エピソードその6
ゴールデンウイークが終わって暫らくすると、大阪府立北河内高校では1学期の中間テストに向けてクラブ活動が1週間の休止期間となった。同じ学校の教師と生徒の関係となった青木健吾と中野昭江はもう近所のファミレスにおいて公然と2人っきりの勉強会を開くわけには行かない。健吾には多少迷ってもそう判断するぐらいの節度が残っていた。
仕方が無いから健吾は、担当している教科である物理に割り当てられた教室の中で1番広い、普通教室2部屋分ぐらいはある物理実験室に、顧問をしている女子バスケットボール部の部員を集めて勉強会を催すことにした。
これは生徒のみならず、担任、保護者にも喜ばれた。2年生の後半になってクラブ活動を引退するまでは中々独りでの勉強に集中し難いからである。
北河内と言う土地柄もあり、北河内高校には学区でトップの公立進学校になってもまだまだそんな呑気なところが少なからず残っていた。
さて、勉強会をし始めてから1時間ほど経ち、休憩に入った時のこと、夏の合宿をどうするのかと言う話が突然のように出て来た。
先ず2年生のムードメーカーでお調子者の、よく光るくりくりした目が可愛い葉山涼香が口火を切る。
「なあなあ。今年の合宿のことやねんけどなあ、どこに行くぅ? 去年は涼しいから言うて高野山にしたから、どこを観ても山ばっかりのところで退屈したやろぉ~!? 今年は絶対に海があるところがええと思うねん・・・」
それを聴いた1年生で小柄な三島冴子も目を輝かせ、
「ええっ、今年は合宿で海に行けるんですかぁ~!?」
と声を弾ませると、後は、
「海はええなあ・・・」
「わぁ~、海、行きたいわぁ~! 私、今年は絶対新しい水着買ってもらお~っと!」
「うちとこ、この頃あんまり旅行してへんから楽しみやわぁ~」
皆が口々に勝手なことを喋り出し、収拾が付かなくなりそうなので、2年生でキャプテンをしている長身ですらりとした外崎順子がまとめに掛かる。
「まあまあ、夏の楽しみについてはそれぐらいにしといて、そろそろ勉強を再開しょうかぁ~!? ほな、青木先生、どこか海があって好さそうなところを探しておいて下さいねっ!」
「うん、分かったぁ・・・」
健吾としても特に異存はなかった。
それどころか、聴いている内に何だか楽しみになって来た。
そして早くも、モデル並みに引き締まりながらもアスリートらしい健康的なメリハリのある水着姿の昭江が、さり気無く横目で自分を意識しながら恥ずかし気に海に入って行くシーンが脳裏にくっきりと浮かび始めていた。
「あっ、先生、今、もしかしたら変なこと考えてへん!? 何や口元が緩んで来ましたよぉ~。ウフフッ」
お調子者だけに勘が鋭く、反応の速い葉山涼香であった。
満更当たっていなくもないので、健吾は急に目を泳がせ、大き目の耳たぶまで真っ赤になっていた。そしてもごもごしながら否定に掛かる。
「いや、そんなこと、そんなこと絶対にないってぇ・・・」
「ウフフフッ」
「ウフフフフッ」
年の割に健吾のそんな初心さがおかしかったようで、部員達は目を煌めかせて中々勉強が手に付かない様子であった。
昭江はその輪に入らず、静かに勉強を再開し始めたが、少しも進まず、何だか健吾に自分の水着姿をまじまじと見られているような気になって来て、それが別に嫌なことではないだけに、いや心の奥ではむしろ求めている自分の存在にも気付き始め、頬を薄っすらと染めていた。
皆を束ねるキャプテンだけに順子はそんなことにも逸早く鋭く気付き、実は自分も健吾に惹かれ始めていたことから、ちょっと哀し気な表情になり、もう何も言わずに静かに勉強を再開し始めた。
部員達が帰ってから早速健吾はタウンページ(※1)で合宿斡旋業者を調べ、幾つか問い合わせてみたところ、1泊3食付きで5000円ぐらいからあった。
女子部故の荷物の多さを考えて大型の観光バスの貸し切りに付いても調べ、問い合わせてみたら、和歌山、北陸ぐらいであったら往復で1台当たり10万~15万円ぐらいであるから、1人当たり5000円で済みそうである。
