sanso114の日記

日々気になったことを気楽に書き留めています。

台風一過(エピソード45)・・・R4.7.10②

            エピソード45

 

 ここ数年、暮れが近付くとNHKの大河ドラマが早めに終わり、まるで長編映画のようにお金と手間暇をかけ、持てる技術と力を込めて丹念に作られた超大作ドラマ、「坂の上の雲」(※1)が始まる。近代化が進む我が国の黎明期を活き活きと描くドラマで、末広がりの可能性を感じさせ、下り坂の平成に生きる現代人を鼓舞する意味でも力の入れようが分かろうというものである。

 確かに、上り坂にある国家に生まれた若者たちの目は坂の上に浮かぶ白い雲を目指しており、それが正解と誰も信じて疑わない。その結果、誰かの足を踏み付けようと、小石に蹴躓いて転ぼうと、それはそれで仕方がなく、気を取り直してまた坂の上の雲を目指し続けるのが普通である。事実、後の我が国に繋がるような驕りが既に顔を出し始めているが、ともかく希望に満ちていたことは事実で、将来の為に今の不休・不眠・不満・不安等を耐え忍ぶことが出来た時代でもあった。

 しかし、近付けば雲を遠ざかり、それでもまた近付けば、雲は更に遠ざかる。運よく最初に目指していた雲に近付け、その中に入れたとしても、それは最早霧であるから、何も見えず、戸惑うばかりである。もがきながら漸く霧の中から抜け出られた時、また坂の上には新たな白い雲がポッカリと浮かび、それを目指して追い駆けることになる。

 結局、人は自我に芽生えた思春期の頃から坂の上の白い雲を追い駆け始め、青春時代には共に追い駆けられるパートナーを見付けて、一生坂の上の白い雲を追い駆けることに費やす。それが正解と信じて疑わなくても好い時代が長く続いた。

 勿論、何時の時代にも異端者はおり、真実を鋭く捉えて大衆を啓蒙しようとしたかも知れないが、常識とかけ離れ過ぎた知識や意見は到底受け入れ難く、酷い場合は主張者が迫害を受け、命まで奪われることもしばしばであった。後の時代まで残っているのは大抵、ほどほどに開明的ながら、時代や地域に沿った何とか受け入れられる知識や意見であり、それは残っている文章や音楽、絵画などの作品を見れば理解し易い。

 上り坂のまま明治、大正と駆け抜け、陰りが見えながらも太平洋戦争(大東亜戦争)が終わるまで坂の上の白い雲、更にどす黒い雲までも追い駆け続けた我が国の人々は、やがて俄かには立ち直り難い徹底的な敗戦の憂き目に遭う。

 それでもどう言う縁か、時代の潮流もあり、我が国は驚異的なほど短期間に立ち直り、更なる高みにある白い雲を目指すことになる。朝鮮特需、高度経済成長期と、時代はまだまだ目指すべき白い雲を見せ続けてくれたわけである。

 バブルが弾けるまでの時期に青年期、壮年期を送れたものはある意味幸せである。と言うか、幸せ感を持ち易かった。目指すべき白い雲にあまり迷うことなく、言われた通り、或いは先輩たちがやって来たように努力すれば、ある程度の幸せ感が得られ、やがて年老いれば後輩たちに向かって、

「人生とはそのようなものだ。迷わずに坂の上にあるあの白い雲を目指すことさ」

 と一端のことを嘯(うそぶ)いていればよかった。

 急に話が変わるようであるが、決まった距離に置かれた決まった大きさの的を狙う近代弓道もこの流れにあり、迷うことなく的に中てることを目指せばよい。力を一点に集中して放った後の放心状態、信じて任せる覚悟の必要性、その自由度はあるものの、的を目指さないという手はない。その点が、考えるよりも体を動かす方が好きな、感覚派の藤沢浩太には向いていた。

 もし浩太が理屈に勝ったクールな方であったら、もう少し流行りのスポーツにのめり込んでいたかも知れない。中学時代に始め、今の引き締まった心身を作り上げるのに役立ったサッカーを続けていてもよかったのである。

 それがやったこともない、身近に経験者がいると聞いたことも見たこともなかった弓道に出会い、のめり込んだのは、矢張り縁としか言いようがない。

 また、浩太が顧問の安曇昌江に惹かれ、付き合い出したのも縁であり、それもほとんどの場合が夕食を共にするだけというのも普通では考え難い行儀よさであった。 

 一般的に、真面目に結婚まで視野に入れて長く付き合う気であれば、9歳も違うことに大いに悩み、一度は上手く行っても、かえってその内に別れる方が多いのかも知れない。もし浮付いた気持ちが勝っていれば、とっくにもっと深い関係に陥り、やがて年下の浩太から離れて行くのがよくあるパターンである。

