sanso114の日記

日々気になったことを気楽に書き留めています。

明けない夜はない?(エピソードその18)・・・R4.3.2②

          エピソードその18

 

 青木健吾にとっては子どもの頃から何度も来ていた名古屋市名古屋市内およびその文化圏)であるが、子どもの頃は大阪市大阪市内およびその文化圏)に比べると圧倒的に地方であった。

 その後、東京の方にも住んだ経験からすると、繁華街等の数、規模等を比べれば大阪も十分に地方なのであるが、それでも古くから開け、我が国では第2の都市圏であると言う自負がある。

 実際には大阪市自体を横浜市横浜市内およびその文化圏)が人口的に抜いて久しくなっていても、京都(京都市内およびその文化圏)が未だに東京(23区内およびその文化圏)をどこか下に見ようとしているのと似たようなところがある。

 ともかく大阪人にとって名古屋市は田舎の中の大都会で、実際に名古屋市が他の大都市よりも土地に恵まれ、市内であってもまあまあの広さの敷地(※1)を持つ土地付き一戸建てが買い易いと言うところも余計にそんな気にさせる。

 それから、ちょっと失礼な都市伝説? として名古屋の女性は全国的に観て一番不細工と言われるのがある。単純なところがあり、影響され易い健吾はそれをまともに受け取り、名古屋に行く度にしみじみと都市伝説を実感していた。

名古屋駅近辺の地下街を歩いている女の子を観ていても、多少はましになって来た気もするけど、ほんま、不細工やわあ~。神戸市内の三宮辺りの女の子はほんま垢抜けしてるし、東京の女の子はスタイルが好くて、何やモデルみたいで、ほんま綺麗やったなあ・・・。じっと観てたら一瞬付いて行きそうになったわぁ~》

 おどおどとして気弱そうに見える健吾の内面では、まだ28歳になったところでありながらも、早中年化し、そんなオヤジのような邪念が蠢いていた。

 ただ、日本全体が高度経済成長期にある中、名古屋がその先頭を突っ走るように急速に都市化しているのも確かに実感された(※2)。

 夏の真っ盛り、健吾はそんな名古屋市内で愛知県の教員採用試験の2次試験を受けた。マークシートによる選択式の1次試験を合格していれば大丈夫と言って貰えた安心感もあり、筆記試験、面接と人見知りで上がり症の健吾としては意外とすんなり行った所為か? 最終結果は9月になってからと言うことで暫らくはムズムズさせられるが、そんなに不安にも思っていなかった。

 それからお茶と生け花を教えている伯母、早乙女瞳から紹介された弟子、井坂恵子との見合いの方も健吾の中では悪くなかった。これにはどうやら上の安心感以外に本命としての中野昭江がいることからの保険的な気楽さがあり、それ故の安心感もあったようである。

 それはまあさておき、初対面は7月の終わりに瞳の家で双方の両親を交えての顔合わせとなった。

《何やえらい大層やなあ。こんな本格的な見合いやとは思てなかったから、緊張してまうわぁ~》

 と健吾は思わないでもなかったが、母親の由美子がよく見えない目を斜め下に向けながら、いきなりのように自分の生理が上がったのが何時だとか、恥ずかしいことも含めてどうたらこうたら喋り出し、それに対して恵子の母親、明美が余裕の表情で笑って聞き流しているのが分かり出してから、すぅーっと肩の力が抜けて行った。

《何でもありやなあ。フフッ。今更気取って、どうしても勝ち取らなくてはならないものでもないし、所詮これはまあ保険やしなあ・・・》

 そんな気楽さと言ったところであろうか!?

 2時間ほどの会食の後、解放され、2人だけで近くの喫茶店に行き、もう少し話をすることになった。

 改めて対面すると流石に緊張を感じ始めたが、夏物の薄いピンクのワンピース姿が何だか初々しい。

《これやったら、まだ学生やと言われても、そのまま信じてしまいそうやなあ・・・》

 健吾が恥ずかしくなって思わず目を伏せると、ミディーのスカートからすらりと伸びる、膝から下が長くて引き締まった脚が目に入り、頭に血が上り出したので、顔を上げようとすると、今度はこんもりと丸い御椀山を思わせる形の好い柔らかそうな胸の膨らみが目に飛び込んで来た。

《嗚呼、どうしょう!? こんなんどこを観たらええのか分からへんわぁ~》

 惑乱した健吾が黙っていると、そんなあかんたれ男子との見合いにも慣れているのか? 恵子が微笑みながら訊く。

「青木さん、愛知県で教員の採用試験を受けられているそうですね?」

「はい・・・」

大阪府でも受けていて、何方も1次を合格されたとお聴きしましたが、2次の方は如何ですか?」

「いまのところ、まあ何とか・・・。ところで井坂さんは、あの時田自動車にお勤めでしたか?」

「ええ。その総務課に勤めています」

「そしたらお休みは土日ですか?」

「ええ」

「好かったら明治村(※3)かどこかに一緒に行きたかったところですが、これから大阪の方でも公務員と教員の採用試験の2次があって、残念ながら8月一杯は休みが殆んどないほど忙しそうなので申し訳ありません・・・」

