sanso114の日記

日々気になったことを気楽に書き留めています。

台風一過(おわりに)・・・R4.7.11①

              おわりに

 

 藤沢浩太の通う奈良県立でも困難校と言われがちな西王寺高校では2学期になると行事が目白押しになる。9月の末に先ず体育大会が行われた。

 出席率が7割と、あまりよくはないが、この時期既に長欠者もかなり多く、普段の出席率が8割ぐらいになっていることを考えると、実質的な出席率は9割を超え、そんなに悪くはない!?

 それだけではなく、競技での競り合い様、応援合戦の張り切り様、ポスター、垂れ幕、横断幕、団旗等の制作物の仕上がり様を見ていると、捨てたものではないなあ、と感心させられ、観に来た保護者はひと時の感動を得る。

 ただ、それが普段に中々波及しないところが、生徒達の手を引っ張ったり、背中を押したりして一生懸命取り組んでいる教師達にはもどかしいようだ。

 ここで少し冷めるようなことを言ってみると、中ぐらいの学校よりも支援学校や困難校と言われる学校における行事の方が見た目は盛り上がっており、それには若い教師達のエネルギーが半端ではなく注ぎ込まれているということである。

 その証拠が見たければ、困難校とは言われない10段階評定の5レベルの学校に目を移してみればよい。生徒達に任せても大丈夫と判断されて、自主性を求められた場合、要するに放って置かれた場合、間延びすること、間延びすること。普段引っ張ったり、押したりすることに慣れている教師や保護者からすれば、手を出したくてむずむずして来るはずである。  

 それでも、その学校の子等は卒業して独りで生きて行くことになっても、何とか自分のことを自分で楽しませることが出来るから、助けを借りずに曲りなりにでも生きて行ける。

 それが支援学校や困難校の場合だと、普段を独りで上手く生き抜く力にはなっていないから、課題が大きいのである。

 要するに、一度や二度の取り組みでは中々力となって見えて来ないからこそ、支援学校や困難校の場合、無理に時間を捻出してでも様々な行事が行われ、若い教師達のエネルギーでテコ入れすることによって、ただ保護者や来賓への見場をよくするだけではなく、生徒達の生きるスキル、感性、力と言ったものをアップさせようとしているのであろう。

 結果はどうあれ、そう信じて取り組むことが学校の好さで、そこが即結果を求められがちな我が国の一般社会との違いである。

《その、一般社会に比べれば極端とも言えるほど甘く、十分に待ってくれるはずの学校にすら行けなくなった子どもたちが増えているのは一体どうしたことであろうか? 若い世代に貧困者、貧困家庭が多く、国民年金すら払えなかったり、生活保護を受けたりする率が上がっているのは一体どうしたことなのか? 戦前や戦時中に比べればまだまだ豊かなはずなのに、このままではこの国が立ち行かなくなってしまうのでは・・・》

 大人と子どもの間に厳然とした壁を設け、子どもは大人の予備軍として扱われ、子ども独自の文化というものが重視されなかった、もっと貧しかった世代から見れば、そんな風に信じ難いことかも知れない。不安で仕方がないはずである。

《甘過ぎるのだ。自分達の時のように厳しく鍛え上げられてこそ強くなる》

 と簡単に決めつけたい体育系の人もいるだろう。

《いや、大人達は自分の欲望を満たすので精一杯で、お金や物は与えても、じっくり愛情を注いだり、面倒は看たりしていないから、内面的には十分に育っていないのだ》

 なんて言いたい、俄か心理学かぶれも多いはずである。

 一般的に人は、たとえ相当偉いと言われる人であっても、自分の生きた時代、地域等、普段目にしていることから中々離れられないものである。まして、上のように安易な批判を口にして速やかに片付けたい人達はしっかりと自分を振り返っていないだけのことで、自分の生きて来た道をそのまま正義として振りかざし、はっきりとした道を持ち難い、価値観の多様化中、価値観の再構築中等と言われる過渡期的な今が受け入れ難いのであろう。

 それはそうである。はっきりした答えが見え難いから、不安になって当然であろう。特に答えばかり与えられ、過程を求められて来なかった世代は、答えが見え難くなった時代、一体どうして好いのか分からない。明確な答えを、それも迅速に与えて欲しいところである。

 引きこもっている子ども達は、ある意味、自分でものを考えようとしたり、答えを見つけようとしたり、真面目に生きようとしているのかも知れない。現状大人の中にその答えが容易に見つけられないから、何とか自分で見つけようともがいているのだろう。

 一方、既に大人として生きている人は、大抵もう一度子どもの世界に戻るわけには行かない。防衛機制も働き、自分を善とすることによって、辛うじてバランスを保っているというわけだ。

 それが証拠に、直ぐに答えを与えてくれそうな宗教に飛び付いたり、選挙結果に如実に表れたりする。たとえば東京都知事の石原氏や大阪府知事の橋下氏のように、はっきりとした主張を持ち、強引とも思える手法を取って見栄えの好い政治をする人が選ばれ易いところにもそれははっきりと表れている。

 そんなこんなを含めて、教育とは決して焦らないことである。答えを焦っても意識がついて来ず、実際的な力にはならない。それぞれに合ったペースで身に付けてこそ、使える力となるのである。確固たる見本がない今だからこそ、余計に腰を落ち着けて取り組むべきなのであろう。何とか歩ける子にはそこから必要な力を貸せば好く、待つしかない子には待つことである。

 以上のようなことは言葉にすればまだ言い足りず、筆者のような未熟者にはこの後、幾千、幾万語を費やしても中々表現し切れないが、何も言わないでも具現出来ている、勘の好いタイプも時々居るから世の中は面白い。 

