エピソード41
奈良県立西王寺高等学校弓道部の顧問を務めて来た安曇昌江が競技生活を充実させる為に、弓道部を初めクラブ活動全般に亘って盛んな中堅進学校の私立法隆寺学園高等学校に移ると言う噂が立ち始めたのは小正月(※1)も明けて、漸く冬休み気分が抜け始めた頃であった。
昌江と部員の藤沢浩太が夜毎デートを繰り返し、すっかり出来上がっていると言うまことしやかな噂、それに自分が目にした確たる事実に胸を痛めながらも、浩太のことを諦め切れず、クラスでは相変わらず浩太の傍に付きっ切りであった柿本芳江は、昌江がこの学校から出て行くと言う確かな情報を得て、まるで自分のみに一足先に春が訪れたように、気持ちがググッと軽くなっていた。
巷でよく、遠くの親戚より近くの他人と昔から言われているように、距離が人を近付けたり、遠ざけたりする。世間を見ても、遠距離恋愛故の破局、単身赴任中の浮気等、枚挙に暇がない。
またお隣の国、韓国では兵役(※2)がきっかけになって別れるカップルが多いそうだ。距離や時間を隔てることの効果は絶大で、それほど人には単純なところがある。ある程度惹かれる相手でえさあれば、接する機会が多ければ多いほど、付き合う時間が長ければ長いほどより惹かれ合い、反対の場合は呆れるほど早く気持ちが離れてしまうものである。
芳江としてはそこに期待出来るように思えた。と言うか、無理にでも期待したかったのだ。
芳江の家は父親を早くに亡くし、勢い母親の珠美がしっかり者にならざるを得なかった。一家を支える為に忙しく働き詰め、子どもらにもそれぞれの領分を守り、頑張って生きることを求めた。
それは当然そうあるべきで、少しもおかしくはないのであるが、何事にも程度というものがある。遊びのない人生を突き詰めると、空しさが増大する。ただ生き長らえているだけで、何の為の人生かと疑問に思えて来るものである。
早い話が、嫌気が差して来る。それが顔ばかりか、疲れた背中にまで漂う珠美を見ていて、芳江は人生の面白さが分からず、思春期を迎える頃には空しさばかり感じるような暗い娘に育っていた。
家の状態を振り返ると、珠美の頑張りの割に報われるものが少ない気もし、それがまた芳江にとっての努力の空しさに繋がっていた。
その芳江が、人生の空しさ、および少しでも良き人生を得る為の努力の空しさをひと時なりとも忘れ、人生の醍醐味が漸く分かり始めたのは、全て浩太と知り合えたお蔭であった。芳江に取って浩太は、まさに救世主であったわけだ。
あろうことかその浩太が安曇昌江に強く惹かれており、この頃では昌江が漸くその熱情を受け入れ始めたことを知りながらも、芳江がクラスメイトの里崎真由のようにあっさりと浩太を諦められなかった理由のひとつには、上記のようなことがあった。
しかし、心の奥では流石に分かっていた。昌江の練習が終わるのを待ち、それが受け入れられて夕食を共にするようになってから浩太は、学校外において芳江と2人きりでは決して付き合おうとしなくなったし、ただでさえ素っ気なかったメールの返事が更に素っ気なくなった。
ただ、女の子と違って、浩太が芳江の誘いを無碍に断わったり、メールに返事を全くしなくなったり、などということはなかったから、そこが変に期待を長引かせた。
まだきっかけさえあれば何とかなるのではとついつい思ってしまう。
また、浩太が韓国ドラマの大ファンと聞いていたし、のんびり屋でもあるから、諦めずにじっくり、何度も迫るべきかとも思ってしまうのであった。
そこに今回の、昌江の転勤の噂である。芳江にとって最後の、しかも最大のチャンスのように思われた。
俊介の方に惹かれて付き合い始め、浩太に対してボォーっと逆上せ上っていた目が漸く覚めた真由は、芳江よりもっと身近な立場から浩太と昌江の相性の譲りようのない強さを知っているから、芳江の拘りが至極空しい執着であると分かっていた。
しかし、長くはなかったにせよ、自分も期待をかけて夢を見ただけに、夢を諦め切れない芳江の目を強制的に覚まそうとすることまでは可哀想に思え、どうしても出来ない。
かと言って、ただのクラスメイトである芳江より、弓道部の顧問であり、憧れの師でもある昌江を応援したい気もある。それに、一時は強く惹かれた浩太にも思うような恋を全うして欲しいのである。
真由としては結局、静観していることで精一杯であった。
その芳江が思いを断ち切れ、そればかりか新たな対象に心を移せたのは、偶然のようで、強い必然があった。そしてそれに対して大きく関わったのが、昌江の弟で、自称何時でもモテキ真っ只中の聡史であった。
聡史はあの、浩太と姉の昌江の恋が分岐点になった夜、昌江に上手く口裏を合わせて両親を安心させたり、でも協力する見返りに昌江から小遣いをせしめたり、結構悪ぶっているところもあったが、実は飛び切りの姉思いなところがあった。昌江が当惑気味に芳江のことを漏らすことが増えるに連れ、何とかしてやりたい気持ちが高じ、自らこの渦中に飛び込むことにしたのである。
