エピソードその14
昭和62年3月上旬、今から振り返ってみれば長かった昭和も残り2年を切った終盤に入っているが、そんな気配を何となく感じていながらも、普通は日々の時間の流れに追われ、またそれぞれのことで精一杯であるから、まだあんまりはっきりとは感じていなかった、と言う方が正確であろう。
少なくとも教え子の中野昭江の存在が胸の大きな部分を占めるようになっていた青木健吾にとっては特にそうであった。
また昭江にしてもそうであったかも知れない。心の中にある健吾の存在が健吾の中にある昭江の存在に匹敵するぐらいまでは大きくなっていなかったのかも知れないが、大事な自分の将来への進路が掛かっている時期であった。少なくともそれが昭江の意識にとって大きくないはずがなかった。
健吾は大阪に戻ってからこの2年、大阪府の一般公務員と教員の採用試験を受け、何れにおいても合格までは至っていなかった。
1年目は準備不足もあり、また将来への気持ちがはっきり固まっていなかったことも大きく、自分でも試験終了後直ぐに分かるぐらい惨憺たる結果であった。
もっと言えば、問題をざっと見た時点で既にと言った方がより正確かも知れない。
ともかく、2次試験、面接までは行かずに1次試験でものの見事に砕け散った。
昭江と一緒に勉強するようになり、また出身校である大阪府立北河内高校の常勤講師をするようになったことも手伝って、勉強がかなり捗り、2年目は気持ちがまあまあ固まって来た。
ともかく公務員か教員、何方かと言えば昭江との縁をより深められそうな正規の教員になって、先ずは生活を安定させたい。そして未だ口には出せないが、出来れば昭江の将来を支えたい。そんな気持ちもエネルギーとなって一般公務員、教員共に一次試験は余裕で通過し、2次試験、面接までは進むことが出来た。
それ等も後から確認したところではかなり好い線まで行ったそうであるが、時期が悪かった。募集人数が毎年目に見えて減るようになりつつあり、運も相当に関係するようになっていた。それに、これはオフレコだけどと言われて知り合いのベテラン教師に教えて貰ったことであるが、こんなご時世になると、如何に強力な政治家とコネを付けられるかと言うことが思っている以上に大きいらしい。採用する求人側から観ても安心感と言う保険の意味でそれは正当化されていると言う(※1)。
それはまあともかく、次年度も引き続き北河内高校の常勤講師をすることになった健吾が、来年こそ何とか合格して、再来年こそは生活を安定させ、大学生になるはずの昭江を経済的にも支えたいと言う気持ちが更に強くなっていた。
そんな健吾にとっての朗報かどうかは微妙であるが、愛知県に住んでかなり長くお茶とお花の師匠をしている父方の伯母、早乙女瞳から、県に隠然たる、しかも結構強い影響を持っている人と知り合いになったから、世話をしようかと言う話が入った。
少し迷ったが、来年の夏には28歳になるから、流石にもうきつくなっていた。
《利用出来るコネがあるのならば、利用しても好いのではないか!? 先ずは入らなければ始まらないのだから、入ってから真面目に取り組めば好い話である・・・》
そう思う気持ちが無視出来ないぐらい強くなることがある。
でも、未だ純粋さの残る昭江の手前、それは恥ずかしいことのようにも思えて来た。
《でもそんなものは持てたことのない俺が勝手に作り上げた綺麗過ぎる女性へのイメージかも知れない。現実はそんなに甘くない。子どもを産み、育てる性である女性は現実的だと言うし、昭江も既にそうなのかも知れない・・・》
一言もそんなことを訊いてみるでもなく、健吾は勝手な妄想を膨らませ、勝手に迷いに迷っていた。
一方昭江は、2月の末に卒業式で3年生を送り出し、いよいよ最終学年が見えて来た。
その数日後に返って来た学年末テストの成績表をみると、2学期末より少しではあるが更に伸びており、クラスで8番、学年で86番まで上がっていた。これはもう学区でトップの公立進学校である北河内高校において進学先として難関国公立を選択するのが普通のレベルに入っており、健吾が卒業した国立浪花大学、兄の陽介が在籍している国立阪神大学等の背中がじんわりと見えて来た気がしていた。
家に帰って早速母親の徳子と兄の陽介に、ちょっと自慢気に見せた。
「ほら、見てみぃ~。またちょっと上がったやろぉ~!?」
徳子はよく分からないながら、学年で安定して60番前後であった陽介に以前よりは少し、それも安定して近付いて来ているようには思えた。もしかしたら比較の対象になりつつある? そう思うと、先立つものが気になり始める。
《これは昭江も4年生大学に入れるしかないのかも知れへんなあ・・・》
「そうやなあ。頑張ったやん・・・」
迷いが返事を曖昧にしていた。
陽介の反応はもっと明快であった。
「おっ、凄いやん! 学年で100番以内に安定して入って来たなあ。これやったら、もうちょっと頑張ったら俺が行ってる国立阪神大学にでも受かるんちゃうかぁ~!? 青木先生に教えてもろてる効果がぼちぼち出てるようやなあ・・・」
そう言って悪戯っぽい笑いを浮かべ、昭江の顔を覗き込む。
昭江のことが可愛くて仕方が無く、もしそうなったら、早く就職を決めて、自分なりに助けてやろうと言う気にもなっていた。
