sanso114の日記

日々気になったことを気楽に書き留めています。

季節の終わり(17)・・・R2.7.23①

          第5章 残酷な季節

 

              その7

 

 更に2日後の木曜日の夜のこと、途中で食事を済ませて家に戻った藤沢慎二は真っ直ぐに書斎に入り、パソコンを開いた。

 教え子の広瀬学の母親である朋美に背中を押されてから何回かは電話を掛けようとしたものの、どうしてもプッシュボタンを押す指が止まってしまい、最後まで押せた時であっても、亡くなった松村美樹の訪問担当教師である森田晶子が取るまでに胸が高鳴り過ぎて耐えられず、慌てて受話器を置いてしまうのであった。

 情けないとは思いながらも、結局、電話で告白する勇気がとても出ないので、悪筆を隠す為にパソコンを使って手紙を書き、お互いの雰囲気を少しでも気楽にしようと言う積もりらしい。

 

森田先生

 お元気ですか。お騒がせしてごめんなさい。でも、どうしてもあなたに連絡したかったので、またお手紙させて頂きました。

 さて、私はまた松村美樹ちゃんとあなたが来る以前のように広瀬学君を訪問して、一緒に勉強することを続けています。

 そう思えば何も変わらないはずなのに、でも何かが違う。

 当たり前ですよね。もう美樹ちゃんを知り、そしてあなたを知ってしまったんだから。胸の中に大きな思い出が出来てしまったんだから、前と同じはずがありません。

 そんなわけで私は今、胸に大きな空洞を抱えながら病院を訪問し続けています。

 でもよく考えてみれば、あなたからのお便りに甘えて、こんな風に親しげな手紙を書かせて頂いておりますが、私はあなたのことを殆んど知らないし、あなたも私のことを殆んど知りませんね。失礼して、改めて自己紹介させて頂きます。

 私は1963年に大阪市内で生まれ、1986年に浪速大学の理学部基礎科学科を卒業して現在に至ります。

 教師になる前の2年半ほどは神奈川県の川崎市にある受験関係の小さな出版社に勤めていましたが、昔教師になることを目指し、経済的な事情で泣く泣く諦めた母の影響か、多少収入が好くても、何時までも自分にとって微妙なところに勤めているよりは、やっぱり教師になろうと一念発起し、25歳の時に大阪府の教師に転職しました。

 初めは秋川高校に赴任し、元気盛りのやんちゃな生徒たちに揉まれていましたが、その後、少しだけ落ち着いた山鉾高校を経て、昨年、縁あって今の曙養護学校にやって来ました。

 そして、どうやら私には今の学校が合っているようで、心身共に大分リラックスして来たようです。

 私の半生なんて振り返ってみても精々この程度で、大したことは書けません。持っている資格は運転免許ぐらいかなあ。取ってから暫らくは乗りましたが、それも今では完全なるペーパードライバーです。

 思わずお喋りになってしまいました。好かったら、またあなたのお話を聞かせて下さい。それではまた。

                          1994年10月9日

                                 藤沢 慎二

 

 翌日、この手紙を思い切ってポストに放り込んだ慎二は、それから暫らくは返事を今か今かと待ち侘びた。

 

 しかし、1週間経っても未だ返事が来ない。

《住所から考えても普通であれば2日後には着くはずやから、もう着いていてもいい頃なのになあ? 一体どうしたんやろう!? 調子に乗って、何か失礼なことでも書いてしまったのかなあ? もしかしたら何か事故でもあって着かなかったんやろうか!?》

 色々気を回してしまい、その日慎二は疲れ切り、着替えもそこそこに寝床に就いた。どうやら、こんな時には日記を書く元気さえも出ないらしい。

 

 翌日、祈るような気持ちで家に帰って来た時にも、やっぱり返事は来ていなかったので、慎二は今度こそもう少しはっきりと返事を求めるような手紙を書くことにした。

 

森田先生

 お元気ですか。しつこくてご免なさい。先日、私が思わせ振りな手紙を書いて、一体何が言いたいのかよく分からず、あなたが迷惑していないかと思い、またお手紙させて頂きました。

 今度こそ思い切って、はっきり言います。

 出来たら私とお付き合い頂けないでしょうか。

 私は先生に会ってから、仕事で訪問しているわけだし、病院と言う状況で、そんなことではいけない、と思いつつも、寝ても覚めてもあなたのことが忘れられなくなってしまいました。年の差、そしてあなたの輝きを思う時、中々勇気が出なかったのですが、忘れようとすればするほど、心の中ではあなたの存在が却って大きくなって来るのです。

