第5章 残酷な季節
その6
2日後の火曜日、広瀬学を訪問し、学の母親である朋美との懇談も終えた藤沢慎二が帰り支度を始めようとすると、朋美は未だ名残り惜しそうな様子である。
さりとて、何か話し出す風でもない。小心者の慎二はそのままではどうしても帰り切れず、確認せずにはいられなかった。
「どうかしましたか? 未だ何か心配なことでも・・・」
朋美はそれには答えず、
「ねえ先生。私、昼前に買い物に行ったんだけど、買い漏らしたものがあるから、そこまで一緒に出ようか?」
と誘う。
《朋美は一体何が言いたいのやろう?》
と不安ながらも、学は適度な勉強疲れも手伝って安らかな寝息を立てているから、暫らくは放っておけそうだし、
《もしかしたら朋美は、森田晶子さんのことで何か新しい情報でも掴んでいるのかも知れない》
そう思うと、慎二は素直に従うしかなかった。
因みに今、慎二は心の中で思う時にも晶子のことを丁寧に呼びたかった。教え子の松村美樹が亡くなったからと言うだけではなく、それだけ慎二にとって晶子は大事な存在になりつつあった。
病院を出ると朋美は、近くの商店街に入り、慎二が付いて来るものと信じて疑わないように、振り向きもせず、ずんずん前を行き、迷わずに地域では多少知名度のある読書喫茶、「らんどく」に入った。
どうやらマスターの重田敬三とは懇意なようで、
「ごめんね。学のことでちょっとしんみり話したいので、2階の読書室を借りるわね。適当な時にホット2つ持って来て・・・」
と、慎二の意見も聞かずに勝手に注文を済ませ、カウンターの横にある階段をさっさと上がって行く。
マスターも朋美のそんな遣り方には慣れているようで、大して興味もなさそうな様子で、軽く頷く。
2階にはちょっとした学校の図書館を思わせるほどの沢山の書棚の他、3畳ほどの読書室が4つあり、何れも独立を保てるように上手く配置されていた。
と言っても、それは音だけのことで、殆んどガラス張りの為、インターネット喫茶に感じられるようないわゆる隠微な雰囲気などは全くない。
その読書室の内のひとつに入り、慎二がやっと腰を落ち着けたと思うまもなく、朋美が切り出す。
「それでどうなの。その後、森田先生からは何か連絡でもあったの?」
幾ら惹かれていたとしても、慎二から何か連絡するなどと言うことは先ずないだろうと、この半年の付き合いで朋美にははっきり分かっているようである。
いきなり核心に触れられ、慎二としても常に意識していることだけに隠しようがなく、晶子から心の籠もったお礼の手紙を貰ったこと、その大体の内容に付いて、掻い摘んで話した。
それを聞いて朋美は、益々目を輝かせ、身を乗り出して畳み掛けるように聞く。
「それで先生はそれに対してどうしたの? 勿論返事ぐらいは出したんでしょうね!? それとも・・・、先生は携帯を持っていないって言っていたからメールは無理ね。清水の舞台から飛び降りるぐらいの勇気を出して電話でもしたの?」
慎二はその勢いに飲まれるような不安を覚えながら、
「ええ。勿論、返事はしましたよ。手紙でね。と言っても、期待されるようなものではなく、ほんの挨拶程度ですよ・・・」
無難な答えで、何だか卑下する風である。
朋美は如何にもじれったそうに、
「もぉ~っ、先生はどうして何時もそんなに自信がなさそうなの!? 確かに森田先生は先生より大分お若くて、その割にしっかりしていて、多少地味だけど、よく見れば凄くお綺麗だから、先生としてはそうなるのも分からなくはないけど、先生は何時でもそうだもん。ほんと、苛々して来る。先生だってよく考えれば捨てたもんじゃないわよ。もっと自信を持たなくっちゃ・・・」
そう言ってから朋美は改めて慎二をしげしげと見回す。
それからおもむろに、確信を持って慰めるように付け加えた。
「背は高からず低からず、太からず細からず、年の割に、そんなにお腹が出ているわけじゃない。顔だって十人並みだし、そんなに高給取りでもないけど、ある程度実入りは好いし、親方日の丸だから仕事は安定している。それに、現役で国立浪速大学の理学部を出ているんだから、誰に恥じることなんかないじゃない!?」