そう思いながらも心の中に健吾のことが浮かび、
《そんなことは別に俺が思わんでも、その内に青木先生がそんなことを言い出しそうな気もする。もしそうやったら、ちょっと早い気もするけど、それでええのかも知れへんなあ・・・》
そんなことも思えて来るのであった。
ところで、テストが終われば何時もは直ぐに昭江のところまで結果を確認しに来る橋本加奈子であったが、女子バスケットボール部と女子バレーボール部の2年生による合同勉強会には参加せず、2学期末から柿崎順二と一緒に勉強すると言って、学校の図書室に場所を移していたことも関係しているのか? 前回と同様に、今回も直ぐにはやって来なかった。
冬休みに入って2人はクリスマス、初詣と一緒に過ごす内に益々惹かれ合い、ここで先ず双方の保護者のアンテナに引っ掛かる。
そして互いに連れて来るように言われ、両家を訪ね合うこととなり、3学期が始まるまでに一定の承認を得ていた。
それだけこの2人は一歩先に大人の世界へと踏み出したのかも知れない。筆者としては直ぐにでもその後の進展に触れたい気持ちもあるが、それはまた後日の楽しみにしておこう。
さて、学年末の保護者懇談も終えて落ち着いた頃に教え合ったとことによると、学年で加奈子が185番、順二が168番と、まあまあ安定している。相変わらずそんなに差はないようで、もう少し頑張って一緒に市立浪花大学辺りを目指すか? それともあまり無理をせずに2人で関関同立クラスの関西における難関私立大学を目指すか? ともかく一緒に同じ大学を目指すと言うことでは意見が一致しているようだ。
それと言うのも、順二は野球部での活動をまだ本格的に続けており、これは3年生になっても夏頃までは続けるつもりであるらしい。そしてその先にも繋げて行くのか? それとも後は趣味として続けて行くのか? まだ少し迷っていると言う。その判断に加奈子も付き合う気になっていたのである。
それから安藤清美と丸山康介であった。
時間を少し遡ると、清美は何度か手紙を書く内に健吾と一緒に康介の自宅を訪ねるようになっていた。康介からの返事は無かったし、訪ねて行っても皆が集う居間に出て来ることはなかったが、母親によると先ず健吾が訪ね、更に清美が訪ねて来るようになってからは確実に表情が緩み、言葉に出すようになったとのことであった。
それが励みになって、清美と健吾が康介に年賀状を出したところ、康介から遅れ馳せながら返信(※2)があった。そんな風に清美は康介の登校を少しずつではあるが、倦まず弛まず促し続け、康介もそれに応えて、1月半ばには何とか登校出来るようになっていた。
そして遂に、2年生の女子バスケットボール部と女子バレーボール部の合同勉強会の最終回、すなわち学年末テスト前の勉強会には清美だけではなく、冷やかされながら康介も加わることになった。
康介の場合、引き籠りと言っても元々対人関係と言うよりも高過ぎる理想に比べて自分の壁の弱さが原因であったから、清美との関係を囃し立てられても恥ずかしがることはなく、むしろにこにこと、如何にも嬉しそうにしていた。
どうやら大きな闇に落ち込みながら、その所為もあってか? 一番早く夜明けを迎えようとしているのは康介のようであった。
そんな康介を見守る清美の優しそうな目を見ている内に、何時しか皆は冷やかすのを止め、静かに見守るようになっていた。
その結果、学年末テストにおいて清美は、学年で41番と安定しつつ少し伸びて、国立浪花大学にするか? もう1ランク上の関西において頭ひとつ抜けた存在である国立京奈大学にするか? いよいよ本気で迷うところまで迫って来た。
一方康介であるが、引き籠る前は学年で常時30番以内と、元々安定した学力を持っており、十分に国立京奈大学レベルであった。引き籠っている間も勉強は怠らなかったようで、勉強会においても教えて貰うよりも、清美を中心にして、周りに教えている方が多かった印象である。
要するに康介にとって勉強会は、気晴らし、息抜きであったようだ。その息抜きが好かったのか? 康介は学年で19番となり、疑いなく国立京奈大学レベルで、もしかしたら我が国の最高峰である国立東都大学をも狙えるところに入って来た。
其々の進路が少し見えて来て
迷える時期になって来たかも
其々の進路はっきり見え始め
将来の夢膨らむのかも
※1 微妙な問題であるし、今でもそうなのかどうかは分からないが、袖の下文化、コネ文化と言われがちな東アジア諸国の中のひとつ、我が国でも少し前までは色々なコネによる入学、入社、便宜等が存在していたことを実際に聴いたことがある。幸いと言うべきか、不幸にもと言うべきか、世話のし甲斐が無い私は何の恩恵も受けたことがないが、韓国ドラマにはそんな場面がよく描かれていて、そこら辺りにも懐かしさを感じるのかも知れない。
※2 まだSNSはおろか、メールも無かった頃の話である。時間は掛かったが、返事を焦らされることもなく、その分、丁寧に言葉を選んだり、想像を膨らませたり出来る利点があった。何事も2つ好いこともないが、2つ悪いこともない、と言うことである。そして心にはそのゆったり感が好いのか、ネット社会が我が国より先に発達している韓国ではかえって手紙を書くようになったと聴いたことがある。