sanso114の日記

日々気になったことを気楽に書き留めています。

明けない夜はない?(エピソードその5)・・・R4.2.10①

          エピソードその5

 

 平成60年4月、青木健吾は母校である大阪府北河内高校の臨時雇いの教師になった。正式には常勤講師と言うそうであるが、父親の新吉に報告した時にあっさりと、

「嗚呼、臨時雇いの教師やなあ・・・」

 と簡単に片付けられたので、自分でもその言い方が何となく気に入っている。比べると常勤講師と言う正式な表現は変に恰好を付けているような気がして来たのだ。多少の自虐も入っているのかも知れないが、どうせ採用試験では1次も通らなかったのであるから、反省の意味も込めて臨時雇いで十分だとも思っていた(※1)。

 大阪市内に生まれ、日中戦争大東亜戦争(太平洋戦争)と通算で6年にも亙って大陸での戦争を体験して来た新吉は、戦争前、高等小学校出の自分に飽き足らず、ハワイへの移民を夢見て早稲田の講義録(※2)を取り寄せ、英語の勉強をしたり、今では野江工科高校と呼ばれている近所にあった公立職業学校の夜学へ行こうとしたり、幾つかのチャレンジを試みたそうだ。戦争でそれら全ての努力が無駄になり、復員してから伝手を頼って務め始めた中堅の機械工場、大阪機工でも先行きが見えないような気がしたので直ぐに辞めてしまい、結局左官職人で終わったから、息子の健吾には掛けるものがあったのだろう。大学を何とか出ただけではまだまだもの足りない様子であった。

 兵庫県の神戸市内で生まれた母親の由美子には、子どもの頃に亡くなった母親、したがって健吾にとっては祖母の鈴子の印象が強く残っている。鈴子は学生の頃に県から表彰されるぐらい成績が優秀で、県立女子師範学校に進んで教師になったそうであるが、道着姿でなぎなたを持っている凛とした様子の写真が残っており、その後の経済的な事情でやはり高等小学校までしか進めなかった由美子は学歴に対して強いコンプレックスを持っていた。そして当然のように、自分から観れば恵まれた環境にある健吾に期待するものは大きく、もどかしく、飽き足りないものを感じていた。

 健吾にすればそんなことよりも、何となく気が合い、近所の北河内市立図書館、そしてJR北河内駅前にあるファミレスのガストで一緒に勉強するようになっていた女子高生、中野昭江が通う北河内高校に取り敢えずは勤められることになっただけでも十分であった。

 当時の北河内高校は学区でトップの公立進学校になっており、自分が通っていた頃とは大分様子が変わって来たので、そこだけは健吾にとってちょっと緊張するものがあったが、元々高校生の頃には理科、数学でずっと学年トップクラスの成績を収めており、受験関係の出版社、若草教育出版で大学受験対策用の理科の教材を編集していた経験が更に高校理科レベルへの自信を深めていたから、内容的な不安は殆んどなかった。

 不安があるとすれば、生徒に対する学習指導よりも保護者の期待の大きさ故の要求する声の大きさにあった。それに強い人見知りが加わり、勤めることが決まってから始まるまでの1か月ほどが何だかやけに長かった。

 それを幾らか和らげてくれたのがクラブ活動の指導、と言うか付き添いであった。

 春休み中に転出して行く教諭、田代基樹と打ち合わせした時のことである。その時に田代から自分が引き受けていた女子バスケットボール部の顧問を出来れば引き受けて欲しいと頼まれた。直ぐに健吾は、以前に何度か昭江から女子バスケットボール部に入っていると聞いていたことを思い出し、緊張しながらも、迷わずに引き受けたのであった。

 そして引き受けた途端に練習試合の付き添いがあった。

《まだ部員の皆に紹介もされてないのに・・・》

 そう思わないでもなかったが、ただ待っているだけよりは気分が晴れる。それも、若草教育出版における上司、柳沢富雄によると、世の男性にとって憧れのピカピカの女子高生たちの相手であるから、余計にそんな気がしていた。

 付き添ってみると、想像していた以上に伸びやかで素直そうな部員達。黄色い声。躍動する姿態。健吾はすっかり魅入り、気に入ってしまった。

 暫らくすると当初のそんな邪念はすっかり消え去り、完全な素人である健吾にも、昭江がまあまあのパフォーマンスを見せながらも、決してエースではないことがはっきりと分かって来た。ここは出るべきところ、攻め込むべきところと思われる場面で昭江は決まって身を引き始め、仲間にボールを回していた。或いは相手に奪い取られそうになると直ぐにボールをコートの外に放り出していた。

