第2章 大震災
その3
1995年1月9日の月曜日、藤沢慎二の勤める曙養護学校では3学期の始業式が行われ、11時前に生徒たちを帰りのバスに乗せた後、幾つかの打ち合わせを残すだけであった。
暫らく待ってその打ち合わせをすべて終え、腕時計を見ると12時少し前になっていたので、慎二は、
《昼食を食べ、3時なるまでどうして時間をつぶそうか? 未だ授業は始まらないし、のんびり本でも読んでいようかなあ。それとも、久し振りに日記でも付けるかぁ~》
迷いながら、学校近くの喫茶店、「我太郎」に行くことにした。
「我太郎」は手頃な値段でボリュームたっぷりの定食を出してくれる庶民的な喫茶店で、給食のない時期には同僚たちもよく利用していた。
普段、曙養護学校では給食が出て、指導、介助も兼ねて生徒たちと一緒に食べるので、手が掛かる生徒の場合を受け持っている場合は、自分については何とか栄養補給をするのが精一杯であるが、そうでもない場合は昼食の心配をする必要がなく、重宝していた。
第一に、1日当たり300円も掛からなくて栄養的にもしっかり計算されたものが食べられるのだから、慎二のように不精な独身教師にとっては、身体のリズムを整える意味でも欠かせない制度であった。
この日、「我太郎」は思いの外空いていた。
《どうやら始業式の日は、生徒だけではなく、教師も未だ心身共に正月モードで、仕事などする気になれず、何とか式を終えたら、それだけで帰ってしまう教員が多いようやなあ。それとも新しく出来たラーメン屋、「時の旅人」に行く先生が増えたのかなあ。でも、金石先生によると、あそこのオヤジは時々ラーメンのスープに親指を突っ込んで出す、とか言っていたから、それを聞くと、何だか行くのを躊躇うなあ・・・》
想像しただけで慎二は、油ギッシュなオヤジの節くれ立った太い指を舐めているような気がし、ゾクゾクとして来た。
そんな空想に耽り、ぼぉーっとしている慎二の向かいの席に腰を下ろそうとする人があり、その気配で慎二はハッとして腰を浮かした。
「あっ、秋山先生。あけましておめでとうございます! 今年もよろしくお願いします」
「あけましておめでとう。こちらこそよろしく。ここに座っても好いのかな?」
そう言うと秋山本純は、返事も聞かずに初めに座ったカウンター席から持って来た自分のコップを置き、ドカッと腰を下ろす。
秋山は慎二より一回り以上年上のベテラン教師であったが、気さくでエネルギッシュな男であった。
「ところで、どうしたんや!? 何だかボォーッとしていたなあ」
「いえ、ちょっと考え事をしていただけで・・・」
それを聞いて秋山は悪戯っぽい顔をしながら揶揄するように言う。
「さては、冬休みに何か好いことでもあったのかな!? もしかしたら見合いでもしたんか?」
「いえ、そんなこと、していませんよ!」
慌てて打ち消しながら慎二は森田晶子とのことを思っていた。そして自分のことを持てないと決め付けて、迷わずに、見合いをしたのか? などと言う秋山の期待を裏切る喜びに包まれていた。
「でも何だか怪しいなあ。藤沢先生、えらい嬉しそうやでぇ~。ほんまに、何があったんや!? ほれほれ、正直に言うてみぃ~」
秋山は隠そうと思っても綻びて来る慎二の顔を見ていると、ムズムズして来るようである。
「本当に何もありませんよ! 今日、久し振りにみんなの元気そうな顔を見て、嬉しくなっただけですよ・・・」
「本当かなあ? 何時も教室に籠もっている藤沢先生がそんなことを言うのは、何だか信じられないなあ。なあ、誰にも言わへんから、僕だけに言うてみってぇ~」
あくまでも秋山は聞き出そうとする。
慎二はそんな秋山の追及をこの時ばかりはむしろ嬉しいものに感じながら、結局大したことを言わないまま、久し振りに一緒になった食事を終え、学校に戻った。
学校に戻ってから、何とかフワフワする2時間ほどを教室で遣り過ごした慎二は、上気したままの様子で学校を出た。
その弾むような背中を見ながら秋山は独り言ちる。
「やっぱり何や怪しいなあ? あいつ、秋口に婚約解消したとか言うてたけど、また新しい話があったんとちゃうかぁ~!? のらりくらりと隠しよるから、余計に怪しい。きっと何かあるなあ・・・」
