エピソードその1・・・②
7月の末のこと、「希望の光」の夏季キャンプの当日、集合は梅田であった。JR大阪駅の北側に集まり、そこから大型の観光バスが出た。2台にぎっしりと乗り込み、結構な人数であった。
あまり緊張が解れない内に、昼前、能勢の青年の家に着いた後は、早速部屋割りがされた。各居室は幾つかのロッジになって散在しており、そこに大きな荷物を置いて直ぐに飯盒炊爨をすることになった。この辺り、小学校、中学校等で行われた普通の宿泊行事と大して変わらない。
昼食後、片付けを終えてから自己紹介も兼ねてゲームが行われ、そこで健吾は昭江も参加していることを知った。
《あっ、あの子やぁ~!? この頃図書館でよく観るあの子・・・》
何でもないように思え始めていたキャンプが一気に明るいものになった。単純なところのある健吾は、この宗教をこのまま信じても好いような気になっていた。
夜、健吾が割り当てられたロッジでも昭江のことが話題になって、大いに盛り上がっていた。
お調子者のやんちゃそうな秋元周平が口火を切る。
「なあなあ、あの子、なんて言うんやったっけ? 可愛くて、スタイルが好くて、ゲームの時も気になって仕方が無かったわぁ~」
言っている内に、既に蕩けそうな顔になっている。
「中野昭江、やろぉ~? それぐらい覚えときぃ・・・」
ぼそっと言ったのは鈴木壮太であった。
「ほんまやぁ~。そんなに惹かれてるんやったら、名前ぐらい覚えときぃ~なぁ」
冷めたことを言いながら、山口俊平も満更ではなさそうな顔をしている。
そんな軽い遣り取りを聴いていたこのグループのまとめ役の迫田勇作が、
「でもなあ、こんな宗教のキャンプで声を掛けるのはあかんらしいでぇ~」
やんわりと釘を刺す。
健吾はそれだけのことでもドキドキして仕方が無かった。
《あかん、あかん。俺の方が先に知ってるねんからなあ~!》
そんなことに何の意味もないことぐらい分かっていたが、健吾は既に心の中でそう叫ばずにはいられないぐらい昭江に惹かれていた。
それでも流石に宗教関係のキャンプである。そんな卑近な話題は早々に終わり、命、原罪等への話題へと移って行った。そしてその過程で秋元が激しく泣き出したのにはちょっと驚かされた。
「・・・。そんなこと言うたかて、皆牛や馬の肉、食べてるやろぉ~!? 虫も殺してるんやん。そんなん、全然矛盾してるわぁ~!」
進化論が普通のこととして教えられている現代人にとって、人も動物の一種であることにほぼ疑いはない。聖書に則ったキリスト教を信じたくても、そこでどうしても引っ掛かる。健吾もまた同様であった。
ただ秋元までの熱さは既に無かった。秋元のそれは、人一倍感じ易い心を持っているが上の甘え、やんちゃとしても彼の普段の言動の端々に出ているようであった。
それを鋭く感じ取った健吾は、そんな秋元の方が昭江に選ばれるのではないかと、今はそこだけが心配であった。
その後も色々あったにせよ、宗教キャンプが何とか無事に終わり、昭江の心が誰かに奪われはしないかと言う健吾の心配もどうやら杞憂に終わったようだ。
そして8月を迎えた。
そんな或る日のこと、図書館での勉強がひと段落着いて健吾は昼食を摂りに駅前の食堂街に向かった。
何軒か並んでいる中に目立たないうどん屋、「さぬき庵」があり、落ち着きそうなのでそこに入ることにする。
《玉子丼にミニうどんかそばが付いて500円かぁ~。まあまあやなあ・・・》
「いらっしゃいませ~」
入ったら直ぐに弾むような声でそう言ってお茶とメニューを持って来たバイトの女の子を顔をちょっと見上げると、
「あれぇ~!?」
昭江であった。
昭江も直ぐに気が付いたようで、
「お兄さん、もしかしたらこの前のキャンプにぃ?」
「うん。君も行ってたんやなあ?」
「はい!」
その時はそれだけのことであったが、それでも健吾は気持ちが大きく揺らされ、何を食べたのかも分からないまま図書館に戻った。
それから2時間ほどが経ち、健吾がそろそろ帰る気になっていた頃、昭江が自習室に入って来た。
周りの反応は前と変わらず、ササっと視線が集中する。
流石に健吾は慣れて来て、それに昼のこともあるから、余裕を持ち、微笑みながら黙礼した。
昭江も微笑みながら恥ずかしそうに黙礼を返す。
その時もそれだけのことであった。
それから数日後、健吾が問題集を開いて勉強していると、背中から突然のように、柔らかく、しっとりとした声が掛った。
「あのぉ~、隣、座っても好いですかぁ~?」
昭江であった。
健吾はよほど集中していたのか? 珍しくその時まで気が付かなかったようである。
「あっ、はい!」
そう返すのが精一杯であった。
それから自分に割り当てられた範囲を超えて広げていた数冊の本、ノート、筆記用具等をそそくさと片付け、引き寄せた。
「ウフッ。そんなにしなくても大丈夫ですよぉ」
そう言いながら昭江は微笑み続けていた。大分年上のはずの健吾の慌てようが何だか可笑しかったし、嬉しかったようで、もう恥ずかしさは消えていた。
健吾は余計に眩しくなり、それから暫らくは問題集が頭に入って来なくなっていた。
その健吾に昭江が小声で声を掛ける。
「あのぉ~、この問題ですけど、分かりますぅ? 私、数学が苦手でぇ・・・」
それは数Ⅰの代数幾何の範囲であった。健吾にすれば、得意ではないが、そう難しくもない。緊張しながらもノートの端にササっと解いて見せた。
「あっ、そうだったんですかぁ~!? 最初からそうやればよかったんだぁ~。ありがとうございますぅ!」
昭江は心底感心しているようで、大きな目を輝かせている。
それからも幾つか訊かれ、健吾は自信を持って淀みなく答えた。
そんなことが続いた或る日のこと、健吾が小声で教えていると、分厚いレンズの丸眼鏡を掛けた小太りの学生に、
「うるさいなあ! ここは図書館やでぇ~。そんなイチャイチャされると、勉強なれへんわぁ~!」
はっきり言われてしまい、健吾と昭江は気まずくなって自習室、そして図書館を出た。
「ハハハハハ」
「ウフフフフ」
「つい声が大きくなってしもたなあ?」
「そうですねぇ」
「中野さん、好かったらこれからファミレスでも行けへん?」
数日前にお互い自己紹介は済ませていたので、10歳違うことまで分かっていたが、まだ呼び捨てには出来ない。健吾は極度の女性恐怖症でもあった。それでもそんな風に気軽に誘えるぐらいには慣れて来ていたし、思わぬ出来事が2人の心を解してもいた。
昭江も笑いながら答える。
「そうですねぇ! でも、そんなに丁寧に呼ばなくても、普通に名前で呼んでくれたら好いですよぉ~」
と言うか、むしろ名前で呼んで欲しそうであった。
「ほな、昭江ちゃん。そこのガストでも入ろかぁ~!?」
健吾の弾んだ様子、照れた様子が可笑しかったが、昭江はそれ以上何も言わず、黙って付いて来た。
それからは日曜日の午後になると、駅前のガストで勉強をする2人が見られるようになった。