夢小僧に、前はそうでもなかったのに、と言われていたように、若い頃の迫田卓は他人に比べてのんびりしていたにしても、現実社会の中で喜びを見出そうとしていた。
たとえば、付属の中高一貫校からまあまあ有名な私立の立志社大学経済学部経営学科に進み、卒業後、流行に乗って中堅建設企業、森富工務店に入った。風貌、性格等から判断して、流石に営業部には回されなかったが、総務部に配属され、そこそこ貰っていたらしい。
しかし幾ら暢気でも、暫らく居ると嫌でも自分の所属する企業が社会に向けてやっていることの如何わしさを知ることになった。そして分かっていながら、収入の好さに目が眩んで会社に迎合する同僚達の主体性の無さを知るにつけ、どんどん嫌気が差して来た。
当然、周りから将来の伴侶に相応しそうな男を探そうとしていたOL達に相手にされるわけもない。
初めの頃こそ、最新のファッションに身を包み、エステに高級化粧品、アクセサリ等で飾り立てたOL達に目が眩み、そんな彼女達から相手にされないことにショックを受けていたが、ゆっくり考えてみれば、彼女達と一緒に居て落ち着けるわけがない。それが分かると、卓の方でも彼女達のことなんかどうでもよくなった。
そうは言っても、大勢居れば多少馬が合う人も居る。実は一見目立たないが、確り者の河合里美が卓のことを気に掛けていたらしいのだが、その頃卓は今よりもっと面食いで、里美の方を向こうともしなかった。
里美もそれを感じたのか? 会社自体にも早目に見切りを付けて短大の英文科に進んだ。
どうやら里美は成績が優秀であるにも拘らず家庭の事情で進学出来ず、進学資金を貯める為もあって見入りが好さそうだから森富工務店を選んだらしい。
それからも卓は迷いながら行っていたが、見切りを付ける前にバブルと共に会社も弾けてしまった。
しかし、卓はそんなにショックでもなかった。望んでいた形ではなかったにせよ背中を押してくれた形となって、むしろせいせいしていた。
好い機会かも知れない。確かに見入りは好かったけど、素人集団、粗悪な材料、手抜き工事で作った物件が馬鹿高い値段で飛ぶように売れたんだから、変な時代だったなあ。今まで俺はその中心のようなところに居たってわけだぁ。無駄な時間だったなあ。一杯物を買ったし、それなりのところに住んだり、旅行したり、贅沢をしたけど、爽やかな朝を迎えたことなんて一度もなかった。一体俺は何をやっていたのだろう? これからはもっと自分を大事にしなければ・・・。
そんな思いがあった所為か? その後、卓は再就職することなく、貯えのある間はぼんやりとして過ごし、貯えが底を尽くと、どんどん今の生活に近付いて行った。
つまり、一旦は正業に就いていたのであるが、その如何わしさを知るに付け、就けなかったと言うより、二度と就こうとしなかったのである。
或る日のこと、卓は京橋にある京阪モールの本屋に向かっていた。NHK大河ドラマの原作本を読んでみようかと思ったのである。それに、運が好ければ夢小僧が気になっているらしい相手を探せるかも知れない、と言う思いもあった。
京阪モールの受付嬢に何だか見覚えがありそうな、懐かしいような、凄く可愛くて、声の好い女の子がいた。
もしかしたら、この前の合コンで出会って気になっていた子だろうか? 離れていたので話をせず、名前も聞かなかったが、彼女なら好いかも知れない。気になっていたということは、縁がある証拠のような気もする。
卓は余計な物を買うお金など無いので何処のポイントカードも持っていなかったが、この際作っておくか!? 記入等によって本当にその子かどうか確かめるだけの余分な時間が掛かって好いだろう、と思い、聞いてみることにした。
「あのぉ~、僕、ポイントカードを作りたいんですけど・・・」
「あっ、はい!」
尾形恵子と書いた名札を思いの外ふくよかそうな胸に付けたその受付嬢は、卓の方を確かめるように見た後、ちょっと胡散臭そうな顔をしながらも、奥の方を指し示した。
「有り難う御座います。このまま真っ直ぐお進み頂きまして、化粧品売り場のところで右に曲がって頂ければサービスカウンターが御座いますので、そこでお申し込み下さい」
そう言って、さっと目を逸らす。
どうやら俺のことを全く知らないらしい。それに俺なんか金を持っているはずがない、という顔をしやがったなぁ~!? それはまあ確かだけど、本当に失礼な奴だ! これを慇懃無礼と言うんだろうなあ。それにこいつのそばに居ても、ちっとも心地好くないぞぉ~。声や視線に情が籠もっていないし、仕事柄化粧が濃い所為か? 肌も荒れている・・・。
一瞬で気持ちの失せた卓は、示された方に行く振りをして、サービスカウンターで立ち止まらず、そのまま外に出た。
8月の太陽が眩しい。それにむっとする暑さが肌を焼く。暫らくでも冷房の心地好さを味わうと、弛み切った肌には結構応えた。
そう言えば、高架下を少し行ったところにフィットネスクラブがあったなあ? あそこにも気が合いそうで綺麗なお姉さんが居たような気がする・・・。
ぶらぶら歩いて行くと、確かに、顔までシェイプアップされてスタイルが抜群のお姉さんが何人か出て来た。
そして新たに、綺麗なお姉さんのグループが入って行った。
でも何だか違う。皆健康的過ぎる。それに、外見をがっちり固めていて、誰も心の中が見えない感じがする。
それならばやっぱりJR環状線京橋駅方面(※京阪モールの西側、野江方面)かなあ?
