第1章 その3
期末試験を終え、藤沢慎二は漸く一息吐けるような気がした。
感触としては中間試験と大して変わらなかったから、決してよくはないだろう。学年の200番台に留まればいい方で、下手をすれば300番台に突入するかも知れない。
それでも試験休み、そして長い夏休みと続くから、教科毎に出される宿題、夏休み後の宿題確認試験があるにても、暫らくは勉強と離れていられる。
元々宿題をする気などないから、小学校、中学校よりかえって長いぐらいであった。
でも、柔道部は合宿までして練習するらしいなあ。それに練習日も結構ある。
気が重い面もあるものの、それが若さなのだろう 慎二は新しい経験に期待するものもあった。
夏休み汗の臭いが酸っぱくて
其の湿り気が癖になるかも
夏の柔道場は独特の臭いがする。湿っぽくほこり臭い上に酸っぱい臭いが漂っていた。それに加えて慎二は柔道着を殆んど洗わない方なので、一際臭かった。
「おいおい、藤沢。たまには柔道着を洗えよぉ~!」
乱取りの順が回って来た真野明が組んだときに、のんびりと言う。
多少とも暑さを考慮して休み中の練習は午前中に行なわれた。未だ体が起きていないままに出て来て、だるさが残っている。
普段は授業のあと故の緊張感が残っているので、そのときとは大分様子が違った。
「まあまあ。ヘヘッ」
慎二はへらへらしながら、真野が臭がっているのを面白がっている。
当然、足元の注意が疎かになり、ふわふわしているように見えた。
そこに真野の体がぐっと迫って来て、更に長い脚が蛇の鎌首のように伸びて来る。
次の瞬間、慎二は頭陀袋のように中に舞っていた。
ズダ~ン。パシ~ン!
鋭い大外刈りであった。
その後真野は、上体を捻って逃げようとする慎二の体を素早く押さえ込み、袈裟固めでがちっと固めてしまう。
あ~あっ、今日も俺は天井ばかり見ているなあ。
それでも慎二は柔道着越しに感じられる真野の生温かさを何となく気に入っていた。粗い肌触り、温もり、汗の臭いが如何にも生きていると言う感じで、ほっとさせられたのである。このまま暫らくじっと押さえられていてもいいような気がして来た。
その後も何人か取り組み、その全てから軽々と投げられ、確りと押さえられた。
数日後、期末試験の成績が出た。幸い欠点はなく、中間試験と同じようなものであった。母親の祥子が保護者懇談で成績表を示され、やはり勉強部屋のことを言われたようである。帰って来てから、早速家族で話し合い、取り敢えず慎二の机だけを両親の居室に移すことにした。
普段の日に机を使うことは滅多にないし、使ったとしても、そう遅くまでは使わない。それに、多少出っ張っていて邪魔になるにしても、両親の布団を敷けないほどでもない。だから、そう大きな変化はなかったのである。
それならば初めからそうしておけばいいようなものだが、人間、迫られなければ中々工夫などしないもののようである。幾ら大して変わらないと言っても、多少は我慢を強いられるから、自分からは動き出さないのであろう。
合宿で頑張る力磨くより
大人の世界覗き見るかも
8月に入ってから学校で2泊3日の合宿練習が行なわれた。
教室に畳を敷き、そこに貸し布団を敷いて寝泊りし、学食で朝、昼、晩の食事を出して貰うのである。風呂は近所の銭湯に通う。それだけのことでも、仲間と一緒であると、酷く楽しい。何だか旅行でもしているような気分であった。普段と違うこと、ちょとした不便の中での工夫、それを楽しめるだけの若さがあったと言うことだろう。
練習は早朝、昼前、午後と3回行なわれた。
それだけなら長くてだるいだけのことだが、普段はあまり見掛けないOBまで出て来て厳しく目を光らせるので、重苦しい緊張感もあった。
それに大学でバリバリのOBたちは練習にまで入るので、慎二は何時も以上に鋭く投げられ、後頭部を何回も打った。分厚い身体でがちっと押さえ込まれ、息さえ出来ないほどであった。
それでも、練習以外の時間は楽しく、決められた時間が過ぎれば終わる練習ぐらい耐えられないほどのことではなかった。
2日目の練習を終え、夕食も済ませて道場の方へ行くと、闇の中にピカッと光るものがある。
おや、何だろう!?
見ていると、幾つかの光が時々点滅し、それが土星の輪のようになっている。
どうやら先輩たちが道場の真ん中で輪になって寝転び、思い思いに煙草を吹かしているようであった。
先輩たちも合宿を半分以上終え、大分リラックスしているようである。
暫らくして、慎二たち1年生は先輩たちに誘われ、門を乗り越えて近所の居酒屋に繰り出した。
小心故、殆んど羽目を外したことがない慎二にすれば、それだけのことで十分な冒険であり、ちょっとした大人の世界を覗いたような気がしていた。
酒が大分回った頃、橋詰が言う。
「おい、お前らの中でちょっとした1番出来る奴は誰やぁ~?」
学業成績のことである。橋詰は2年の部員の中ではトップで、学年でも常に30番に入っていた。北河内高校では30番ぐらいまでだったら関西では大学ではトップクラスの京奈大学に受かり、50番ぐらいまでだったら浪速大学に受かると言われているから、京奈大学を狙うものと見られていた。その彼がそんなことを聞くのは、自信の表れ、そして後輩たちにそんな質問をぶつけることによる確認であろう。
慎二以外の1年生が口を揃えて言う。
「はい、松本です!」
「ふぅ~ん。それで何番ぐらいや?」
「はい。30番から50番の間ぐらいです」
松本昭雄が直接答える。
「そうかぁ~。ほな、俺とあんまり変わらへんなあ。富山とも変わらへんやん」
富山達男は2年生で橋詰に次いで成績がよく、柔道の強さも同様であった。
慎二はそんな情報に疎い方で、黙って聞いているしかなかった。
「それで、お前はどうやねん?」
橋詰が酔眼を慎二に向け、情報の完全を期そうとする。
「僕ですかぁ~? 僕は大体250番から300番の間ぐらいです。問題になりませんよぉ~。フフッ」
慎二は自嘲気味に言う。
橋詰は満足そうな顔になり、次にそれを隠すかのように慎二に忠告する。
「お前、あかんなあ。少しは勉強もしとかんとあかんでぇ~。柔道部は大体成績ええねんから、もっと頑張れよぅ! 柔道は弱いわ、成績も悪いわでは、持てへんでぇ~」
それからもう一度慎二をジックリ見て、納得したように言う。
「お前、持てへんやろぉ?」
大きなお世話である。
確かに慎二は持てなかった。こんなときでも当意即妙の返しが出来ず、場を白けさせてしまうのである。
このときもただ気弱な笑いを浮かべているだけであった。
それで満足したのか、橋詰は他の1年生に絡み始めた。