今日、子どもが可愛がっていた小鳥が死んだ。
2、3日前から胸が腫れ、声が嗄れているようであったが、少しましになっているようにも見えた。
回復に向かっているように思え、安心し掛けていたが、どうやらそれがお別れの準備だったのかも知れない。
家人に言わせると、籠の中の止まり木の上でふらふらしていたかと思うと、スッと落ち、こと切れたらしい。
私が観た時は、籠の隅で静かに横たわっていた。
そんなに関わったわけではない。
部屋の中に放している時、偶には私の頭や手の甲に乗って来たこともあったが、大体遠巻きに観ていた。
それでも一緒に暮らしていると、結構気になる存在になっていたようである。
死んだと聞いてから暫らく、呆然としていた。
そして寂しくなって来た。
可愛がっていた子どもにすれば、どうしようもなかっただけに、余計にショックを受けているはずである。
私にすれば其方の心配も大きかった。
それが命あるものとの関わりなのだと改めて教えられる思いであった。
そう言えば、私は関わりのあった人とも何度もお別れをして来た。
その都度、今日のような呆然として時間を過ごしていたように思われる。
関わりが深いほど、癒された時間が長いほど、当然その喪失感は大きく、深い。
今は時間と気持ちの余裕が無いので、子どもの頃から付き合いのあった友達との別れに触発されて書き出した小説、「交わらない心」のアップはちょっと止まっているが、あれにしてもそうである。
命あるものとの別れへの思いの大きさ、深さが元になっている。
今日は仕方が無い。
それぞれが一緒に過ごした時間を振り返り、静かに偲ぶことである。
そうとしかしようがない。
ただ、人はそれでも、そのショックを乗り越えて生きて行かなければならない。
それが命あるものの使命とも言える!?
なんてことが言える私はまだ遠い存在であったのだろう。
可愛がり、甲斐甲斐しく世話をしていたが故に、より大きなショックを受けている子どもに掛ける言葉はなく、そっとしておいた。
少しずつ乗り越えて行くことを願いながら。
命あるものとの別れ冬の夜
命あるものとの別れしみじみと