「ウフッ。そんなことは気にしないでください。ご事情はお聴きしていますからまた9月にでも。それに名古屋の夏は、ご一緒するにはちょっと暑いですから・・・」

《確かに名古屋の夏は暑いなあ・・・》

 共感しながら、健吾は恵子の如才のない返事に気を好くしていた。観ていると言うことは観られていると言うことでもあると想像もしないで・・・。

 

 それでも健吾が8月の空いている日曜日を何とか捻出し、明治村に誘うと、躊躇うことなく応じて予定を合わせてくれた。

 ただ、たまたまかも知れないが、薄い水色のパンツスーツ姿で、ヘアースタイルは後ろで軽くまとめてあり、前回よりも戦闘モード? になっていた。やはりオヤジ臭い視線を鋭く感じ取っていたようだ。

 それでも長身のモデル体型であるから十分に目立ち、そんな恵子を連れて歩いていることが持てた経験の極めて少ない健吾にとっては誇らしく、一瞬の隙を見付けては、ちらちらと脚、背中からうなじ、胸へと視線を走らせていた。

 なんて書いていると自分でもちょっといやらしいことをしている気持ちになって来るが、男女において、特に結婚を意識した見合い、デートにおいてそんなことは当たり前のことである。実際に見合い結婚をした知り合いに訊いてみると、その人は胸の大きな人が好きだったそうで、デートでプールに誘い、それが決め手となったと言う。応じた女性もそんなことがデートに誘われた時点から分かっていて応じたのであろう。

 それはまあともかく、健吾はやはり不器用に過ぎたようだ。ギクシャクとして露骨な視線に恵子は嫌悪感まで行かなくても、ちょっと恐怖を覚えたようである。またあまりにも弾まない会話にこれは何か違うと感じたようでもあった。

 

 そんなことになっているとはつゆ知らない中野昭江であったが、全く逢わなくなった健吾にちょっと寂しさを覚えつつも、受験生にとっての勝負の夏を何とか乗り切ったようである。7月に受けた外部の模擬試験において合格率が、健吾の卒業した国立浪花大学では50~75%のB判定、兄の陽介が通う国立阪神大学では75%以上のA判定と1ランクずつ上がっていた。それが励みになって勉強が進み、夏の終わりに行われた校内の実力テストでも今までにない手応えを感じていた。

《今までは青木先生に頼りっ切りやったけど、この夏は自分独りでも何とか勉強出来たわ・・・。ところで、青木先生も上手いこと行ってるのかなあ?》

 そんな風に他人のことを気にする余裕まで生まれつつあった。

 

 また夏の高校野球の大阪予選までは順調に来た柿崎順二のその後のことである。
 学区でトップの公立進学校である大阪府北河内高等学校にとってベスト8まで行ったことは十分に快挙であり、準々決勝で負けたとは言え、野球強豪校の私学、応蔭学園のエース、牧田伸作相手に投げ合い、0対2と惜敗したのは順二としても十分に誇って好い。

 しかし、数字には表れなくても本人だけが感じる何かがあったようで、その後順二はプロを一切口にしなくなった。どんな場合でも付いて行く気になっている橋本加奈子にも怖いぐらいのオーラが順二を覆っていたので、8月に入ってからの一時期、加奈子は声を掛けるのも躊躇い、自然とデートの回数が減っていた。

 その分、加奈子の勉強も進んだようである。7月の終わりに受けた外部の模擬試験において市立浪花大学の合格率が50~75%のB判定であるのは変わらなかったが、順二に進路的な迷い、いわばこの2人にとっても初めての危機が訪れたことによりかえって引き締まったようであった。

 順二の方も加奈子の想像以上にしっかりした面を観て安心したのか、半月も経たない内にすっかり迷いが吹っ切れ、また加奈子と一緒に勉強したり、デートをしたりと言った日常を取り戻していた。

《別にプロにまでならんでも、大学で野球を楽しめればそれでも好いし、上手く行けば実業団に入れるかも知れへん・・・。その方が加奈子とはかえって早く結婚出来るような気がするし、俺、それやったらそれでもええ気がして来たわぁ~》

 諦めが付くと至極あっさりしたものであった。

 そしてこの2人も、夏の終わりに行われた校内の実力テストにはまあまあ自信を持って臨めたようである。

 ただ、そんなこんなと色々あって、またじっとしていても汗ばむ暑さもあって、デートの方は取り立てて進展が見られなかった。

 なんて、何度も言うようであるが、もう結婚まで決めているカップルにおいてそれは時間の問題であるとともに、条件の問題でもあるから、周りがやきもきしても、やいやい言っても仕方が無いことなのかも知れない。

 