と言うことは3泊4日で1人当たり20000円ほどになり、思っていたより安く、健吾の気持ちは、色々調べて手配したり、計算したりしている内に、早夏休みまで飛んでしまい、活発でキラキラと輝く素直な女子高生達に囲まれて大騒ぎされながら、すっかり行った気になり始めていた。
それはまあともかく、幾つか聞いた候補の中で健吾が惹かれ、ほぼ決めていたのが福井県の高浜町(※2)にある民宿であった。それを顧問の1人である女性教諭の袴田久美子に相談したところ、直ぐに緊張した表情になって言う。
「ええ~っ、福井県の高浜町ですかぁ~!? 高浜って、あの関西電力の原発があるところでしょう? 何もわざわざそんなところに行かなくても・・・」
結構強そうな難色を示すので、その時はそれで置くことにした。
実は理学部出身でありながら寡聞にして健吾は、その頃未だ高浜町が原発で有名なことを知らなかったのである。それに調べてみても、政府や研究機関にも認められて日々普通に稼働しているのであるから、確率的に考えてそんなに危険ではない気がしていた(※3)のだ。
未だ東日本大震災が起こっていなかったことが一番大きかったのであろう。健吾は更に色々調べてからも、疑うことなく久美子を説得に掛かることにした。
そもそも放射線と言うものは地球が宇宙の中にあるのだから、自然界にも普通に飛び交っているはずであるし、建造物のコンクリート等からも出ていると言う。そんなものに比べても原発の危険性は低いぐらいらしい。
そんな一般的によく見聞きする理由が根拠であった。
そしてもっともらしく説明している内に、久美子の、教師によくある生真面目な神経質さを揶揄するぐらいであった。
後から振り返ってみれば非常に恥ずかしいことであったが、知らないと言うことは時に至極大胆な言動を取らせるようである。健吾はすっかり説得出来た気になって手続きを進めた。
面白いことに、実は久美子も健吾に少し惹かれ始めており、積極的に主張され、進められると強くは反対出来ない。
それに、健吾が原子核実験でも有名な国立浪花大の理学部を出ていると言うことがこの場合妙な安心感を与え始めていた。
人はそんな風に自分が安心出来るような理由を無理にでも引っ張り出し、動き始めるもののようである。
青春は辛い練習何のその
合宿さえも楽しいのかも
人は皆其々理由見付け出し
何とか気持ち落ち着けるかも
※1 NTT(日本電信電話)が発行する職業別(業種別)電話帳のことで、業者を調べたい時には便利なものであった。この他には五十音順電話帳であるハローページがある。五十音順電話帳の歴史は古く、1890年に遡るそうな。それも印刷物としての配布は2021年10月以降に順次終えて行く予定となっていると言う。
※2 福井県の南西部にあり、大飯郡に属する人口1万人ほどの町である。リアス式海岸の中、海水浴場があり、夏には多くの観光客が訪れる。またそこは夕日が美しい海岸でもある。
追記 今漸く思い出したが、若い頃から近くにある大飯原発を意識していたが、高浜原発への意識は薄かったのである。ちょっと調べてみたら、営業運転の開始が高浜原発は1974年で、大飯原発は1979年とあるから、高浜原発の方が古く、普通は此方から意識するのだろうね。
※3 今回の新型コロナウイルス感染症の件から考えても、政府が公認していたからと言って安心出来ないことが分かる。そう言う意味で、その昔、文豪パール・バックが我が国で、民主主義において闘うことが必要である、と説いたことが納得出来る。そして原発の件については今回のコロナ禍よりもずっと前、東日本大震災による福島原発の事故がそれを明らかにした。
追記 ここまでだけを見ると政府の怠慢や悪意と言ったものを想定しているように読み取れるが、まだコロナ禍が続いており、時には病院施設的に余裕の無い状態になり、時にはデータを取りこぼし、この社会の能力的限界、人間の無知と言ったものも関係しているような気がして来た。何れにしても、自然界に対するより謙虚な姿勢が求められているように思われる(2022年2月11日)。