 そんなタイプの1人がこの物語のヒーロー、藤沢浩太であろうし、迷いながらも、結局は自分に合った道に復帰して行く西木優真、大人に育てられるどころか、阻害されてきた部分が多かったのにも関わらず、自分に相応しい縁を結び、強く生きて行こうとしている尾沢俊介である。

 その他にも、この物語に出て来る人たちは、決して器用とは言えないが、自分なりに考えて生きているタイプが多い。ギクシャクしながらも色々なことに取り組み、自分なりの楽しみ方が出来る人たちへと成長して行くことが期待出来そうである。

 と言うところで、予定していたより大分長くなった物語もそろそろ筆を置こうかと思う。

 ヒーローの藤沢浩太は何とか西王寺高校と言う安息の地を得て、そこでヒロインの弓道部顧問、安曇昌江と出逢った。これが最初で最後の恋なのか? はたまたこの先まだまだモテキが訪れ、素敵な出逢いがあるのか? それはまだ誰にも分からない。少なくとも今は幸せの頂点にあるようだ。

 これまで何回かの台風を経て、その度に少しずつ強くなって来た浩太には、この先もまた幾つかの台風が通り過ぎて行くのであろうが、以前のように完全に休眠状態に入ることはないだろう。

 ところで、暇を見ては書き繋ぎ、なければ無理矢理作り、2か月ほどでここまで書いて来て、突然のように止めた所為か? 筆者としては今一達成感が得られないでいる。何だかムズムズするのだ。長い間、本当の自分を探しながら、現実の生活は中途半端に置いて来た筆者自身にオーバーラップしているようでむず痒い。 

 でもまあ、上にも書いたように、青春の一時期のエピソードを断片的に寄せ集めたものであるから、それは当然のことか? 時々はみ出し、少し先までのことにも触れて来たが、これとて韓国ドラマに関してよくある、あらすじのネタバレみたいなもので、ほんの気休めである。人生は実際に生きてみなければ分からない。そう言う意味でまさに、結果より過程なのである。

 と言うわけで、今回はこれで置くことで正解としよう。登場人物達にはそれぞれこれからの人生をのんびり生きて貰い、また適当な機会にその一部を切り取らせて貰うことにしたい。

 それから、歪な例が多かったにせよ、恋愛関係が中心になったのは、青春篇だから仕方のないところである。書き始めたきっかけも、最近熱い思いが薄れ始めた筆者自身を鼓舞する為でもあったから、その線から外れてはいない。

 それでも人間とは贅沢なもので、ひとまず終わろうとすると、何処か寂しく、落ち着かないものなのである。

 ただ、こんな風に繰り言を書いていると、大分すっきりして来た。

 

        青春の真っ只中は遠くなり
        恋以外には浮かばないかも

 

 青春から遠くなると、青春時代、たとえば受験勉強やクラブ等、他のことも結構していたはずなのに、恋ばかりしていたような気がする。他のことに付いては実感を伴わないのだ。よく言われるように、嫌だったこと、辛かったこと等は忘れ去り、心地好かった思い出だけが残されて行く浄化作用であろうか?

 

        いにしえの万葉人に重ねつつ
        恋多き日々懐かしむかも

 

 古典の世界では、逢えば直ぐに寝ていたように受け取れる表現が散見される。考えてみればそれが当然なのかも知れない。テレビもゲームもなく、コンビニや喫茶もなく、明かりのない部屋で若い者同士2人っきりになれば、寝るしかないではないか!?

 

        現実は恋より先に身を立てて
        余力があれば恋も好いかも

 

 それは理想に過ぎ、実際には忙しい時ほど恋をしたくなる。そして、それは今も同じで、忙しいときほど私は物語の世界に遊びたくなる。いにしえの世界に魂を彷徨わせ、更にすっきりしたところで、ではまた会う日まで。           (おわり)

 

     ☆     ☆     ☆     ☆     ☆

 

 大分前に書いた作品を見直しながら、改めてこの社会の現状を真面目に考えれば考えるほど不安が増すばかりなのは相変わらずで、それは令和2年現在、この物語を書いた当時より更に酷くなっているような気もする。

 もっとも、色々な情報に煽られた結果もあり、マスクばかりか、トイレットペーパーまで買えなくなっている現状を観ると、私が生きて来た間の石油危機におけるトイレットペーパー不足、コメ不足等と比べても、人間自体はあんまり変わっていないのだとも思われる。

 それはアジア人を排除したり、迫害したりしている欧米人も同様で、人間自体はギリシア、ローマの時代から変わらない、とはよく言われて来たことである。

 まあ、だって人間だもの、という感じだろうなあ。フフッ。

 

     ☆     ☆     ☆     ☆     ☆

 

 完全に退職してから1年3か月が過ぎた令和4年7月、この話をまたざっと見直し、加筆訂正した。

 早いもので、前回の見直しからもう2年が経っている。

 その間、ずっとコロナ禍が続いており、もうマスク生活が我が国の日常となっている。

 平成大不況の影響も同様と言うか、コロナ禍が加わって更に酷くなっている気がしないでもない。

 社会の不安、不満は高原状態で続いており、関係あるのか、無いのかは分からないし、安易な推測、決め付け等は慎まなけらばならないが、道徳の乱れ、不穏な事件の発生等も増えて来ている印象がある。

 そんな中でも、将棋の藤井聡太五冠やメジャーリーグで活躍する大谷翔平二刀流のような前向きな若者は育って来たし、何も目立つ人ばかりに注目しなくても、前向きに生きている若者に日々出会っているのも事実である。

 また暫らくしたらこの話を見直したくなるかも知れないが、その時にも少しは前向きな加筆訂正が出来るように、私はこれからも前向きな視線を持ちながら生きて行きたいと思っている。