第3章 その6
物事は自分なりしか見えぬもの
自分を広げまた見れば好し
迷ったら立ち止まらずに学びつつ
また改めて考えるべし
現代国語の時間にテーマは自由の作文を書く宿題が出た。藤沢慎二は迷うことが多いこの頃、いたずらに考え過ぎていないか? この機会を利用して考えてみることにした。
そこで、自分という小さな存在だからこそ今の限界があること。しかし、宗教のことを含め、本当の限界を焦って知ろうとし過ぎないこと。そして、自分の視野を広げながら、機会を見ていう追々考えて行けばいいだろうということに思い至り、以下のような簡単な作文に書いてみた。
限界
藤沢慎二
私は物事において限界を知ることが大切だと思っている。限界を知らずに焦って進めようとするから失敗する。限界を知り、焦らずに限界内で頑張れば十分なのである。そして、もっと成果を上げたければ、その限界を少しずつ先にもって行けばいいのである。
人はとかく物事を自分なりに直ぐに判断し、行動に移して、少しでも早く落ち着こうとしがちなものである。
それは人が自分の言いたいことばかり言って、中々他の人の言いたいことを聴こうとせず、また聴くときも、もう分かったから皆まで言うな、と押し止め、自分の聴きたいように聴くことからも分かる。
また、初めて見聞きすることに酷く緊張を覚え、少しでも早く自分の理解の枠内に当てはめようと大騒ぎすることからも分かるだろう。
この傾向は普段理屈に偏る人ほど多く見られる。
しかし、大して知識も経験もない私たちの視野がどれほど狭いものか? それがどれほど判断を狂わせるものか? 気に掛けもしない。いや、分からないから、気に掛けようもない。
そして、その弊害たるや、怖ろしいものがある。
たとえばフィクションではあるが、理に勝つ若い人の例としてドストエフスキーの書いた「罪と罰」における主人公、ラスコーリニコフの手前勝手で傲慢な判断による高利貸しの殺人が挙げられよう。
また、今の自分が幾ら生き辛いからと言って、安易に自殺してしまったり、怪しい宗教に走ったりするのもどうかと思われる。
人間は今の自分の限界を知り、それを謙虚に認めなければならないのだ。そしてその枠内で生きながら、焦らずに限界を広げて行けばいいのである。
とは言うものの、若い内は中々出来るものではなく、今の私にも、若さ故、そんな焦りがないとは言えない。
死のこと、生のこと、性のこと等、この世の中は分からないことだらけである。出来れば、一刻も早く自分なりの答えを見付け、心に平安を得たい。
ただ今の私は、自分が大してものを知らないと言うことだけは知っている。そのことを謙虚に認め、これからも私はじっくり学び、考えて、自らの限界を少しでも広げて行きたいものである。その一つの道として、大学への進学があるのではないだろうか!?
慎二は今までになく上手く書けたような気がして来て、先ず母親の祥子に見せたところ、さっと目を走らせ、微妙な表情をしながら、
「言いたいことは何となく分かるけど、何や当たり前のことを偉そうに書いてある気がするなあ・・・」
と、何時も通りちょっときついことを言う。
息子の心の内を垣間見たような気がし、恥ずかしかったのだろうが、もう少し褒めてくれても好かったのに・・・。
言葉にはならないながら、そんな風なことを思い、慎二は少し不満だった。そして、見せるまではあったはずの自信が急激に失われて行った。
近ければ中々事実告げられず
つい恥ずかしさ出てしまうかも
内よりも外に見付ける理想像
青い理想は高過ぎるかも
しかし、もう少し膨らませて伸ばしたものを提出すると、国語教師の福本欣治からは、カントの著作を思わせるところがあると大仰に褒められた。
福本は詩人で、評論家としての著作も何冊かあるらしい。
教師のことを本心からはあまり認めない慎二にしては珍しく、福本には一目置いていたから、その福本に褒められたことで慎二は、それから後、文章を書くことに興味を覚えるようになった。
そう言う意味でも、多感な青年時代から大人へと導く高校教師の資質、生き方はもっと問われなくてはならない。
ただ多感な青年時代には、ともすれば親に理想を求め過ぎ、得られないからと言って、外に理想の親を求めがちであることについては、一度じっくり考えておいた方が好いかも知れない。
何故なら、外に見付けた理想の親も、その人が家に帰れば、そこの家庭内では普通以下の親であることも往々にしてありがちなことだからである。
要するに、気取った外面だけを観て感心しているわけだ。
勿論、人間、理想を持つこと、意識して理想像を演じることにも十分意味があるだろう。しかし、その人間には普通の部分もあることを知り、許容することも人が生きて行く上において大切なことなのである。
そして不満があれば、その上で更なる理想を目指して行けば好い。
これもまあ人間存在の限界を知り、受け入れつつ、更なる限界を求めて行くということになるのいであろうか!?