気さくな風を装ってはいるものの、エネルギッシュな男は総じてねちっこくもあるのである。秋山はそれが自分でも分かっていて、何となく恥ずかしく思っているから、わざと声を大きくし、弾むように話して、糊塗しようとしているところが多分にあった。
大阪駅の中央コンコースに着いたのは約束の20分ほど前で、慎二は途中で少し早いことに気付き、
《あんまり早く行ってもそわそわして落ち着かへんから、少し駅前の本屋でも覘こうかなあ・・・》
と一旦は思ったものの、それも落ち着かない気がして、やっぱりそのまま約束の場所まで行ってしまうことにした。
ここは結婚まで行きかけた安永麻衣子との初めての待ち合わせでも使ったところである。慎二は、
《もう麻衣子とのことは一刻も早く忘れ去っててしまいたい》
と頭では思っていながら、強い疑問を感じながらも彼女と経験して来たことをついついトレースしてしまうのであった。
それから、色んなカップルの様子に自分と晶子のことを重ね合わせ、想像を膨らませている内に、改札口に晶子の姿が見えた。
駅の時計は4時5分前を指している。
《何て可愛いんやぁ!? それに、約束の時間より5分も早く来てくれた・・・。それに比べて麻衣子は何時も15分、下手したら2、30分も遅れて来て、何やかやと言い訳をしていたなあ・・・。ほんま、えらい違いやでぇ~》
慎二は、晶子のオフホワイトの暖かそうなセーター、リーバイスのジーンズにシンプルなハーフコートと言う学生っぽい出で立ちにも、麻衣子にはなかった好ましいものを感じずにはいられない。
化粧をしようがしまいが、どんな服装をしていようが構わない、と言う風に常々口にし、自分でもそう信じていながら、慎二は服装、化粧をばっちり決めた大人の女性には気後れがして、そんな自分を正当化する為、ついつい悪く思ってしまうのであった。
普段着に着替え、化粧を落とした時の顔があまりに変わっていると、自分を意識して美しく装ってくれたと素直には喜べず、人間性に嘘を感じ、嫌な感情を抱くのである。
中国では裏表があってこそ大人と言うらしいが、慎二にはそれは許されない悪徳であった。
「こんにちは。お待ちになりました?」
「いえ、そんなことはないですよ。それで何処へ行きましょうか? 取り敢えず食事でもしますか?」
慎二は返事を待たずに勝手に決めて北口の方に歩き出す。最近出来たスカイビルの方に連れて行こうと思っているのである。
そこも勿論、以前麻衣子と一緒に来たところであった。
「ええ。でも、未だ早いですね!? それに、今日私は7時過ぎに約束があるので、御茶ぐらいで好いですか?」
《一体誰だろう、7時から晶子さんと会う人って!? 男の人かなあ? いや、晶子さんに限って、そんなことはないやろ。二股掛けるなんてありええへんわぁ~。でも、俺とは食事が出来なくても、その人とは一緒に食事をするんやろうか?》
慎二は多少動揺しないでもなかったが、それを決して顔には見せていないつもりで、むしろあっさりと言う。
「分かりました! それじゃあ、落ち着いて話せる喫茶店でも探しますかぁ!? この辺りはあんまり知らないんですけど、最近あそこに出来たスカイビルにでも行ってみましょうか?」
またもや勝手に決めてすたすた歩き出す慎二の後に、晶子は黙って従った。
本当は約束などなかったのであるが、晶子も慎二と同様に対人緊張が強く、初めての人、特に男性と食事をすると喉がキュッと絞まって食べ物が通らなくなる気がし、出来れば避けたかったのである。
もっともこれは、2人の関係がもう少し慣れてから慎二が晶子から直接聴いた話である。
さて、スカイビルで入った喫茶店には高層ビルの特性を利用した見晴らしの好い展望席があり、対面しなくても済むので、恥ずかしがりの2人にはちょうど好かった。
「こんな風に横に並んで座っていると、何だか映画の、ほら、家族ゲームみたいですねえ」
慎二はちょっと前にテレビで観た映画(※)を思い出しながら、面白そうに言う。
※1983年に公開された森田芳光監督、松田優作主演の映画、「家族ゲーム」のこと。横並びに座って食事をする家族の光景が鮮烈な印象であった覚えがある。
《あれなら話題に出しても恥ずかしくないやろう!? もしかしたらセンスの好さを感じ取って貰えるかも知れないなあ・・・》
と言う下心もあった。
「ほんとですね!? 私もあれ、観ましたけど、凄く面白かったわ・・・。映画はお好きですかぁ?」
