sanso114の日記

日々気になったことを気楽に書き留めています。

時には生駒を越えて・・・R2.3.17③

 気を入れて作られたものに命を感じることがあるが、あれは本当のことだからである。比喩的に魂を込めると言うのも、本当に魂の一部が込められている。だから、昔から人形、ぬいぐるみ等の玩具を主人公にしたファンタジーが書かれて来たし、団子や鯛焼きが動き出す童謡(※団子三兄弟、およげ!たいやきくん等)が歌われて来た。

 動物やロボットを擬人化したファンタジーが多いのもそれに近い。普通に見られる動物やロボットがまだ人間には程遠くても、その可能性としては同レベルか? いや見方によっては超えるものを感じるからこそ、お話の上では一足先に人間扱いしてみたくなるのであろう。

 このように、ファンタジーや童謡では理屈を超えた世界が感性によって描かれる。そして、大人になっても感性の鋭さを失わず、描写力を兼ね備えた人を、人は芸術家と呼ぶのだ。

 また、大人になっても失わず、と言ったことから分かるように、大人になるまでの一時期には誰でも鋭い感性を持っているし、大人になり切れない人も多分に残している。芸術家との違いは人に見える形でそれを表現出来るかどうかだけのことである。

 それでは人が大人になるに連れ、普通感性の鋭さを失うのは何故なのか!?

 それは現実、つまり目の前に実を結んで現われたことを本当のこととして受け入れ、迷わずに生きて行くことを求められた存在が大人だからである。そして、その現実の一部を上手く表現し、伝え易いアイテムのひとつが言葉なのである。

 つまり、現実はごく一部のことを指しており、言葉はそのまた一部しか表わし得ず、そのほんの一部のことを本当として受け入れているのが大人というわけだ。意思の疎通に苦労したり、時々真実との間で揺れて、息苦しくなったりするのも分かるだろう。

 そんな哀れで神様からすればちょっと可愛い存在(なんて自分で言っていれば世話はない?)である普通の大人が、少しでも広い意味での人間性を取り戻す為には一体どうすればよいのか!?

 一番は自然から力を得ることであるが、これが中々難しい。受け取る力、すなわち感受性がなければ、幾ら恵まれた自然の元に行ったところで、心身を一時的に休ませられるだけのことで、感性を取り戻すまでには至らない。

 そこで助けになるのが芸術である。芸術家が鋭い感性によって描き出し、それに触れることで我々凡人は感性を強く揺さ振られ、起こされるのだ。

 たとえば写真ひとつ取ってみても、優れた写真は場所、視点、角度、天候等、色々な要素を鋭く選び取り、一瞬にして描き出した芸術なのだ。だから、気が合えば観た瞬間にその世界に入ることが出来、懐かしくなったり、切なくなったりする。

 勿論、どんな作品でも気が合うというわけには行かない。そこが言葉とは違う不便さであるが、合った場合には言葉では考えられないほどのものが瞬時に受け取れるのがまた芸術なのである。

 そういうわけで私は、魂をこめて作られた物や感性で鋭く描き出された芸術作品には強く惹かれるものを感じ、親しく話し掛けずにはいられない。

 時々変な顔をされることもあるが、そんなことは別に構わない。折角感性に話し掛けてくれているのに、返事をしない方が変だし、第一失礼ではないか!?

「ふぅ~ん。それで父ちゃん、何にでも話し掛けているの? でも、やっぱりちょっと変やでぇ~。余所でも真面目な顔してそんなこと言わんときやぁ~!」

「もぉーっ、煩いなあ。ようやく乗って来たところやのに・・・」

 この話、語っているのは藤沢慎二である。ずっと病欠を取っており、今、秋頃の職場復帰を目指してリハビリ代わりに週3回の職場通いをしている。

 ここで話を置けば変だと思うかも知れないので、もう少し補足しておこう。実は、ここに慎二しか人間はいないから、上のように書いたのである。職場からの帰りに花園公園に寄って、昼食代わりにカロリーブロックを食べた後で、携帯電話機を取り出し、小論文と言うか何か、怪しげな主張を書いて独り悦に入っていたのであるが、足下に来た鳩に妻の晶子を感じ、話し掛けたのである。

 鳩は慎二が小さめの口の両端からぽろぽろと落としたカロリーブロックの欠片を忙(せわ)しなく突いていたのであるが、耳を澄ませてみると、

「もぉ~っ、父ちゃん。行儀悪いねんから・・・。ほんま、何時まで経っても子どもみたいやなあ。ウフッ」

 そう言っているように聞こえた。

 そして暫らくして、慎二が携帯電話機に打ち込んだものを覗き見て、何時ものように揶揄したのである。

 そう言えば、その鳩は家の近所の田んぼで、落ちている野菜くずや晶子の撒いた古米の欠片を突いている鳩のようにも見えた。

 生駒は頂上まで澄み渡り、風もなさそうである。麗らかな初夏の昼下がりであった。

 

        麗らかな初夏のそよ風頬に受け
        頭の中で対話するかも

 

     ☆     ☆     ☆     ☆     ☆

 

 実際に長期休暇を取り、暇だったので、色々小話を書いていた頃の作品である。

 

 暇だからこそ想像を膨らませられた。

 

 気忙しい時であれば頭の中が騒々しいと片付けたくなるのかも知れない。

 

        麗らかな初夏のそよ風頬に受け
        頭の中が騒がしいかも

 

 それでも実務をこなす必要があるのならば、前の作品に書いたような薬の力を借りることになる。

 

 実際に職場でも食後に1回当たり30錠ぐらい飲んでいる人がいた。

 

 この頃少食になっている私であれば、それで食事が半分ぐらい終わってしまいそうだなあ。フフッ。