 しかし、浩太はそのどちらでもなく、いきなり坂の上の、いや更に上空に浮かんだ雲に入り込み、一体となってふわふわしていた。迷うことも悔やむこともなく、この縁を思い切り享受し、幸福感を抱けていた。

 まだまだ精神的には幼いところがある浩太は仕方がないにしても、年上の昌江にまさかそんな部分はないであろうと思って見ていると、中々どうして、結局、昌江も同じようであった。

 しかし、人生には恋愛以外にもすべきことが一杯ある。と言うか、坂の上の白い雲が見えなくなった今とすれば、何を目指せばよいのか分からないながら、何かを目指さなければ暇過ぎるし、暇過ぎると余計なことを考えて不安になったり、余計なことをして傍に迷惑を掛けたり、碌なことがない。

 どうやら人間にはそうならない為の安全弁が生まれながらにして備わっており、普通に育てられれば適当な時期に機能し始めるようになっているかのごとくだ。

 ただ、親が幼さを残していたり、歪(いびつ)に育ったりした場合、普通に子育てが出来なくなりがちで、そんな家庭に生まれた子は上で述べた安全弁が機能しないか、しても不完全になりがちである。

 たとえば、親から虐待を受け続けて育った子どもは、嫌で嫌で仕方がなかったはずなのに、伴侶や我が子を虐待しがちになる。

 また、マザコンの部分を多分に残した息子はかなり年上の伴侶を選び、ファザコンの娘も矢張り、かなり年上の伴侶を選びがちになる。

 それでは、浩太はかなりのマザコン故に9つも年上の昌江を選んだのか!?

 心理学の所見からすればそうかも知れないが、偶々身近にいる相性のよい女性が昌江しか居なかっただけのことかも知れない。

 浩太の親友である尾沢俊介は酷い虐待を受けながら何とか育ったのであるから、付き合い出した里崎真由を何れ虐待するのか!?

 それも心理学の所見に従えばあり得るかも知れないし、知性や感性、そして愛が勝って、何とか避けられるのかも知れない。

 元々心理学は分析遊びではない。何も煙が立っていないところにわざと立てるべく分析する必要はなく、問題が起こったとき、それを解決する術の一つとして、成育歴、現在の生活パターン、考え方、性格等を総合的に分析し、対策を練ればよいのである。

 ともかく人生は程々に長く、切れ目なく恋をしていられる能天気な人、或いは精力絶倫な人はあまり居ないから、普通は恋以外で、傍迷惑ではなく、経済的、空間的、時間的等、色々な条件に合う範囲で上手く時間を潰せるような目標を探した方が無難であろう。

 それが身を立て、国を立てられることであれば尚よいが、考え方、欲求等が多様化して、誰にでも当てはまる目標を選び難くなった現在、一体何を基準に選べばよいのか? 
専門家ですら提示し切れていないのが現状であるから、ここは腹を据えて、見付けること自体を目標にすればどうだろう? 見付けようとする過程から楽しむのである。

 視点を変えて、自分が何を目標としたがっているのか? どんな自分なのか? いわば本当の自分探しをライフワークとしてもよい。

 偏りがあればあるなりに、中庸であれば平均を意識して、それぞれが自分にあった目標を持てばよく、何もそれは完成する必要がない。それぞれが立つ坂の上に浮かんだ白い雲を目指し続ければよいのである。

 ただ、彼方此方で多様化が唱えられる現在、以前にも増して国史君が代、日の丸、皇室(※2)等を強調する声が高まって来ているのは面白い。それも学生時代成績優秀であったことが容易に推察出来る向きからの提案であることを考えると、人間の限界が感じられようというものである。

 要するに、忠実な録音、再生には優秀な能力を発揮するものの、応用が利かないタイプが多いから、はっきりした答え、見本というものを欲しているのだ。如何にも暗記が得意な我が国型の秀才を表していて面白いことではないか!?

 

        見上げれば其々見える白い雲

        其れを目指せば楽しいのかも

 

※1 原作は司馬遼太郎が書いた長編歴史小説産経新聞に1968年から1972年まで1296回に亘って連載された。ドラマの方は2009年から2011年に亘って大河小説を早めに切り上げ、1回90分で2009年5話、2010年、2011年はそれぞれ4話放送された。

※2 皇室に関しては英国王室、小室圭・眞子さん等の件があり、何も雲の上に在る特別な存在ではなく、欲望、感情、能力等色々な観点から見て言っても俗っぽい面も十分に持ち合わせた普通の人間であって、この際、特別視しなくても好いのではないか、と言う機運が高まって来たのは悪くないことかも知れない。