sanso114の日記

日々気になったことを気楽に書き留めています。

とも遠方より来る,また楽しからず・・・R2.3.17②

「ファイルを削除するように簡単に消せはしないのさ、過去はぁ。フフッ。それにそのファイルだって、消えたのは画面上だけのことで、実はコンピュータの中にはちゃんと残っている。だから、プロからすればわけなく復元出来ちゃう。要するに、棄てる前にデータをしっかり壊しておかないとえらい目に遭うってわけさぁ。それと同じで、過去を棄てたければきっちり清算してからでないとね。フフフッ」

 小生意気な霊、シッテ・ルーダである。こいつの言うことを本気にしているとろくなことはない。ちょっと聞きかじっただけで全てを知った気になり、えらそうなアドバイスをしたがるのだ。

 でも、今の藤沢慎二には無視する力も、より強い言葉で押し返す力もなかった。その辺りがこの病気の辛さで、どんな奴のどんな言葉でも執拗に彼を責め立てる。まして、このときのようにもっともらしい言葉で迫られると、もうどうしようもなかった。

「うわぁーっ! や、やめてくれぇ~!」
「父ちゃん、父ちゃんってぇ! ほんま、一体どうしたんやぁ~? クリニックに行かへんのかぁ? はよ起きな遅れるでぇ~」

 目を開けたら、妻の晶子の心配そうな大きな目が慎二のだらしなく寝惚けた顔のすぐそばにあり、艶やかで潤んだ声が慎二の福耳に飛び込んで来た。

「あれぇ~っ!? シッテ・ルーダはどないしたんやぁ?」

 嗚呼、また変な夢を見たんやなあ。そう思っても晶子はさして心配そうな風も見せず、
「帰ったよぉ、その人。いや、霊かあ・・・。ともかく帰ったから、もう心配せんでもええでぇ~」

 慣れたものである。その落ち着いた対応に慎二はこれまでどれだけ助けられて来たか分からない。特に精神的に参って長期の病欠を取ってからは、晶子が居なければ悪い霊たちに何処まで振り回されていたことだろう? 考えただけで恐ろしくなる。

「母ちゃん。俺、寝てたんかぁ? あの薬、飲んだらすぐに寝てまうわぁ~。でも、また色んなことを言い聞かせに来はるから、ほんまかなんわぁ~。誰の言うことを聞いたらええのか分からへん・・・。なあ母ちゃん、一体誰の言うことを聞いたらええのん?」

 すっかり子どもに戻っている。

 晶子も心得たものである。初めこそひと回り以上は上の慎二に頼りこそすれ、頼られるのは想像もしなかったことなので、大いに混乱したが、慣れてしまえば何のことはない。もうひとり子どもが増えたようなものだった。

 それに、慎二はもう何年も前から家庭においては子どもと化していたから、実質的には何も変わらない。頼っていると思っていたのに頼られていた現実にムズムズしていた頃よりすっきりした分、かえって気が楽になった。

「そんなん、みんな勝手な好き勝手なことを言うねんから、好きなように聞いてたらええねん」

「え~えっ!? ほんまにそんなんでええのん?」

 半信半疑ながら、晶子の毅然とした言い方から安心感を得て、慎二はもうすっかり従う気になっていた。そしてそれが顔にも表われていた。

 それがまた晶子に自信を与えたのか? もう少し突っ込んでみる気になった。

「今飲んでいる薬、何やったかいなぁ~?」

「もしかしてグスミンのことかぁ~?」

「そう。そのグスミンやけど、ほんまに効いてるんかぁ~!?」

「効いてるかどうか分からへんけど、飲んだらすぐに気が遠くなって、何時の間にかぐっすり寝てるでぇ~。ぐっすり睡眠取れて、それでグスミンやぁ~。フフッ」

「ウフフッ。それはええけど、その所為か、怖い夢、見るんやろぉ~? それに起きてたら色んな霊が話し掛けて来るのも変わらへんのやろぉ~?」

「実際に居てはるねんもん、仕方ないやん」

 慎二は自分の言うことが疑われているようで面白くない。口をお猪口のように尖らせていた。

「ごめん、ごめん。別に父ちゃんを疑っているわけやないねんでぇ~」

 晶子は敢えて逆らわず、

「そうやなくて、居てはるは事実やろけど、幾ら霊が言うたからって、何も全部聞かなあかんことはないやろぉ~? それが今の薬では無理やけど、ほら、この前に澤田先生が薦めてくれはったあれっ!」
「あれっ、てぇ~?」

