エピソードその10
我が国の教育と言うものが受け持っているものはただ一般教科の勉強のみならず、芸術系教科、技術系教科、更に道徳、キャリア、余暇活動、行事、性等までカーバーして、嗜み、生き方、考え方等にまで及ぶ。いわば政治家達がことあるごとに乱発する勉強に近いものがある。
と言うか、学校教育を長い間受けて来た人が大半の政治家には直ぐに浮かんで来る言葉なのかも知れない。学校と言うことが頭になければ、修行、研鑽、調査等の言葉でも好いような気もする。
なんて書いている内に話がどんどん別の方向へと広がって行きそうだ。
ともかく、地域トップの進学校である北河内高校も勿論時代の趨勢に乗っており、この年の青年男女にとって避けては通れないこととして性の問題がある。この物語が展開している昭和61年度においての統計を見ても、やんちゃな子らが集まり易い成績的には底辺の高校において既に初体験を済ませて入って来る子が2割はおり、高校生全体としては1割を超えていた。これはもう無視して通ることが出来ない数字であった。
そんなわけで北河内高校では普段の保健の授業、LHR(ロングホームルーム)の時間を使う学年全体の男女別指導、全校生徒を体育館に集めて専門家を読んでの啓蒙講演等、結構な時間を性教育に使っていた。
夏休みを終えて直ぐ、9月初旬の或る日のこと、中野昭江ら2年生全体に対しての性教育に関する講演会が体育館であった。
青木健吾は2年生の担当ではあったが、担任ではないので、基本的に参加する必要はない。それで授業準備に当てさせて貰うことにした。それで何の問題も無かった。
ただ、健吾としてはそれが時間的なこと以上に大いに助かってもいた。まだ女性とまともな付き合い(恋愛と言う意味において)をしたことがない健吾としては、既に女性として大いに気になる存在になっていた昭江も一緒に居る中、どんな顔をしていれば好いのか? 悩ましいところであったのだ。
《それじゃあ、来週教える範囲、熱についての予習でもしておくか!? 大体高校生にとって熱、まあ熱力学の範囲は分かり難いようだなあ。そりゃ力学のようには動きが見えないもんなあ・・・》
なんてこれまでの受験指導等の経験もあって分かったようなことを思っているが、教科書を開いても、直ぐに止まってしまう。今、昭江が性教育を受けているかと思うと、どうしても緊張してしまうのだ。
《あ~あっ、何で今頃性教育なんかするんやろなあ? なんて当たり前のことか!? フフッ。俺らの時より今の子らは大分進んでるもんなあ。でも、それって本当に進んでるってことなんやろかぁ~?》
考えている内に健吾ははなはだ疑問になって来た。
確かに、北河内高校の生徒ぐらいになると損得勘定には秀でたものがあるから、避妊具や避妊の知識もなく、闇雲に快楽に溺れてしまうなんてことはそんなに多くない。だからその種の失敗は僅かで、進学、就職戦線から外れてしまうことも同様であった。
そう言う意味において、小学校、中学校と続けて来た性教育には大きな意味があった、と言っても過言ではないだろう。
《でも、それだけで本当に好いのか!? 高校生達は豊かでしなやかな心を持てたと自信を持って言えるのだろうか?》
健吾にはもやもやしたものが残っていた。
そんな時頭の隅に浮かんで来たのが、以前にジャズ歌手の綾戸智恵だったかが言っていたと聞いた覚えのあるこんな言葉であった。
性教育をするのであれば露骨な保健教育ではなく、ディズニーのアニメを見せておけば好い。
《確かに、性行為、妊娠、出産、避妊等を原理的、技術的に教えるばかりではなく、思い遣り、恋、その結果としての結婚等を含めた愛についても教えるべきなのかも知れないなあ・・・》
そう思うと健吾は何だかほっこりしたものを感じ、ちょっと分ったような気になって来た。
その日の放課後のこと、健吾が習慣的に女子バスケットボール部の練習を見に行くと、何だか気持ちがざわざわして、何時もの様子と違う!? 重いような、湿っているような、微妙な空気が流れていた。健吾の視線を明らかに避ける子もおり、昭江もそのひとりであった。
《それは違うやろぉ~!? 別に俺、何もしてへんのにぃ・・・。それに俺も本当は恥ずかしいねんからなあ・・・》
仕方が無いこととは分かっているので、それでも健吾は黙って耐えていた。
気まずい沈黙に耐えられなくなったのか? 2年生でお調子者の葉山涼香が口を開く。
「ほんま、あの先生、かなんわぁ~!? あれ、風船みたいに膨らませて、パッと放つねんからぁ。阪神タイガースのジェット風船とはちゃうねんからなあ・・・」