 それから今回は最後になった丸山康介と安藤清美の場合である。この2人、元々色事には焦っていなかったから、やっぱり一番の問題はお互いの進路についてであった。

 自分の殻を破って外に出られるようになり、受験戦線へと蘇ってからの康介はすっかり上昇気流に乗ったようである。

 しかも実際には受験より上位にある人生の問題に悩んで来た彼にとっては既に大学受験に関することなど小さな問題になっており、理屈で片付く問題であった。7月に受けた外部の模擬試験において合格率が国内で最難関の国立東都大学では50~75%のB判定、関西で最難関の国立京奈大学では75%以上のA判定と変わらなかったが、校内における順位では受験生の中で3番となっていた。北河内高校からの受験生の半分以上が受けており、それは浪人生も入れての結果であったから、十分に自信になる結果でもあった。

 一方康介と差が付き、ちょっと落ち込んでいた清美であるが、外部の同じ模擬試験において国立京奈大学では25~50%のC判定、国立浪花大学では50~75%のB判定と上がっており、ちょっと自信を回復していた。

 気を好くしたこの2人であるが、2人だけの勉強会の方も順調に進み、約束していたひらパー(※4)でのデートも楽しく過ごせたようだ。誘った康介よりも楽しみにしていた清美が入園したら直ぐに目を輝かせながら、

「なあなあ、何から乗るぅ~!?」

 と言うと、康介も満更でも無さそうにガイドのリーフレットを開きながら、

「そうやなあ。別に何でもええけど、順番に乗って行こかぁ~」

 入場料+フリーパスで3000円であったから、高校生の財布にはちょっと痛かったが、片っ端に乗って行った2人には安いものになっていた。

 もっともこの2人、どこの支払いも割り勘で、その辺は割り切っている。

 それが好かったのか? 悪かったのか? よくは分からないながらも、意外と緊張が無かった分、日が落ちて辺りが薄暗くなり始めた頃、彼方此方の陰でカップルが好い雰囲気になり、自然な流れでキスをし始めると、何だか自分達もそうしなければいけないかのような気になってしまった。

 先ず言葉が途切れ、見詰め合う。

「・・・・・」

「・・・・・」

 どれぐらいの時間かも分からず、そうしている内に康介が不器用に迫って、ガチッ。

 前歯同士をぶつけ合ってしまった。

「ウフッ」

 可笑しくなった清美が今度は迎えに行き、すんなりと口を合わせられた。

 やっぱり若い2人である。そうなったら抑え切れず、何度も求め合い、次第に深く絡み合っていた。

 それが長い時間であったのか? それともはたから見れば意外と短かったのか? は分からないが、今はそれ以上近付けないのを2人とも分かっていたかのように、何方からともなく離れ、その後その日は殆んど無言のままで、それでも帰りの電車ではぴったりとくっついて乗っていたからおかしい。

「ウフッ。ウフフフフ」

「ハハハ。ハハハハハ」

 別れ際に見詰め合った時、お互いに可笑しかったのが分かったようである。そんな風に笑い合った後は、特に次の約束もせずに普通に、しかも既に慣れた様子でいわゆる恋人達の自然なキスを交わしてあっさりと別れた。

 それはまあ当然の流れであったようで、この2人、この本格的なと言う意味においては初デートの次の日も、特に変わったことは無かったかのように北河内高校の図書室で普通に向かい合い、受験勉強に励んでいる様子が見られた。

 

        其々に勝負の夏を乗り切って

        何とか力付けているかも

 

        其々に不器用ながらデートして

        相手のことが見えて来るかも

 

※1 例えばバブルでかなり上がっていた時期に名古屋駅から急行で10分ほどの位置にある西春では30坪の土地付き一戸建てが3000万円を切っていた気がする。その頃、大阪府内の中堅都市である寝屋川市で同じ規模の家が6000万円ほどしたように聴いた記憶がある。日本の庶民からすれば、その頃のまあまあの広さの敷地とはそんなイメージであろうか!? 要するに一般的なサラリーマンが頑張れば何とかローンを組めそうなレベルである。

※2 地下鉄、地下街等の発展、高層ビル増加等を観ても、名古屋市の都市化は急速で、それとともに道行く人のファッション、化粧等も垢抜けして来たように思われる。今ではその分、東京、大阪、名古屋、何れの文化圏に行っても大して変わらず、面白みが無くなったのかも知れない。

※3 名鉄犬山駅からバスが繋いでおり、敷地面積が100万平方メートルとこの種のテーマパークとしては我が国で3番目に広いそうな。開園が1965年とそれなりに歴史があり、近代を代表するような歴史的建造物が多く移築されているので、映画、ドラマのロケにもよく使われると言う。徳川無声、森繁久彌等、有名人が村長であったことも特徴であろうか!?

※4 前身とされる香里遊園地の開園は1910年(明治43年)で、現存する遊園地では日本最古だそうな。当初の敷地面積は12万坪と言うから40万平方メートルほどあり、今の16万平方メートルよりも大分広かったことになる。その後、京阪沿線の香里園が住宅地として発展したので、枚方市の方に移り、菊人形で有名なひらかたパークとなって行った。