第3章 その1
ラジオから文化の香り感じたか
熱心に耳傾けたかも
3年になってから藤沢慎二は、以前先輩の橋詰勲に、
「ええから絶対に聴けよぉ! それに、受験勉強のペースメーカーにもなるしぃ」
と教えて貰った旺文社のラジオ講座を結構熱心に聴いていた。
橋詰は体格が好く、北河内高校柔道部のポイントゲッターであったし、ここ数年では珍しく、北河内地区でも中量級で3本の指に入るぐらいの猛者であった。
それでいて成績はそ450人中50番を下ることがなく、現役で国立浪速大を通るのは確実と思われていた。
実際には体格の好さを見込まれ、高3の秋までラグビー部の試合要員にも借り出された為、浪人するはめになってしまったが、それでも高2になって定期試験の成績においてのみ漸く近付くことが出来た慎二にとって、1年の頃からいわば雲の上の存在であったから、橋詰の言うことは、日々の授業を適当に流している教師たちのアドバイスよりも余程心に染み入ったのである。
旺文社のラジオ講座は毎日放送される1時間ほどの番組で、普通1回の放送に2科目の講義があった。
講師の陣容は竹内均の物理、森野宗明の古典、その他受験界に名の通った錚々たるメンバーで、何か高校とは違う洒落た世界に触れているような気がしたのだろう。慎二は、一足先に大学を覘いたような気になっていたのである。
たとえば、何かの折に竹内均が寺田寅彦の科学エッセイ、「茶碗の湯」に刺激を受けたとしみじみ話しているのを聴き、そのときばかりは理学、特に地球物理の道へと進みたくなった。暫らくの間、竹内均が講談社のブルーバックス、NHKブックス等に書いた一般人向けの教養書を読み漁ったものである。
また、橋詰が言うように、毎日夜の11時過ぎから1時間放送される、と言うことが一つのペースメーカーになった。夕食後少し休み、8時半頃から勉強を始め、10時半10頃までの2時間あまりは自分で予定を決めた勉強をする。その後、30分ほどで簡単に予習を済ませてラジオ講座に耳を傾けた。
ラジオ講座までの密度の濃い時間は、結局高3になるまで定期試験前以外に纏まった家庭学習をして来なかった慎二にとっては、結構きつかった。それがラジオから流れて来るベテラン達の手馴れた様子の落ち着いた声に触れることにより、スゥーッと癒されて行く気がしたのである。
通学路友と語らい過ごす日々
受験を前に癒し合うかも
学校ではまだ黒帯が取れない慎二を残して、同学年の部員は引退していたので、放課後、5時過ぎまでの間、慎二は柔道部の練習に参加し、柔道部の優等生で、慎二がライバルと思っている松本昭雄は図書室で勉強していた。
お互いの予定が終わってから待ち合わせて京橋まで一緒に帰る。北河内駅までは歩いて10分ほどであったが、それから京橋まで30分近く掛かるので、その間に色んな話が出来、緊張の高まった高の時期におけるいわば癒しの時間であった。
話題は何でもいいのである。受験を1年後に控えて緊張が高まるからと言ってそれに関する話題を避けるわけでもない。異性のこと、アイドルのこと、スポーツのこと、音楽のこと、本のこと等と同じレベルで進路のこと、受験勉強のこと、成績のこと等も気楽に話し合える時間であった。
ある日のこと、北河内駅から電車に乗り込み、隣同士の席に落ち着いたとき、この頃読んでいる本の話題になり、慎二がここ暫らく、ずっと竹内均の著書を読んでいることを伝えると松本が言う。
「それやったら、もうちょっと頑張って竹内均の居てる国立東都大学を狙ったらええやん。お姉ちゃんが言うとったでぇ~。適当に妥協したら後悔するってぇ」
松本の姉、美佐子は市立浪速大学の医学部を狙っていたのであるが、願い叶わず、国立浪速大学の医療短気大学部に入ったのである。家庭のことを考えて浪人しなかったことを多少悔やんでいるらしい。
いや、サークル活動、宗教活動等において結構充実したキャンパスライフを送っているらしいから、自分のことはもう好いのだろう。
ただ弟の昭雄の友だちとして共感し、もし自分が男であったならと言う前提で果敢なチャレンジを勧めているのかも知れない。
「う~ん、でもなあ・・・」