 あなたにすればいきなりかも知れませんね。びっくりさせてご免なさい。

 でも、私の中ではずっと繋がっており、もうあなたに会えないと思うと耐えられなくなり、どうしてもお便りしたくなったのです。

 何度でもお願いします。あなたのことを真面目に考えていますので、よかったらお返事下さい。のんびり待っています。

 それではまた。さようなら。

                         1994年10月17日

                                 藤沢 慎二

 

 この手紙を出してから暫らくしても、またもや何の音沙汰もないので、慎二は益々落ち込み、病院にいる学を訪問しても上の空であった。

 そんな様子を見ても、朋美はもう何も言わなかった。慎二が何かしているらしいと気付いてからは、そっと見守ってくれているようである。

 慎二にとってはそれが有り難いような、もう少し構ってくれても好いのにと思い、何だか淋しいような、ちょっと複雑な思いであった。  

 

        勇気出し手紙書いても返事なく

        微妙な時が過ぎて行くかも

 

        また手紙書いてはみても返事なく

        胸の不安が高まるのかも

 

            その8

 

 10月も末になって、今度は慎二の家に晶子からの手紙が届いた。

 

藤沢先生

 何度もお手紙を下さり、どうも有り難うございました。

 それなのにお返事を中々差し上げず、いえ、差し上げられず、どうもすみませんでした。

 先生はこんなに情けない私を、あんな風に好意を持って思って下さり、大変有り難く思っています。

 でも、大変申し訳ないのですが、今の私には未だ美樹ちゃんのことで頭が一杯で、あなたの大変有り難い申し込みを受け入れる余裕などとてもありません。

 家に居ても、学校に出ていても、何かあれば美樹ちゃんとのことが思い出され、今は未だ男の方とお付き合いする気持ちには到底なれないのです。

 考えてみればあなたと出会ったのも何かの縁で、それは私にとっても大切な思い出です。だから私からあんな風にお手紙を差し上げたのですが、その後のあなたからの手紙を拝見し、身に余る思いに震える毎日でした。

 早くお返事を出さなければこれであなたとの縁が切れてしまうかも知れない。それでは辛過ぎる。でも、今出したら、私にはあなたの愛に応える自信がない。嗚呼、どうしたらいいんだろう。

 そんな思いに揺れながら日々を過ごしていました。

 でも、あなたが勇気を出して告白して下さったのだから、それに甘えて、私も正直に今の気持ちをお伝えすることにしたのです。きつかったら本当にご免なさい。

 最後に、誠に勝手な言い分だとは分かっていますが、今暫らくはそっと待っていて頂けないでしょうか。

 お返事を差し上げる余裕が出て来たら、きっとさせていただきますので。どうかよろしくお願いします。

 それではお元気で。さようなら。

                         1994年10月30日

                                 森田 晶子

 

 慎二は晶子からのはっきりした愛のメッセージを感じ取り、もう天にも昇る気持ちであった。今はどうしようもなく、静かに時が満ちるまで待つしかないが、確かな手応えを感じ、もう何も思い悩むことはなかった。

 何度か読み返した後、慎二はその大事な手紙を掴んで、安心して書斎に飛び込んだ。

 今度は晶子への手紙でなく、久し振りに日記を書く為である。

 それから慎二は、何度も何度も晶子からの有り難い手紙を読み返し、何度も何度も喜びをパソコンのキーボードに打ち込んで、気が付いた時には東の空が薄明るくなり始めていた。

 

10月30日

 遂に来た。晶子さんからの返事が遂に来た。

 直ぐには付き合う余裕がないとのことであったが、私への熱い思いははっきりと感じ取ることが出来た。

 それで好い。年齢からちょっと考えたら変かも知れないが、私とて別に焦っているわけではない。晶子さんの愛をもう少ししっかりと実感したかっただけのことである。

 さて、これからである。

 これから焦らず、この愛を大きく育てて行きたい。その為にも、目の前のことに手を抜かず、日々こつこつとだなあ。結局はそれが一番彼女との距離を近付けてくれるように思われる。  

 

        遂に来た思いの籠る手紙読み

        待つ時間さえ嬉しいのかも