせる。おばあちゃんと呼ばれている訪問宅の老女、真崎聡子をより話に引き込もうという積もりである。
「それはどうしてだい?」
期待通り、聡子は乗って来た。
「実はね、おぼあちゃん。私も故郷にお母さんが独りでいるんだけど、中々会いに帰れないのよぉ」
「あんたのお母さんなら、未だお若いんだろぉ~?」
「そうでもないの。私、もう36だし、昔にすればかなり遅い子だから、もう直ぐ74歳になるわぁ」
「ふぅ~ん、それなら私と5つちがいだね。それで、初対面のあんたにこんなことを聴いていいのかどうか分からないけど、あんたの場合、どうして帰れないんだい?」
「・・・・・・」
そこで佳代は暫らく黙ってしまう。引き込む意味もあるが、この場合、話の落としどころを考えているのである。
「あっ、ご免、ご免。私、余計なことを聴いたようだねえ」
「いえ、いいの。母親のことを思うとしんみりしちゃって・・・。帰れないのはね、母親の反対を押し切って東京の大学の文学部を出て、何れ作家になる積もりだから、食べられるようになるまでは帰らない、と啖呵を切ったからなのよぉ。今の私ではまだまだ帰れないわぁ・・・」
「どうしてさ? こんなに元気そうだし、仕事もきちんとしているんだから、意地なんか張っていないで、一度帰っておやりよぉ~」
「そうね・・・。でも、私のことはいいの。言いたかったのは、おばあちゃんにすれば私が帰れない理由なんて大したことではないように見えるだろうけど、息子さんもそんなことで独り悩んでいるのかも知れない。だから、あんまり悪く思わない方がいいのでは、ということなのよぉ。私と同様、きっと帰りたいとは思っているはずよぉ」
「そうだね。そうかも知れないねえ。分かったよぉ。私もまだまだ元気なんだし、息子が顔を見せる気になるまでのんびり待つことにするよぉ~。それで、さっき進めてくれた日本の歌のビデオ10巻と写真集のセットだったかい? あれを頂こうかねえ。7万円は少し高い気もするけど、何だか懐かしいねえ・・・」
故郷は遠きにありて思うもの
帰るには未だ恥ずかしいかも
その4 春未だ遠し
大林繁は人見知りが激しく、中々就職が決まらないでいた。もう卒業が決まっているのに、今からでは見付かりそうもない。どうやら就職浪人することになりそうである。
そんな繁の様子を見て、お多福出版のトップセールスレディー、大山佳代は採用試験用の添削付き講義集とCD、DVDが付いた英会話教材を進めることにした。初級、中級、上級全て合わせると100万円を超えるが、将来への投資だと考えるとそんなに高くはない!? それに、ローンを利用すれば、無理なく払うことが出来るはずである。
「でも、やっぱり高いなあ。就職も決まっていないのに、100万なんて払えないですよぉ~」
繁は何時になく気楽に話している。素顔に近い佳代だと緊張なく話せるようである。
「さっきも言ったように、ローンにすればボーナス払いも併用して月々1万円ちょっとでしょ!? 英会話教室に行くことを考えたら安いものだし、第一通う労力が要らない。それに、自分の都合に合わせて何時でも勉強出来るんだから、こんなに好都合なことはないわぁ!」
「でも、続くかなあ・・・」
と言いながらも、繁の顔は満更でもなさそうになっている。
話している内に、佳代の素顔が意外に整っていること、瞳が深く、透き通っていることに気付いたのである。
眩しくなって目を伏せると、よく動く唇からちろちろ見える歯が真っ白く可愛い・・・。
佳代は繁の気持ちの動きに気付いていた。だから、ときどき軽く唇を舐めたり、さり気なく足を組み替えたりする。
面白いように反応する繁のことに気付かない振りをしながら、
「国立の浪速大学をもう直ぐ卒業しようというあなたならきっと続くはずよぉ。自信がないのはやはり準備が足りなかったからだと思うの・・・。幾ら一流大学を卒業したからと言って、就職試験は別物。それに今の時代、社会に出ようと思うのなら、英語は必需品よぉ!」
気が付いたら繁は契約書を手にしていた。
あ~あっ、明日からバイトを増やさなければ・・・。
しかし、後悔はしていなかった。
どうせ要るものだし、また彼女が来てくれる。
そう思うだけで何だか春が近いような気になっていた。
買うだけで出来た気になる外国語
其の内本も開かないかも
その5 人はそんなに偉くない?
