第5章 残酷な季節
その3
藤沢慎二の元に松村美樹の訃報が入ったのは、9月19日の夜、広瀬学の母親である朋美からであった。
朋美にすれば、美樹は慎二の教え子でも何でもないので、知らせたものかどうか大分迷ったのであるが、教え子である学を通しての関係、それに美樹の訪問担当教師である森田晶子との微妙な感情の遣り取りを思うと、やっぱり知らせないわけには行かない気がして来たのである。
慎二が夕食を外で済ませて帰宅し、テレビのサッカー中継を観ながらぼんやりしていると、突然、電話機が鳴り出した。
トゥルルルル、トゥルルルル、トゥルルルル、・・・、
「はい。藤沢です。もしもし」
📞あっ、先生。広瀬です。
「広瀬さん・・・。どうしました? 学君に何かありましたか!?」
📞違うんです、先生。違うんです・・・。先生もよくご存知の美樹ちゃん、美樹ちゃんが今日の午後、亡くなったんです・・・』
「えっ、美樹ちゃんが!? でも美樹ちゃんは、今日の午後手術だって・・・」
📞そう。その手術が上手く行かなくて、今日の3時頃、突然眠るように亡くなったんですって・・・。
「・・・・・・・・」
📞あの、もしもし。先生。聞こえてますか!?
「はい。聞こえています。でも・・・、でも、こんな時に一体何て言ったらいいのか分から無くて・・・」
📞こんな時は何も言わなくても好いんですよ・・・・。それで、明日お通夜で明後日が告別式だから、場所と時間お知らせしておきますね。メモの用意は好いですか?
それから言われるままにメモし、電話を切った後、慎二は何をして好いのかさっぱり分からず、美樹のことではなく、ただ晶子のことばかりを考えていた。若い情熱を掛けて一生懸命取り組んでいただけに、そのショックは如何ばかりか? それが今の一番気になるところであった。
人は皆勝手なことを思うもの
気になる人をただ思うかも
その4
松村美樹のお通夜でお焼香を済ませた後、藤沢慎二は教え子の広瀬学の母である朋美と一緒に駅へ向かう途中、目に付いた、こじんまりとまとまった感じの喫茶店に入った。歩いている内にどちらからともなく見詰め合い、目と目による会話で、
『急な不幸で掻き乱された気持ちを整える為に、せめて一緒にコーヒーでも飲もうではないか!?』
と意見が一致したのである。
店の中は天然木を中心にした落ち着いた内装で、壁際に置かれた家具調の大型スピーカーが、ジャズのピアノソロを心地好く鳴らしている。
慎二と朋美が壁際に席を取り、座った時、すっと寄って来たウエイトレスは、内装と違和感がないぐらい地味な装いであったが、よく見れば端正な顔をしており、磨き上げた天然木に負けないぐらい気品があった。
その彼女が半分ぐらい水の入ったコップを置き、薄いメニューを差し出して、
「いらっしゃいませ。お決まりになりましたらお呼び下さい」
と言うのを聞きながら、慎二と朋美は声を揃えるように、
「ホット」
と注文すると、来た時と同じようにすっと離れて行った。もしかしたら訳ありかな?とでも思い、気を利かしたかのようであった。
「それにしても急だったわねえ!? ほんと、ショックだったわ・・・」
「そうですねえ・・・」
ついこの前まで、学を交えて楽しく遣り取りしていた美樹がもう居ないのである。どう捉えれば好いのかさっぱり分からなかった。
そして肉親を亡くしたように、目を真っ赤に泣き腫らしながら、何とか受け付けを手伝っていた訪問担当教師である森田晶子の姿が痛々しかった。
「晶子さん、本当に落ち込んでいたわねえ?」
「そうですね・・・」
「彼女、藤沢先生と同じように、病院にも熱心に足を運んでいたから、さぞやショックだったんでしょうねえ? 可哀想に・・・」
そう言いながら、朋美は慎二の顔を覗き込む。
それでも慎二は、
「そうですね・・・」
としか返せないので、朋美は焦れたように、
「も~っ、先生は・・・。それしかないの!? 晶子さんのことばかり見ていたくせに、もう少し何か気の利いたことを言いなさいよ!」
朋美も本当は何と言って好いのか分からず、ただただ絡んでみたかったようである。
「彼女、本当に辛いだろうなあ?」
「それやったら彼女にも、もう少し気の利いたことを言って上げれば好いでしょうに!?」
更に絡まれて、慎二は心底困った顔をしている。
ふとテーブルを見ると、何時の間にかコーヒーが置かれていた。
心なしか、BGMも哀愁を感じさせる曲調に変わっている。
「でも、広瀬さん、こんな時は何も言わなくても好いって、さっき言っていたじゃないですか~!?」
コーヒーに口を付けてから、思い切ったように、口を尖らせて漸くそれだけを言う慎二を眺めながら、朋美はちょっと呆れたような顔になり、そして、フッと一息吐いてから、肩の力を抜いて言う。
「そうだったわねえ。勝手なことばかり言ってご免なさい。本当は先生も辛いんだもんねえ!? 折角お近付きになれた晶子さんがあんなに落ち込んでいても、何も言って上げられないし、それに、これでお別れかと思うと、本当に遣る瀬無くて仕方がないですねえ・・・」
「止めて下さい! こんな時にそんなことを言うのは、本当に止めて下さいよ・・・。幾ら広瀬さんでも、そんなん、酷いやないですか~!?」
気弱で温厚そうな慎二が珍しく顔を真っ赤にして怒っている。
朋美は今度こそ素直に、
「ご免なさい。今夜の私は本当にどうかしてるわ。許してね・・・」
そう言いながら目を真っ赤にしている朋美を見ると、慎二は急に涙が溢れ出し、それ以上、もう何も言えなくなった。