「ほら、あれやん! 聞きたくない声はブロックしてくれるというエラブワンやん。怖がらんと、あれ飲んでみたらどう?」

「そうやなあ。思い出したわぁ~。母ちゃんもそう言うんやったら、いっぺん飲んでみよかなあ・・・」

 以前に結構本気で嫌がっていたときほど逆らわない。

 と言うか、慎二自身も興味が湧いて来たのだ。怖くはあったが、自分では理性的な方だと思っている自分がどういう風に操られるのか? ちょっと見ておきたい気がする。今、自分および自分の頭の中に浮かんで来ることを題材に小話を書くことに凝っているだけに、余計にそう思うようになった。

 それに、どうせ既に霊たちによって散々に操られた身だし、医者が保証した薬だからより安全だろう、多分・・・。そんな安心感も手伝ったのである。

 実際には公的な保証がどれほどのものか? 社会で地を足に着けて生きていれば分かりそうなものだが、何処に行っても誰と何をしていてもプロになり切れない慎二にそれは当てはまらなかった。

 ただ、それも悪い面ばかりではない。何時でも初めての体験時のような緊張があったが、それだけ常に新鮮でもあり、今のように楽しめたのである。

 それだけではなく、主治医の澤田綾乃の魅力もあった。

 年恰好は晶子と同じぐらいに見えるから、35歳ぐらいであろうか? いや、社会に出てあれだけバリバリ仕事をしているのだから、実際にはもう少し行っているかも知れない。なぁ~に、先生だったら40歳を少しぐらい超えていたって構わない。

 勝手なことを思いながら、クリニックに行くと思っただけでもう、慎二は胸を高鳴らせていた。

 とは言え、目の前にいれば何が出来るわけでもなかった。舞い上がってしまい、それを悟られまいと身体を硬くし、目を伏せているのが精一杯であった。故郷のように遠くで思っているか、柱の陰から指を咥えて見ているだけで好い。慎二にとって、晶子以外の素敵な女性はアイドルなのである。

 それでもその日は晶子の手も借りて何とか話を進め、件の薬、エラブワンを2週間分貰って来た。先ずはお試し期間というわけである。

「なあなあ、何時飲んでも良いけど、一時的に頭の中が騒がしく感じるだろうから、車を運転したり、人の中で仕事をしたりする場合は夜の方が無難でしょう、と言うてはったなあ!? まあ俺の場合は車を運転せえへんから何時飲んでもええようなもんやけど、それでも夜の方が無難やろなあ」

 独り言ちながら、夕食後、エメラルドグリーンの小さな錠剤を2錠、口に放り込んだ。

 しばらくして慎二は、突然目をむいて、

「わぁーっ! わっ! 何やこれぇ~!?」

「父ちゃん、父ちゃん、一体どないしたん?」

 台所で洗い物をしていた晶子がエプロンで手を拭きながら飛んで来た。

 慎二はまだ目を白黒させている。

 晶子ははっと思い当たったように、

「もしかしたら頭の中が騒がしなったんかぁ~!?」

「うん!」

 気付いて貰えて慎二は嬉しそうに、

「慣れて来たら面白いわぁ、これぇ~!」

「何がぁ~?」

「あんなあ、霊が現われるのは同じなんやけど、こいつ何か変なことを言いそうやなあ、別に聞きたくないなあ、と思ってたら、犬が何十匹、いや、何百匹かぁ~? ともかく無数に出て来て、一斉にその霊を追い立ててくれるねん。面白いやろぉ~?」

「ふぅ~ん、沢山犬が出て来るのん? ほんま、面白いなあ・・・」

慎二の嬉しそうな顔を見ていると、不安ながらも晶子まで嬉しくなって来た。

「あっ! それでエラブワン言うんかぁ~? ウフッ。選ぶわんこでエラブワンやなあ。ウフフッ」

 独りで感心している。

 しかし、やがて慎二は戸惑うような顔になった。

「でもなあ、こんなん夜に飲んだら、前のグスミンみたいに寝られへん。ちょっと間はええけど、それはどないしたらええんやろぉ~?」

 でも晶子は、慎二が訥々と喋っている間に何か閃いたようで、自信あり気に口を開いた。

「そんなん大丈夫やぁ~。犬が何百匹と出て来るんやろぉ? 嫌な霊を追い払ってくれている間に、父ちゃんはのんびり犬を数えてたらええねん!」

「あっ、そうかぁ~!」

 慎二もパッと目を輝かせ、その目を静かに閉じて、小さな声で数え始めた。

「犬が一匹、犬が二匹、犬が三匹、・・・」

 まだまだ寝入り易い初夏の夜であった。

 

        犬数え次第に意識霞み出し
        夢の世界を彷徨うのかも