慎二の返事は煮え切らない。下宿も浪人も出来ないと思っているし、第一、天下の東都大学となると、勉強では想像も付かないほどの高い障壁があるように思われるのである。
だから口にする気にもなれない。
「そんなことやってみな分からんし、それに来年無理でも、浪人したら行けるかも知れんやろぉ?」
松本は自分が下宿せざるを得ない地方の国立大学医学を浪人覚悟で目指し、それもアルバイトと奨学金で行く積もりでいるから、自分に出来て慎二に出来ないわけがないと思っている。
「でも、東都大学以外にも地学科のある大学は幾つかあるけどなあ・・・。まあゆっくり考えてみるわぁ~」
松本ほど進路について具体的なイメージがあるわけでもない慎二は話を適当に合わせ、切り上げた。
それで話が終わったと思ったのか、松本はその頃流行っていた「試験に出る英単語」を取り出した。
「ふぅ~ん、お前もそれ持ってるんかぁ~?」
そう言いながら慎二は、鞄からおもむろに使い込んだ「試験に出る英単語」を取り出す。
松本は意外そうな顔になる。
「お前、凄いやん。それ、一体何時からやってるねん?」
「フフッ。・・・」
慎二は笑って答えない。
「でも、その割に英語は相変わらず大したことないなあ」
英語の得意な松本は失礼なことをズバッと言う。
「ハハハ。そりゃそうやぁ! ハハハハハ。近所のお姉さんに貰っただけやもん」
黙っているのに耐え切れなくなった慎二は正直に明かした。
「ふぅ~ん、どんなお姉さんやぁ?」
松本は其方に興味を持ったようである。
「どんなお姉さんや? ってやなあ、そうやなあ・・・」
慎二は頭の中で想像を膨らませ、直ぐには答えない。
松本は焦れて、重ねて聴く。
「そんなに勿体ぶったら余計気になるがな。そのお姉さんは一体どんなお姉さんや、ってぇ?」
「ハハハ。凄く綺麗なお姉さんやでぇ。それにスタイルも抜群やし・・・。でもまあ、母親がパートに行っているとこのお嬢さんで、6つも年上やから、俺には全然関係ないけどな。ハハハハハ」
その女性は、慎二の母親の祥子がパート勤めしている既製服縫製工場のお嬢さんで、熊本真理子と言う。実際によく考えてみれば慎二の言った通りの健康美人であったが、これまで年上の女性は端から対象と思っていなかった慎二は、松本に突っ込んで聴かれるまでは考えてもみなかった。
しかし、改めて脳裏に浮かべてみると、どうして今まで対象としなかったのか不思議だし、惜しい気がして来た。
どうやら進路の場合と同様、慎二は異性に関してもまだまだ視野が狭かったようである。
松本も同様で、慎二にはあまり関係がなさそうだと分かると、それで納得したのか英単語の暗記に掛かり始めた。
慎二はちょっと肩透かしを食ったような気がしたが、強いて続けるほどのことでもなく、仕方なく進路について再考してみることにした。
改めて思い起こせば気になって
また新たなるマドンナ候補
脳裏から消そうとすると、慎二は真理子のことが気になり始めた。
このときの慎二にとって、進路はこの程度のことであった。
高1のとき、急な用事で母親の勤務先を訪ね、偶然6つ年上の真理子に出迎えられた慎二は、静かでしっとりとした光を湛える真理子の瞳に吸い寄せられ、珍しく、暫らくの間目を逸らすことが出来なかった。
目を逸らした真理子の風情にも同級生には感じられない大人の女性の馨りがある。
それから何を話したか分からないほど慎二は逆上せていたが、母親の手が空くまでの間、カルピスを出してくれたことだけは、その甘酸っぱい味と共に何時までも覚えていた。
それでも人間面白いもので、感じようとしなければ感じないものである。慎二はその後に母親から真理子のことを聞いても、恋の対象の噂を聞くようなときめきはなかった。
それが此のとき、進路のことで多少視野を広げられ、自分の成長を感じたことで、慎二は俄かに真理子のことが気になり始めた。
しかし、真理子は確か23歳になっているはず。幾ら大人しい箱入り娘だと言っても、あれだけ綺麗なんやから、恋人がいないわけがない!?
そう思っただけで慎二は焦りを覚え、何だか切なくなって来た。
慎二は片思いの対象をまた1人増やし、17歳の春を持て余していた。