あまりにも大きなショック受けたなら
もう言葉など出て来ないかも
その5
それからの数日間、藤沢慎二は何も手が付かない様子であった。曙養護学校には勿論、広瀬学の入院している近城大学付属病院に行っても、もう松村美樹、そして訪問担当教師の森田晶子は居ない。その空白は思いの外大きく、このまま自分がどうにかなってしまうのか、慎二は不安で堪らなかった。何をやっても虚しく、ただ存在していると言うだけのことであった。
と言っても学校に勤めている限り、何かはやっているのであるが、それが全く記憶に残らないほど気も漫ろだったのである。
でも、やることがあると言うことが好かったのだろう。日々、生徒や同僚、そして保護者との遣り取りに揉まれている内に、多少は笑顔も見えるようになり、立ち上がる気力が少しずつ湧いて来た。
そんなある日の午後、職員室に居る慎二の元に一通の手紙が届いた。
藤沢先生
朝夕、大分涼しくなり、其処此処に秋の気配がしてまいりましたが、先生には如何がお過ごしでしょうか。
私の方は暫らく何をする気力も湧かず、ただ惰性で仕事をしてまいりましたが、漸く、これではいけない、そろそろ立ち上がらなければ、と言う気になり、何とか仕事が手に付くようになってまいりました。
その時、大きな力になったのが生徒たちの笑顔でした。
そして、先生を初め、こんな私を支えて下さる皆様の温かいお気持ちでした。
松村美樹さんの入院中、その後の葬儀に際し、先生には一方ならぬお世話になりまして、本当に有り難うございました。不思議な縁で先生と知り合うことが出来、振り返ってみればほんの短い間のことではございましたが、私にとっては一生忘れられない出来事だったように思います。
あの時はバタバタとしておりまして、お礼の一つも満足に言えなかったがことが大変心残りでしたので、突然で失礼かとは思いましたが、改めてお便りさせていただきました。どうも有り難うございました。
それではお元気で。さようなら。
1994年10月2日
森田 晶子
慎二は夢うつつで過ごしながらも片時も忘れたことがなかった晶子からの便りに狂喜し、何度も何度も読み返すのであった。
《嗚呼、晶子さんも自分と同じように、この2週間ほどは悲しさのあまり何も手が付かなかったんだ・・・。そしてみんなの笑顔に支えられて、漸く立ち上がれたんだ・・・。そしてそして、自分と縁あって出会えたことを一生忘れられない出来事だった、と思ってくれたんだった!》
そんなことをわざわざ、そして改めて知らされ、慎二は余計に晶子に惹かれるものを感じていた。
それから、言外にもっと強く、はっきりした愛の香りが感じられはしないか? 抉るように何度も読み返す慎二であった。
その日の夜、家に戻った慎二は帰りに近所のコンビニで買って来た弁当を慌てて掻き込み、取るものも取り敢えず、書斎に飛び込んだ。今はもうはっきりと恋しい晶子への返信を書く為である。
拝啓 初秋の候、森田先生には益々ご清祥のこととお喜び申し上げます。この度はご丁寧なお手紙、どうも有り難うございます。
さて、私の方も色んな思いが錯綜し、暫らくは何も手が付かない状態でしたが、森田先生と同じように、最近になって漸く立ち上がる気力が湧いてまいりました。
そんな時なのです。あなたからの有り難いお手紙が届きましたのは!
ついこの前のことなのに、もう懐かしい気持ちで一杯になり、何度も何度も読み返してしまいました。
松村美樹さんのことは本当に残念で、今になっても何と言って好いのか言葉が見付かりませんが、あなたも手紙に書かれていますように、救いは生徒たちの笑顔であり、それに私の場合は、生徒たちの悪戯や面倒な要求も加わったりするのだと思います。
まだまだ落ち着かないとは思いますが、お互い焦らずにのんびりやっていきましょう。
それではあなたのこれからのご健康とご活躍を祈りつつ、乱筆乱文にて失礼致します。 敬具
1994年10月5日
藤沢 慎二
慎二の気持ちとしてはまだまだ書き足りない気持ちで一杯であったが、これ以上書くと晶子に強く惹かれている気持ちが隠し切れないぐらい溢れ出しそうで怖くなり、適当なところで止めておいた。
本当はこれでも十分思いは溢れ出しているのに、その辺りまでは気付かない。と言うか、頭の端で意識しながらも怖々この辺りまでは気持ちを出してみようとするところが、小心者の慎二らしいところであった。
手紙を書き終えた慎二はゆっくりと風呂に入り、それから今度はパソコンの前に座った。習慣になっているパソコン日記を付け、この日の感動を書き留めて、ゆっくり反芻するように味わう為である。
10月5日
今日、先日亡くなった松村美紀ちゃんの担任であった森田晶子さんから学校の方に手紙が届いた。嬉しくて仕方が無い。その場で踊れるものであれば踊り出したいぐらいであった。
何気ないけじめの挨拶のようにも思えるが、それをわざわざ、それもひと手間掛かる手紙でしようと言うことが、既にもう何気なくなんか無い!?
もしかしたらそうではないかも知れないが、そうであると思いたい。だから私も、何気ない手紙を返すことにした。何気なくは無い気持ちを秘めながら。
嗚呼もどかしい。そしてこのもどかしさが嬉しい。嬉しくて仕方が無い。
そんな風に感動の思いを何度も何度も打ち込み、漸く満ち足りた顔になって、安らかに寝床に就いた。
忘れ得ぬ人から手紙届いたら
穴の開くほど読み返すかも