エピソード22
夏休み明けのある日、定期テスト前でもないのに、藤沢浩太が自室で珍しく机に向かっている。中学生の時に躓いた英語に不安があるらしい。
2年生では文系、理系、就職等の、将来を見据えたコースに分かれるそうで、その話がそろそろ始まっていると言う。本人なりに思うところがあるのだろうか?
父親の慎二と母親の晶子は、ようやく奈良県でも底辺の県立西王寺高校に入れた浩太にとって、所詮国公立は無理だろうから、行かせるとなると私学。そんなお金を果たして出せるのかどうか? 迷うところがあり、何も見えない今から、浩太の言葉に一喜一憂していた。
一時はどうなることかと、生きる力の弱さをあんなに心配させた浩太が、高校に入れたことで満足するだけではなく、少なくとも大学と言われるところを目指そうと口にし出したことがちょっと嬉しい。経済的な負担は重くても、学資保険や、それでも足りなければ奨学金を借りてでも何とかしてやらなければ、と慎二と晶子は2人して気を引き締める。
しかし浩太は、進学したいと言ったその舌の根も乾かない内から、
「やっぱり無理やわぁ~。これ以上勉強なんか続けられへん。4年も行ってもしたいことなんかないし・・・」
そんな風に言われると、寂しいような、ホッとするような。気が抜けてしまう。
親友の尾沢俊介の方は迷いなく進学と決めているそうだ。学業成績は浩太より悪いぐらい。家庭が、と言うか父親の良治が相変わらず落ち着かず、それも理由にしてほとんど勉強していないと言うのに、である。経済力があり、少子化の今、何とかする気とお金さえあれば何とでもなるのだろうか?
しかし、家族とは愛憎悲喜交々、良くも悪しきも色んなことを共にし、好き嫌い色んな感情を交し合ってこそ落ち着きを見せて来るもの。それは疑似家族的な学級、クラブ、会社のチーム等でも見られがちなことである。よくもめるのは、ある意味、より深く付き合える前段階と見ればいいのかも知れない。その証拠に、俊介は決して良治が嫌いではなく、むしろ浩太と慎二の関係より深く、強く結びついているかのように見える。
考えてみれば良治にも気の毒な面があり、妻の芙美子を愛し過ぎるが故に、強く拘束した。時には気持ちを抑え切れないまま、暴力となってしまい、それが子どもたちにまで及んだ。
愛想尽かしと恐れから、本当は子らには見えない、もっと深い理由もあったのかも知れないが、芙美子が若い男と一緒に逃げてしまった後、良治は毎晩、浴びるように酒を飲み、暴れた。
子どもらは母親のように逃げるわけには行かないから、生きる為には、上手く空気を読み、媚びるようになる。それが俊介を逸早く大人に見せているようである。
ただ、所詮それは歪な生命力を培ったに過ぎず、潜在能力を引き出し、この厳しくも温かい人生を活き活きと生きる力を結実させることにはむしろマイナスとなっている。
それでも良治が決定的に駄目オヤジではなかったから、子どもらは何度かの怪我はあり、子ども家庭センターや、ときには警察の世話になりながらも、それ以上家庭が壊れることもなく、末っ子の俊介が何とか高校生になった。兄の壮介は大学に入り、既に家を出て下宿に入っているし、姉の桃子は短大を出てすぐに家を出ている。
元々情が濃過ぎる面を持っていたから、優しいときは徹底的に優しく、気前が好いそうだ。何時会っても俊介は、浩太からすれば考えられないほどお金を持ち、散財した。
子どもは幾ら親を嫌っているように見えても、どこかで強く結び付いているし、親の否定したいところほど似て来るものらしい。俊介の頑張り切れないのに迷うことなく上を見るところ、気まぐれな優しさからよく彼女を替えるところ等に出ていた。
浩太のことに話を戻す。
慎二には良治ほど激しいところが見えず、休みの日は自室に籠って独りで機嫌好く遊んでいたから、子どもにあまり手がかからなくなった今、晶子は気楽そうに、やれコーラスの練習だ、やれ買い物だ、と言って出歩いていた。
慎二が暇さえあれば、韓国ドラマを観ているか、怪しげな話を書いては職場の先輩でメル友の秋山本純とやりとりして、あまり晶子の相手をしないのがどうかと、浩太は批判的に見ていたときもあるが、反抗期を終えたこの頃では、夫婦と言っても他人同士だし、まあこんなものか、とも思っている。今、何人か惹かれる女(ひと)が出て来て、慎二や晶子のようにそれぞれ好きなことを楽しみつつ、同じ屋根の下で緩やかに寄り添っているのも悪くないか? と思えて来た。
そんなある日、慎二が浩太にプリントアウトした文書を見せながら、おずおずと言う。
「今朝の新聞に光速を超える速さを持った粒子のこと、出て来たやろぉ? あれから思い付いてショートショート、書いてみたんやぁ。ほれ、読んでみぃひんかぁ~?」
浩太にすれば理科は大の苦手で、SF小説にもほとんど興味がなかったが、そこはもう高校生。
「そうやなあ。読んでみよかぁ~」
気軽に受け取って、あまり長くもないので、そのまま読み始めた。
金の玉、銀の玉
欧州の研究機関によると、光を超える速さを持つ粒子の存在がほぼ確実になった。これが事実だとすれば、四次元世界を超える異次元の存在、負の質量、時間の逆行等、これまで想像力豊かな先進的科学者かSF作家の頭の中にしかなかった不思議世界が誰にとっても当たり前の世界となるのかも知れない。たとえばタイムマシンも夢ではなくなる!?
若井光子博士はこの理論を応用すれば、ボトックスより効果的な若返り、更にダイエットが出来ることに気付いた。ボトックスならボツリヌス菌の毒素による腫れを肌の張りとして利用しているだけだから、腫れが収まれば元に戻ってしまう。しかし、光速を超える微粒子を体の中にうまく取り込むと、時間を逆行させることにより本質的に若返り、負の質量を持つことにより無理なく減量できるのだ!
さて、何とか思っていたような若返り減量薬、モドルーノを開発できてご機嫌の若井博士。さあ飲もうかとそのタブレットを口に入れかけたとき、喜びに胸が弾み過ぎたか、思わず手が滑って、
ポロリ。コロコロ、ポチャン!
研究所の庭の池の中に落っこちてしまった。
「わっ、わっ! どうしよう!?」
そこに池の神様が出て来て、
「この金の玉を落っことしたのかな?」
何だか懐かしい響きだなあ、と思いながらも、若井博士は正直に、
「いいえ、違います」
「それではこの銀の玉か?」
「いいえ、違います」
「それではこの銅の玉か?」
「いいえ、違います」
でも、何だかおかしい?
先ず神様の髭がなくなり、次は髭や髪の毛の色が黒くなった。
その次は、引き締まって艶が出て来たなあと思っていたら、最後に出て来たときは何と、神様は赤ちゃんになり、木の玉につかまってプカプカ。機嫌好く遊んでいたそうな。どんとはれ。
多少まとまりが出て来たとは言え、相変わらずしょぼい話で、浩太としては笑うしかなかった。
その気弱な笑いを慎二は高評価と受け取り、機嫌よく自室に戻って行った。
憎めない親父ぶりである。ぬるま湯のようでもあり、これが浩太の成長を遅くしていたのかも知れないが、のんびり屋の浩太としては、俊介のことを思い浮かべ、むしろ有り難く思い始めていた。それだけ大人への距離が短くなっていたと言うことである。
進学をするかどうかと思い出す
子の成長が嬉しいのかも