確かにJRの駅の向こう側には、モデル並みに美脚で綺麗なお姉さんが露出の多い服を着て並び、思わせ振りに立っている。
アーケードの下だから暗くて、真っ昼間でも何だか如何わしい、いや艶めかしい夜の雰囲気だなあ。フフッ。でも、金を持っていないことが一目で分かるのか? 俺なんかには声も掛けてくれないぞぉ~。でも、俺の方からも願い下げだなあ。魂の濁りが目に表れている。幾ら若くても、張りぼての美しさではコンビニの助平オーナーの気持ちはくすぐれても、俺の気持ちはくすぐれないぞぉ! よく見れば、肌も荒れているし、声も酒焼けでしわがれている。ちっとも好くないやぁ~。
そんな失礼なことを思いつつも、卓は行ったり来たりしながら、目の保養にだけは努めていた。
多くの雑多な人が行き交う京橋界隈に居れば割と簡単に意に沿う人に出会えるかと期待して、暫らく微妙な言葉を添えた怪しげなイラストを売っていたが、多少興味を示してくれる人がいてもそうお金になるわけではないから、懐具合が淋しくなって来た。
仕方がない。暫らく夢小僧の意中の相手を探すのはお休みだなあ。
卓はまたコンビニのバイトに入った。
それから3日目の昼前のことである。卓は何だか急にほんわかした気持ちになって来た。
おや、何だろう?
見回しても、若い大学生ぐらいのお兄さんと、自分より多少若いぐらいの地味な女性が居るだけである。
もしかしてあのお兄さんかなあ?
そう思って見ると、体格が好いし、誠実そうで、結構甘い顔をしている・・・。
おっと、危ない、危ない。俺にはそんな趣味はないぞぉ~。
でも、俺の夢小僧は俺ではないから、趣味が違うのかなあ? これまで俺は勝手に夢小僧なんて呼んで来たけど、もしかしたら女の子だったりして・・・。それだったら素敵な青年に惹かれても可笑しくはない。
えっ、そしたら夢小僧、いやその場合は夢娘か? 夢娘を満足させる為に俺はあの青年とお近付きにならなければいけないわけかぁ~!?
嫌だ、嫌だ。魂の自由を得るために今まで孤高を守って来たのに、今更なんで男と付き合わなければいけないんだよぅ~!
でも、夢娘がふわふわするのなら、仕方がないのかなあ。これまで結構世話になっているし、嗚呼、悩むなあ・・・。
勝手なことを思ってボォーッとしている内に青年がレジの前に立った。
卓はどうして好いのか分からず、どぎまぎしてしまう。
青年はにこっと笑いながら言った。
「お願いします」
卓は青年の澄んだ目を真っ直ぐに見ることが出来ず、何とかレジを打ち始めたが、心の何処かで直ぐに、この青年とは違う、ということに気付き始め、漸く胸を撫で下ろしていた。
そして青年が出て行った後も、心地好さは持続していた。
いや、邪魔な波動がなくなった分、かえって強くなっているぐらいだった。
あれぇ~! これは一体どう言うことだろう?
卓は店内を見回した。
えっ、もしかしてあの眼鏡の小母さん!?
まあ俺より若そうだから小母さんは悪いかも知れないけど、それでも35歳ぐらいにはなっているだろう。それに大して好い顔をしているわけではないし、あのタイプは眼鏡を外したところでそんなに変わらないだろうなあ?
なんて失礼なことを思っている内に、その小母さんがレジの方に向かって来始めた。
小母さんが近付いて来るに従って卓は息苦しいほど胸が揺れるのを感じ始めていたが、それが過ぎると、脳にはぼぉ~っと霞が掛かり、やがて何とも言えない芳香、煌めく光に溢れ始めた。
こ、この人だったんだぁ~!?
レジを打ちながら卓は自然と優しい表情になっていた。
それを感じたのか? 小母さんが優しく声を掛ける。
「あの~、どうかされたんですかぁ~?」
「えっ!?」
卓は自分が勝手なことを思っていたのを知られてしまったのかと焦る。
でも、小母さんの目には少しも疑いの色がなく、むしろ染入るような優しさを湛え、山奥の澄んだ湖のようであった。
「今あなたが泣いてらっしゃるから、何か悲しいことでもあったのかなあ? と思って・・・」
「えっ、僕が泣いているぅ!?」
慌てて頬に手をやると、確かに濡れている。
ポケットを探っても、卓はハンカチ、ティシュなど持ったことがないから、出て来ようがなかった。
「よかったら、これ使って下さい」
差し出されたのはティシュで、袋に「カトレア生花店」と印刷してあった。
「有り難う御座います。あのぉ~、これあなたのお店ですかぁ~?」
「ええ。と言っても姉の店で、私はそこに勤めているだけですけど・・・」
それから暫らくして、お昼になると大阪城公園のベンチに2人仲好く座り、まったりしている卓と小母さんこと、相原菫の姿が見られるようになった。
そうしてお昼を一緒に食べ、後は何をするわけでもなく、何を話すわけでもない。長年連れ添った老夫婦のように穏やかな表情を浮かべながら、ただ2人で肩を並べて座っているだけであった。
しかし、それはあくまで外から見た姿であって、実際の交流は中で行なわれていた。
と言ってもそれは、卓、もしくは菫の中というような限定された空間ではなく、2人を中心とする無限の夢空間、すなわち宇宙であった。
魂の惹き合う二人言の葉は
最早交わさず笑み交わすかも
肩並べ静かに座るカップルの
中に宇宙が広がるのかも