速く歩けばより多くの物が見られるのか?
確かに、歩く速度v×カバーできる断面積S、つまり目の届く部分の容積vSは大きくなる。
しかし、だ。人の目に捉えられ、脳に送られた結果、認知される情報量はそんなに変わるものではない。つまり、カバーできる範囲に含まれる総情報量が増えたとしても、認知される情報量が変わらないのならば、認知密度が低くなるというものである。
それではと、総情報量を変えずに情報の件数を多くしたとしてしも、今度は個々の情報が浅く、薄くなるはずであるから、それも特に好いものではない。
というわけで、藤沢慎二は多少無理してでも、もっと速く歩こう、周りに合わせようとしなくなった。
「今の人間は忙し過ぎる。これでは見えるはずのものでも見えなくなってしまう。ゆっくり歩けば見えることもあるさ、フフッ」
それだけ年を食ったということであろうが、ゆっくり歩くもっともらしい理由を思いつき、密かに満足を覚えていた。
「お早うございます。藤沢さん、何か面白いものでも見えますかぁ~?」
「あっ、吃驚した! いや、お早う。別に何も・・・」
「でも、何だか嬉しそうな顔をなさっていたから・・・」
田之上都であった。執務室で机を並べる同僚ではあるが、三回りも違う。今年採用されたばかり。それも新卒であるから、かなり優秀なはずであるが、そんなところはおくびにも出さず、草臥れ果てた慎二をリスペクトしているかのように、顔を合わせれば愛想よく構ってくれる。
《もしかして、俺もまだ捨てたものじゃないのかなあ? 自分でも気付かない渋さでもあるのかも知れない。自分ではよく分からないけど・・・》
慎二は思わず通勤路に面した長屋のガラス戸の方を見た。まだ早朝の為に引かれていたカーテンが上手く作用し、鏡のようにくっきりと全身が映るのである。
しかし、慎二は知っていた。と言うか、信じていた。
《人は見かけだけに惹かれるのではない。内面の充実、そこから自然と醸し出されるオーラにも大いに惹かれるものなんだなあ。フフッ》
そう信じるだけで、何時もと同じはずなのに、どことなく格好よく思える。健さん(勿論、渡辺ではなく高倉、である)のつもりになって自然と眉間に皺が寄っていた。
「クスッ。あっ、すみません。急ぎの仕事の準備があるのでお先に・・・」
都は口元をそっと押さえながら、失礼に思われない程度に足を速めた。
《フフッ。俺の渋さに惚れるなよ。フフフッ》
朝からちょっと変!? と思われただけかも知れないのに、自分に都合よく受け取った慎二は、また妄想の世界に戻った。
雲一つない朝。世界は煌めき、慎二の足取りも心なしか軽やかになった。
マドンナが追い抜いて行く春の朝
我の妄想更に膨らみ