 それはもどかしいほどであったが、試合が進むに連れて健吾は、時折昭江が自分の方をじっと見詰めて来ることに気が付いた。

《どうやら俺の応援か、承認でも求めているらしいなあ?》

 本当にそうなのかどうなのかは分からず、単なる思い込みかも知れなかったが、じっと見詰め返して頷いてやると、昭江はにこっとし、エンジンが掛ったように、俄かに攻め込み始めた。

「好いぞぉ~。よし、行けぇ~!」

 次第に健吾は恥ずかしさを忘れて大きな声を出していた。

 それが試合会場では何の違和感も無かったようである。

 その声が聞こえたのか? すっかり元気を取り戻した昭江は何人かを軽やかに交わし、鮮やかにレイアップシュートを決めていた。

 その後も全体的に体格の好い北河内高校は優勢に試合を進め、結局78対42と大きな差を付けて勝負をものにしていた。

 それは勿論嬉しかったのであるが、試合終了後直ぐに健吾の周りに部員が集まって来たのには慌ててしまった。ちょうど好ましいぐらいの知性が宿り、澄み切った真摯な視線が集中して、

「青木先生、お願いしま~す!」

 声を揃えてそう言われたが、一瞬何のことか分からない。試合直後の緊張を残した強めの視線も、汗でぴったり張り付いたタイトなユニフォーム姿も眩しくて仕方が無い。

 我に返った健吾が視線を泳がせ、おどおどしていると、それを見た部員たちは漸く緊張が解けて来たのか? 互いに顔を見合わせ、ほくそ笑み始めた。

 隣にいて可哀そうに思えて来たのか、昭江が肘で軽くつつき、小さな声で、

「青木先生、試合の講評をお願いします・・・」

 と助け船を出す。

 昭江も人見知りで視線恐怖症気味であったから、意識的に、大勢がいるところでは健吾の正面に立たなかった。それが今の健吾には幸いしたようである。

 それでも健吾は何を言って好いか分からなかったが、取り敢えず口を開くことにする。その辺り、早くも教師としての自覚が生まれ始めていた!?(※3)

「お疲れ様でした!」

 それを聴いた部員は反射的に、声を揃えて更に大きな声で、

「お疲れ様でした!!」

 暫らく考えて健吾は、よく分からないながら取り敢えず褒めておくことにした。

「あ~あっ、まあその~、先ずは勝てて好かった。フゥーッ。攻める気持ちが見えたから、ともかくそこが好かったなあ・・・」

 彼方此方からくすくす笑う声が聞こえ、健吾も漸く力が抜けて来たようだ。

 その後、何を言ったのか? それ以上は殆んど言えなかったのか? 帰りの電車では何も思い出せなかったが、それでも部員達は好かったようである。顧問が中年の男性教師からまあまあ若い男性教師に変わったことを素直に喜んでいる様子であった。

 

        JKの黄色い声にときめいて
        勤めることを喜ぶのかも

 

        JKの黄色い声に胸弾み

        楽しい時間過ぎて行くかも

 

※1 普通に勤めていれば仕事からあぶれることのない正規雇用の教諭に比べて単年契約となる臨時雇いである常勤講師は1年1年が勝負となる。新たな年度毎の早い時期に見映えの好い仕事をしなければならない、と言う結構強いプレッシャーがあると直接聴いたことがある。それはたとえば独立行政法人となった元国立大学における5年契約の大学教授なんかでも同じようなものだと、これも直接聴いたことがある。1年目にアイディアを出さないと、3年目、4年目に見えるような成果に繋がらず、次の契約に繋がらないようなプレッシャーがあり、正規の教授になった時にホッとしたように言っていた。

※2 元々は東京専門学校と言われた時代、1886年から刊行されていた通信講義録であるから、始まったのは130年以上前のことになる(2022年現在。もっとも、1956年には募集が停止された)。庶民にとって中学校、女学校への進学が難しかった頃、通信により小学校の教員資格、看護婦(現在は看護師)試験や高等教育への受験資格も取れたそうである。真に有り難い通信教育で、その講義録は全国津々浦々ばかりか、台湾、朝鮮等の植民地や中国にまで送られたそうである。

※3 私事であるが、私の場合は最後までこのような場面が大の苦手で、その場の状況を簡単にまとめる、適当な言葉で当意即妙に批評し、褒めてやる気に繋げるなんて器用なことが出来た試しがない。それでも何回かは同窓会、結婚式等に呼ばれ、挨拶をさせられたことがあり、当然上手く纏まらず、後から如何にも私らしいと言われたことがある。懐かしく思ってくれたのであれば良しとしよう。お互いにそんな試合幸せな時代を共有出来たのであるから。