「ほんまやぁ~! 私の足元まで飛んで来たから、一瞬どうしょうかと思って、焦ったわぁ~」
そう言って健吾のことをちらっと見るのは橋本加奈子であった。
そんな2年生の話を聴いていて、1年生の三島冴子、権藤あかね等も興味津々と言った様子で話に加わる。
「ふぅ~ん、先輩、それってもしかしてあれのことぉ~!?」
「そりゃそうですよねえ。先輩ぃ~!?」
そう言って2人も健吾の方をチラッと見る。
恥ずかしくて居た堪れなくなった健吾はその場を離れ、突然のように体育館の中を走り出した。
「ウフフッ」
「ハハハ」
「ウフフフフッ」
「ハハハハハ」
誰からともなく笑い出す。
箸が落ちても笑い出すこの年代の女子はある意味残酷である。
それを観ていた昭江は流石に可愛そうに思えて来たようで、
「もうやめよぉ! こんな風に言うてちらちら見てたら青木先生に悪いやん。さあ、私らも走ろぉ!?」
そう皆に声を掛け、率先して走り出す。
何のことかよく分からないながら、微妙な空気が苦手な何人かは付いて来たが、2年生の半分ぐらいはもう暫らくこの微妙な空気を楽しんでいた。
その週の勉強やクラブを何とか終え、漸く迎えた日曜日の1時過ぎ、健吾は昼食を摂りに駅前の食堂街にあるうどん屋、「さぬき庵」に入った。
例によって昭江が直ぐにメニューとお茶を持って来てくれる。
昨日のクラブの時のことがあるから、昭江はまだちょっと恥ずかしそうであった。
実は健吾もそうであったが、努めて冷静に振舞おうとしている。
互いに何の悪気も下心も無いのに、何だか変に思えて来たか? 暫らくしたら2人共、自然と笑えて来た。
「ウフフッ。おまたせしましたぁ~」
「ハハハ。ありがとう・・・」
周りから観れば何のことかさっぱり分からないが、何だか幸せそうな2人に自然と笑いが誘われるようで、自然と微笑みが伝染して行った。
その後健吾は、近所にある図書館の自習室で暫らく過ごしてから、3時半頃になって駅前のガストに場所を移し、ケーキセットを頼んで教員採用試験の一般教養の問題集を開いたが、俄かには頭に入って来ない。昼食時の昭江との遣り取りが頭の中に鮮明に浮かび、何度も反復せずにはいられないのだ。
それでも緩んでいた顔を何とか引き締め、漸く問題集に向かい始めようと苦労していたら、昭江と友達の橋本加奈子が微笑みながら入って来た。
「こんにちはぁ~」
「こんにちはぁ~」
「嗚呼、こんにちはぁ~。どうしたん? 2人とも何や嬉しそうやなあ」
昭江は何となく健吾がまだ昼のことを言っているのかと分かるので黙っていたが、加奈子は昭江と健吾の双方をちらちら見ながら言う。
「いえ、先生が何だか嬉しそうだったからぁ・・・」
「いや、昨日のことを思い出してなあ・・・」
健吾はもう正直に言ってしまった。
「ウフフッ。あれぇ、確かにちょっと恥ずかしかったですねぇ!?」
それで皆少しの間黙って、ちょっと恥ずかし気な笑いを浮かべ、流石にこれ以上引っ張ると余計に恥ずかしくなって来ることを予感して、何時もの勉強に入ろうとした。
《でも、定期テストにはまだ早いのに、何んでやろぉ!?》
そう思って健吾が訊く。
「でも、中間テストまでまだまだやろぉ~!? 今日はどうしたん?」
加奈子はちょっと昭江の方を見てから健吾の方を見て、
「来週に校内の実力テストがあるんですぅ。何でも2年生が英数国の3教科、3年生と浪人生が理社も加わって5教科で、結構本格的な問題が出されるそうなんですぅ。少しでも数学の苦手なところを教えて貰えたらと思ってぇ」
健吾としても異存はなく、むしろ嬉しいぐらいであったが、世間の空気と言うか、府民の目を考えるとちょっとまずいような気もして来た。
「ああそう。それは別にかまへんけど、でも、もう学校の外で個人的に教えるのはまずかったんじゃなかったかなあ!?」
「まあたまにはいいかとぉ・・・」
特に悪いことをしているわけではなく、その頃はまだ緩いところもあったが、昭江の存在自体が眩しく、強過ぎる刺激に気が引けるものを感じ、昭江を強く意識していること自体にちょっと後ろめたいところのある健吾でもあった。
2人にも多分にそんなところがあったようで、健吾が北河内高校にやって来るまでのように気楽には行かなかった。
そんなこともあって健吾は別れ際に、
「ほなさよならぁ。それから、これからは定期テスト前でなくても分からないところがあったら、何時でも物理の準備室に来たらええでぇ~」
と言い添えた。
性のことクローズアップすれば照れ
暫らく顔を見られないかも