第2章 その10
寒い中声を合わせて歌ったら
心の中が温かくなり
どうしても皆のペースに合わなくて
余計に心寒くなるかも
2月になると、北河内高校では恒例の合唱大会が行なわれる。受験を控えて3年生は自宅学習期間に入っているので、1、2年生の計20クラスがクラス毎に発表する。
藤沢慎二は皆に合わせて歌うのが大の苦手であった。聞こえて来るどの音に合わせて好いのかさっぱり分からず、時々とんでもない声を出してしまうようで、次第に周りがキョロキョロし始める。恥ずかしくなってしまい、ついつい口パクで済ませてしまうことになる。卒業式、入学式等の大きな行事のようにどうしても参加しなくては仕方がないとき、大抵それで済ませていた。
しかし、前年の合唱大会では新しい雰囲気につい油断してしまった。全員参加の気楽な行事と思ってしまったのである。
真面目さが遊びの要素少なくし
重い空気が漂うのかも
本質的に秀才型の生徒が集まっている為、実際には、何かの課題を与えられて発表し、競い合うと聞くと、皆結構真面目に取り組む。最初こそ多少のおふざけも入るが、それにずっと乗り続けていると、後から白い目で見られることになる。
仕方がないから、慎二としては真面目に声を出すと、途端に周りが落ち着かなくなり始めた。
一体誰やぁ、こんな調子外れの声を出している奴はぁ?
そんな顔をして露骨に顔をしかめる奴もいる。
耐えられなくなって慎二は、以後口パクで済ませることにした。
形だけ参加をすればそれで好し
邪魔するよりはまだましなこと
前年の経験で懲りているので、慎二は打ち合わせだけに参加して、練習を適当にさぼることにした。
どうせ本番では口パクで済ませるんやから、それで十分やぁ。それに、なまじ歌うよりもその方が皆の邪魔にもならないはずやぁ。
学校生活に慣れて来た分、慎二は居直ることにした。
ある日の帰りのこと、電車に乗り込み、座席に腰を下ろすと、ちょうど向かいの座席に柔道部で同学年の優等生、松本昭雄が座ったところであった。
目が合うと、松本が目をきらりと光らせて言う。
「おう、藤沢、早いなあ。今日は合唱の練習はないんかぁ?」
「あっ、松本! あるけど、お前も早いやん・・・」
慎二は既に責められたような気になって来たが、それでも自分なりには赦しているので、何とか言い返した。
「俺のところは明日からやぁ。でも、お前のところはあるんやったら、もしかしたら練習さぼったんかぁ?」
松本は追及の手を緩めない。
「別にええやろぉ?」
どうしてそんなことで責められなくてはいけないんやぁ!? 松本は音楽が得意だから俺の辛さが分からないんやぁ!
口には出せないが、そんないじけた思いがあるから、ついつい不貞腐れたような答え方になった。
松本は普段感じられなかった慎二の負の核に触れたような気がし、鼻白んだ様子で目を逸らした。
それから京橋までの30分は異様に長かった。暫らくの間は互いに黙ったまま視線を避け合っていたが、辛くなった慎二は目を閉じ、眠った振りをした。
人により何が大事か違うもの
無闇に人に押し付けぬこと
その後暫らくの間、松本は慎二と口を聞かなくなった。柔道部で練習相手に当たっても、ただ黙々と組み合い、技を掛け合うだけであった。
その技も怒りを含んでいるだけに容赦がない。慎二は何時も以上に畳に叩き付けられ、押さえ付けられた。
松本の怒りが漸く解けたのは学年末の試験に向けて柔道部の練習が休みに入ろうとしていたときで、2年生にとってはそれが引退するときであった。最後まで感情をこじらせたまま別れるほどの問題とは思えなくなったのだろう。
慎二の価値観から言えば、定期試験で適当に手を抜き、実力試験、更に受験に向けて全力を注いでいる松本もある意味さぼりだと思っていたので、自分の好きな行事に対する松本の生真面目さは好いとしても、その行事に慎二が真面目ではないからと言って何時までも怒っていたのはちょっと解せなかった。
それでも慎二は、細かいことに何時までもこだわり、守り通すほどの信念もないので、松本がちょっと照れ臭そうに話し掛けて来たとき、気弱な笑いを浮かべながら応じていた。
後から考えると松本の方に理があったのだろう。定期試験で全力を出していなかったと言っても、あからさまに抜いていたと言うほどでもない。力を出し切っていなかったと言う程度だから、十分に参加していたのである。
例えば、リーグ戦を乗り切る為にスポーツ選手が試合によって軽重を付けて臨み、総合的な成績で競い合うように。
それに比べると慎二の場合は、明らかにさぼっているのだから、誰に聞いても参加したとは認めないかも知れない。
結局、力の抜き加減、入れ加減の問題ではあっても、他人との関係において許容範囲にあるかどうか、そのコントロールを松本は起用にこなし、慎二は不器用にしか立ち回れなかったと言うことである。
ここでも慎二は自分の感情にばかり囚われて、人の気持ちを思い遣ることが出来ていなかった。
早々と皆は引退して行くが
昇段試験未だ先にあり
折角仲直り出来ても、慎二が松本と柔道の練習をすることはその日でほぼ終わりになった。
いや、松本だけではなく、慎二を除く2年生は受験勉強の為、学年末試験が終わっても、基本的にもう道場には顔を出さないのである。
しかし、慎二の引退はまだもう少し先のことになる。これまでの先輩たちが習慣的に守って来た伝統のように黒帯を締めて卒業しようと思えば、受かるまで昇段試験にチャレンジし続けるしかないから、下手をすれば大分先のことかも知れない。
同学年の部員が居なくなることは淋しいし、引退するまでの間、自分だけ受験勉強に当てる時間が少なくなるのはかなり不安であったが、伝統を自分のところで崩す勇気を持てない慎二は覚悟を決めるしかなかった。