「いえ、そうでもないんですけど・・・」
そう言いながらも慎二は、他の何か話題になりそうな映画を記憶の中から探そうとしても、近頃は、晶子にはとても言えそうにないビデオしか借りた記憶がない。
「好かったらまた時間がある時に映画でも観に行きましょうか!? ほら、今やっている寅さんなんかどうですか?」
正月映画でやっているのを思い出したのである。
「ええっ、寅さん!? ・・・」
晶子は何だか引いている。
「いや、寅さんが嫌なら、何でも好いんですよ。それに映画でなくても好いし・・・。どうです。今度の日曜日に、神戸でも行ってみませんか? 北野、なんかも好いですよ。歩いてみませんか?」
慎二はちょっとしくじっただけのことに必要以上にオロオロしながら、晶子の顔色を窺がいつつ、慌てて方向を変えようとする。
「そうですねえ。私、北野には一度も行ったことがないから、是非連れていって下さい! 確か、風見鶏の家、とかあるんですよね?」
晶子が乗ってくれたことで胸を撫で下ろし、慎二は一度のしくじりで完全に引いてしまわない晶子をまた好ましく思うのであった。
それからもギクシャクと不器用な会話を交わしている内に外は大分暗くなり、やがて明かりが灯り出すと、夜景が美しく、慎二は陶然としていた。
「あっ、もうこんな時間に!?」
晶子の声にハッとして腕時計を見ると、もう約束があると言う7時に近かった。
楽しい時間は早く、そして、それとの別れが辛い。
しかし、慎二は漸く2人の間に何とか道が付いた安心感に満たされ、ここはあっさりと別れることにした。
その翌日の夜、慎二は思い切って晶子に電話を掛ける。
電話での声が抑えているようでも明らかに弾んでおり、どうやら晶子もそれを待っていたようであった。
(書いているとこそばくなって来るので、ここから暫らく中略)
さて、他愛無いことを遣り取りし、気が付いたら1時間半が経っていた。
「ごめん。知らん間にこんなに長いこと話してしもた。晶子さん、忙しくなかった? 何だか声が嗄れているなあ・・・」
📞いえ、楽しかったわ! 小さな声で長い間喋っていたから嗄れて来るだけ。気にしないで好いの。
高く、澄んでいた晶子の声が、目立つほどに嗄れている。
元気盛りの中学生を相手に一日叫んで来た後、慎二と長い間言葉を交わし、晶子の喉は限界のようであった。
「気が付かなくてごめんな。ほな、今日はこれで。また掛けても好いかなあ?」
📞ええ。何時でも掛けて来て!
お互いに言い方が大分気安くなっているし、声にはすっかり甘えが籠もっている。前日の、緊張するままに長い時間を共にし、堰を切ったようにお互いのことを話し合った初めてのデートを経て、かなり打ち解けたらしい。
それからは毎日、慎二は夕食を済ませて帰宅し、8時になると決まって晶子のところに電話を掛けた。そして1時間半が翌日には2時間になり、数日後には3時間になっていた。
中には、途中でトイレに立ち、急いで風呂に入り、掛け直してまた1時間と言うこともあった。
やがて、毎日寝るのが夜中の1時、2時になり、それに従って寝る時間が5時間、4時間と減って行っても、慎二は眠い目を擦りながら、平気な顔をして学校に出ていた。
一度始めると、電話をしないと気持ち悪かったし、
《電話をしないと、もしかしたら晶子さんに冷たい奴だと思われはしないか!?》
と心配になって来るのである。
そうして迎えたのが1月16日(月)、3連休最終日の神戸方面へのデートであった。慎二と晶子は毎日の遣り取りで急速に接近し、既に何時も一緒にいるかのような親しみを感じていた。
この日も北野、三宮、中華街と、お互いのことを語り合いながら歩き回り、そして神戸駅に近いホテル内にある鉄板焼きのレストランで夕食を摂って、帰宅したのが11時に近かった。
《もう遅いかなあ!? それに、疲れているやろうし、やっぱり明日にしようか?》
と多少迷ったものの、慎二はついつい受話器を手にしてしまう。
晶子も既に帰っていた。
そしてやはり予想通り待っていたようである。
それから浮かれるままに1時間以上喋り捲くり、風呂に入って横になったのが翌日、1月17日の1時過ぎであるから、慎二が異様な揺れに突然揺り起こされるまでにはもう4時間ほどしかなかった。
少しずつ距離が近付く二人には
日常さえも輝くのかも
震災の前の静けさ辿りつつ
余計緊張感じるのかも