「でも、そんな風に並べ立てられると、かえって結局はどれも中途半端やなあ、って思えて来ちゃうじゃないですかぁ~!? 余計に落ち込んじゃいますよぉ~」
「うふっ、何を言っているの!? それは先生が欲張りだからよ。世の中には条件的にもっと恵まれなくても、もっともっと自信満々な人なんか幾らでもいるわよ。中途半端結構じゃないの。中途半端の何が悪いのよ!? 中途半端でも揃えられるだけ幸せと思わなくっちゃね」
「そんなに中途半端、中途半端、って繰り返し言わなくても・・・。幾ら悪気じゃないと分かってはいても、何だかなあ・・・」
「あら、余計に落ち込ませちゃったかしら!? もしそうやったらご免なさい。まあ、先生ぐらい色んな面に恵まれていれば十分だし、文句を言ってはいけない、と言うことよ。先生なら大丈夫。それだけは信じていいわ!」
「そう言われてもなあ・・・」
「こんなに言っても分からないのなら、もういいわ。まあ好きにしなさい。先生は落ち込む自分に酔っているところがあるから、私に色々言われるのをむしろ楽しんでいるのかも知れないわねえ? それはまあともかく、ここと言う時にはもう少し元気を出さなければ駄目よ! 上品なことばっかり言っていても、それでは女心は動かないわ。勇気を出して、もっとぐっと迫ってみるのよ」
「ふぅ~ん、そうか~。もし朋美さんの場合ならそうなんですか~!?」
「失礼ねえ! そんな言い方をしたら、まるで私が擦れっからしのようじゃない!? これでも私は生真面目で、清純な主婦なのよ。夫一途に、一度も迷うことなくここまで来たんだわ・・・」
そう言いながら、暫らく虚空を見詰める。
どうやら自分の恋愛時代に甘い気持ちを遊ばせているらしい。
思い出の余韻を十分味わった後、朋美はまた口を開く。
「私だけじゃなくて女性なら誰でもそうなの。迫って来そうな雰囲気を感じただけで少し逃げる風をしながら、本当はぐっと引き付けられ、力強くリードされることをじっと待っているものなのよ。先生みたいに、思わせ振りなだけで少しも引いてくれない、なんて、何時まで経っても中途半端な態度を取られていたら、この人に自分の大事な人生を本当に掛けて好いものかどうか分からず、決められないのよ」
「そんなものなんですか~!? やっぱり~、もう少しはっきり好きだという気持ちを表わさなければ駄目ですか~? 自分なりには精一杯書いた積もりなんだけどなあ、あの手紙・・・」
「そりゃそうよ。たとえ先生が書いた積もりでも、相手の心に確信を与えなくっちゃ。でも、ただ焦っても駄目! 考える間もなく独り善がりな迫り方をされても、それでは燃え上がるより前に、怖くてマジに逃げたくなっちゃうのよ。それが女子心と言うものだわ・・・」
「う~ん、難しいなあ・・・。女心は本当に難しい! そんな風に言われたら、益々何も言えなくなってしまうなあ・・・」
「だからねえ、一度に言い過ぎないで、でも、まだまだ繋がっていたいような、返事をせずにはいられないような、そんな風に手紙を書くのよ。いや、時にはわざと間を置いて焦らすのも好いかも知れない・・・」
「そんなの難し過ぎますよ~!? 作家じゃないんだから、素人の僕にはとても無理ですわ~! 具体的にどんな風に書けば好いんですか~? そんなに言うのなら、広瀬さんが心を動かされるような手紙の書き方を教えて下さいよ~」
「もぉ~っ、駄目な人ねえ! そんなものが分かるぐらいなら、とっくに言っているわよ。だからねえ、手紙みたいにまどろっこしくて難しいことは止めて、せめて電話にしなさい!」
「電話か~。う~ん、苦手だけど、ちょっと考えてみます・・・」
慎二は何時の間にか目の前に置いてあるコーヒーに手を伸ばし、一口啜ると、本当に考え込んでしまった。
好きなれど押してばかりは怖がられ
偶には引いて様子観るかも
手紙より電話が好いと言われても
得意な方で言えば好いかも