徒に知識増やせば見えるのか
信じることが大事なのかも
数日後、キリスト教系の新興宗教を伝道しようと、慎二の部屋を訪ねて来た人がいた。
「少しお時間よろしいでしょうか? 神様についてお話させてください」
静かな語り口ではあるが、少しでも聴こうとする素振りを見せると、じっくり語って行きそうな雰囲気である。
受験勉強の予定が狂わされることを怖れた慎二は、福本に褒められた作文のことを思い出しながら、柄にもなく大きな声で、はっきりと言った。
「今は受験勉強で忙しいから、申し訳ないけど、ゆっくり話を聴く時間はありません。それに、神様に興味を持たないわけではないけど、今のままでは答えが出て来ないから、先ずは大学に行き、しっかり学んだ後、またぼちぼち考えて行きたいのです」
茫洋とした慎二の風貌に似合わない気取った言い方に強い拒絶を感じたのか、その人は淋しげな微笑を浮かべながら、
「分かりました。でも、果たしてそれで神様のことが理解出来るものなのか? 私にははなはだ疑問ですけどねぇ」
とだけ言い、静かに立ち去った。
確かに、何の知識もないままに物事を即断し、行動に移すよりは、じっくり学ぶ姿勢は大事である。
しかし、学べば何でも分かるようになる、という思い込みは傲慢ではないだろうか!? 無闇に物事を分かろうとせず、もっと素直に神様を信じてお任せすれば好いのに、何故そうしないのか?
そのときの慎二にもう少し余裕が感じられれば、その人はそんなことを伝えたかったのかも知れない。
神様と縁があるのか
その後も何度か誘い受けているかも
母親の趣味故にミッション系の幼稚園を出た所為か、キリスト教とは縁があるようで、慎二は高校時代に限らず、何回か誘いを受けている。そして、その内の幾つかの集まりには参加しているのだが、その都度少しはなびくものの、まだ何れの宗派にも入信するには至っていない。
帰ってから聖書を買い求め、独り静かに何箇所か読み、感動していることもあるのに、である。
結局、頭の表層で理解し、本当は心まで動かされていなかったのかも知れない。多分、宗教のような崇高なものに感動している自分に酔っていたのであろう。翌朝になればすっーと熱が醒めてしまい、また宗教とは無関係な日常が始まるのであった。
神様は一体何処におわすのか
見えないけれど感じるのかも
では、慎二にとって宗教は本当に無用のものなのか!?
日常を見ていると、あながちそうとも言い切れない。
たとえば、害虫を見て、仕方がなく殺そうとしながら殺し切れず、逃がしてしまうこともしばしばであったし、余裕があれば必ず逃がしていた。その他、無闇に神社や仏閣に手を合わせられないし、何か気の進まないことをしようとして、神様の存在を意識して止めることもよくあった。
特定の宗教ではないにしても慎二は、日々神様の存在を十分身近で確かなものとして感じていたのである。