森尾恵美は人見知りが激しく、安アパートの福寿荘から出ることが殆んど出来なかった。アパート内でも、廊下に人気がないことを十分に確かめてから漸く自室を出て、共同のトイレに駆け込むぐらいである。食べ物と着替えは近くに住む母親が定期的に届け、その際洗濯物があれば持って帰る。身体はお湯で濡らしたタオルで拭いていた。
「そう。人と話すのが恥ずかしいのねぇ? でも気にすることはないわぁ。意外と多いのよぉ、そんな人・・・。別にあなたは特別でも何でもない。ちょっと感じ易いだけ。それだけ感受性が豊かなんだわぁ」
恵美は自分でもそんな風に思いながら自らを慰めるときがある。でも、今一慰め切れなかったが、はっきりとそう言って貰えると自分って意外と捨てたものでもないと思えて来て、心なしか顔が上向きになった。
「ほら、そんなに可愛い顔をしているじゃない!? それを俯いてばかりして隠していたら勿体ないわぁ。必要以上の自信は鼻持ちならないけど、あなたのように卑下し過ぎることもないと思うのぉ。あなたには好いところが一杯あるのよぉ。可愛いし、感受性が豊かだし、それに私の話を黙って聴いてくれる控え目なところ・・・」
「でも、私、外に出ようと思っただけで頭やお腹が痛くなって来るのぉ。それに、外に出ても私なんかにすることがないわぁ・・・」
「ウフッ。可愛いのねぇ・・・。私にもそんなときがあったから分かるけど、他の人も変わらないのよぉ。分かってみれば何でもないことなのぉ。ただ虚勢を張っているだけだわぁ。それに対してあなたは頭を下げているから真実が見えない・・・。でも、そこがあなたの好いところでもあるのよぉ。そんなあなたを評価する人の方がきっと多いはずだわぁ。でも、あなたは恥ずかしさに負けてしまって外に出ようともしない。嗚呼、勿体ないことねっ。どうかしら、一度対人スキルを学んでみたらぁ?」
「ええ・・・。でも、私、外には出られないから・・・」
「それでもいいの。辛かったら今直ぐに出ろなんて無茶なことは言わない。先ず家で落ち着いて勉強すればいいのよぉ!」
そう言いながら佳代はおもむろに教材のパンフレットを取り出す。
「ほら、これぇ! 色んな場面に対応出来るようにDVDが付いた教材セットよぉ。ビデオでの個人指導にも対応しているし、私もこれで自信を付けたのぉ。ローンも利くから、無理はないはずよぉ。どうかしらぁ?」
恵美は意を決してパンフレットを手に取った。
他人は皆思う程には偉くない
目を伏せたなら見えないのかも
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
セットで買っても意外と聴かないし、視ないのにのに、揃えてあると見栄えがし、好いような気がする。
CDやレコード1枚ずつ、カセットたビデオテープ1本ずつの値段にすれば割高になる。
そんなセットがこれを書いた当時よくあったし、今も通販で売られている。
要するに他人が選んで集めたものは、いざ持ってみるとしっくり来ないことが多いようだ。
また持っていることで安心してしまうのかも知れない。
これは何も私だけではなく、周りを観てもそう思われる。
語学教材もそうで、私が学生の頃、上記のような高い語学教材をよく売り付けられ、問題になっていた。