つまり、偶然のような振りをして西王寺高校を覘き、昌江に用事がある振りをしつつ、何や彼やと芳江に構った。自信のある爽やかな笑顔を振り撒き、時にはメールアドレスの交換を求めたり、西王寺高校のいわゆるオープンカフェでのアフタヌーンティーに誘ったりしたのである。
以前から聡史は時々西王寺高校を訪ねていたし、生徒たちにも気さくな性格と思われていたから、特段不思議がられなかったことも幸いしたようである。芳江は聡史が昌江の弟である安心感からか、次第に心を開くようになり、日々浩太と付き合う程度には聡史とも付き合うようになった。
身近で接してみると、聡史もまた悪くはなかった。ソフィスティケートされた仕草、態度等を見ていると、むしろ浩太より好ましいぐらいで、何よりも積極的に自分に寄って来てくれることが心を浮き立たせる。個人的に付き付き合うことを想像してみれば、浩太より大事にしてくれそうに思えて来た。
このまま話が進めば聡史の思う壺で、まさに偶然を装った完璧な必然であった。
しかしそのままでは終わらないのが感情の動物である人間の面白いところで、芳江の気持ちを浩太から引き離し、自分に引き寄せたところで終わるはずが、計算外の感情が生じてしまった。
何と、遊び慣れているはずの聡史の感情が、恋愛には飛び切り初心(うぶ)であるはずの芳江の感情に強く引き寄せられてしまったのである。
《う~ん、一体どうしたものか・・・。どうもおかしい!? 何時もならここで芳江を突き放し、それでも漸く恋に目覚めた芳江は浩太のことを客観視出来るようになっているはずだから、姉さんと付き合っている浩太に戻ることもない。それで話が終わるはずなのに、肝心の俺が芳江を突き放せない。突き放したくないと俺の心が叫んでいる・・・》
こんなときジタバタすると、感情というものは天邪鬼だから、余計に不味いことになることぐらいは分かっていた。そこは遊び慣れた聡史である。顔には出さず、相変わらず芳江に対して色々アプローチしていた。そして、むしろ蟻地獄状態を楽しもうとしていた。
初め聡史は、姉思いから出て、自分の得意分野を生かした、姉の昌江に対しては騎士道精神に基づいた行動であったが、芳江の側に立っているとは言えなかった。
それが、何時もならばそろそろ手を引こうかというときになって、果たしてこれで好いのかと聡史の心の奥に疑問を投げかける声が聴こえて来たのである。
もっとも、何時でも聡史は心の声に従って行動しているだけのことで、何でもかんでも理屈のみに拘り、意識して行動しているわけではない。むしろこのときは何時もより意識的であったと言える。それが何時もにはない混乱を来たしたのかも知れない。
ともかく、このまま芳江と別れてはいけない、いや、別れたくないという心の声が無視出来なくなって来たのだ。心を落ち着け、改めて芳江を見ると、今まで付き合って来たどの女(ひと)より好い気がして来た。と言うか、自分と合っている気がして来たのである。
そんな心の変化が芳江にも伝わったのか、芳江は更に聡史好みに輝き出した。
結局、2人の相性が好かったということであろうが、男性側が年上で、5つ違いというお互いの年恰好も悪くなく、聡史が遊び慣れていたこともその後の進行をスムーズにしたようである。
と言うわけで、この後は男子大学生と女子高生のカップルと言うよくある恋愛話になりそうであるから、ひと先ず置く。
ただ、自分では一端の遊び人だと思い、それを自信に行動して来た聡史ではあるが、どうもそれには大きな誤解があったようだ。今まで見場に惹かれて付き合い出して、遊び慣れた女性たちにペットのようにもて遊ばれていただけのことか。彼女らと芳江は勝手がまるで違い、中々ひとつになれなかった。それもまた世間ではよくある、しかも他人からすれば笑い話である。
ただ、経験の多寡により、幾ら上手かろうが、下手であろうが、スムーズであろうが、ぎこちなかろうが、相性の好いカップルというものは手を取り合い、協力し合って、やがては何とか完全なる和合に達することが出来るものである。それぐらい強い磁力を持っているものだし、その結果起こることも甘んじて受け入れ合うものである。その滑稽ながら胸が熱くなるような話についてはまた機会があれば語ることにしよう。
また一つカップルが出来春霞
見えない道を共にするかも
※1 一般的には1月15日に行う行事のことを言うが、元日からその辺りまでを指したり、その辺りのことを指したりもするらしい。ただ、成人の日が1月15日ではなく、1月10日前後に移されてからは、成人式、大とんど等、色々な行事も移されたので、庶民の印象としては曖昧になりつつある気がする。
※2 一般的に満20歳~28歳の誕生日を迎えるまでに兵役に就き、2年以上行くことになっているそうな。或る資料によると、陸軍は26か月、海軍は28か月、海兵隊は26か月、空軍は30か月、公益勤務要員は26か月となっていた。