エピソード39
藤沢浩太の父親、慎二は元々普通高校の教師であり、教員免許も一旦社会人になってから取得したのもあって高校理科の2級(今はそれを1種と読み替えるようになっている)しか持っていない(※1)。
ちょっとしたきっかけで北河内にある曙養護学校に異動し、それが都合13年も居たのは予定外のことであった。移った当初は4、5年も居れば高校に戻る積もりで、その時期に実際に異動希望を出してみたのであるが、ひょんなことで取り下げ(これについては別の話で述べた)、それっきりになってしまったのである。
曙養護学校に移った年、1年先に移っていた坂口恭子と担任を組んだ。同じクラスに担任が複数いるという経験は初めてで、これも相当戸惑ったのであるが、その話はまた別の機会に譲る。
その恭子によると、
「障害児は明らかに病気やから、健常児とは全く違うわぁ~」
と言うことらしい。
いとも簡単に、一括りに片付けられてしまったが、厳格な譲れない壁が本当にあるのかどうか? 暫らく一緒に居ただけで、慎二にはどうにも疑問に思えることが多々見えて来た。
もう少し時間が経つと、障害による特性によって色々な行動パターンを示すのも事実であるが、成育歴、保護者の性格等にも大きく影響を受けているという、極めて当たり前のことが分かって来た。
それが恭子の神経を逆撫でした。せっかくパターン化することで精神のバランスを保ち、また仕事の面倒さを避けていたのに、年の割に青臭いことを言い、その割に行動が伴っていない慎二と組んだ所為で、尻拭いばかりさせられているような気分になったようである。
他の何人かの教師も怒らせる羽目になったが、それでも根が真面目で、分け隔てせず、誰にでも親切で優しいところがあったから、次第に生徒や保護者に受け入れられるようになり、居心地が好くなった。
5年目で出した異動希望を取り下げた理由はともかく、それが曙養護学校での勤続年数を増やした大きな理由であったのかも知れない。
定年まで後残すところ10年となった平成18年にようやく曙養護学校を出ることになり、移って来たのが今のいなば高等支援学校(※2)である。
いなば高等支援学校の場合、移って来た当初、曙養護学校より、むしろ最初に赴任した普通科の山鉾高校に似た雰囲気を感じていた。
山鉾高校は地元でも評判の困難校と言われ、初めは緊張して臨んでいたが、確かに勉強が出来ず、やんちゃな子が多かった。
それでも気長に付き合っている内に、実は不器用で、社会への適応能力に些か欠けるだけのことで、その分、素直であることが分かって来た。
その山鉾高校の子らと似た雰囲気の子が多く、新しく出来た学校なのに、むしろ懐かしい気がしたのである。
その後、授業が始まるに連れ、その感は更に強くなった。曙養護学校のハイレベルクラスの生活の授業(社会、理科の合科)でシャボン玉、ペットボトルロケット、凧上げ等、理科的な遊びをさせてお茶を濁して来た慎二は、いなば高等支援学校でも同様にすれば好いのかと高を括っていたら、一見整ったシラバスなるものまで既に用意されていた。
学校の立ち上げに関わり、理科が専門の首席が作っておいたものとのことで、ある程度の実験器具、薬品、模型等も揃えられていた。その流れに乗って授業を進めてみたら、生徒たちの反応も好く、最低そのレベルは維持する必要がありそうに思えて来た。
《ほんと、最初に思った通り、山鉾高校とほとんどレベルは変わらないなあ。その割に、彼方此方から注目されている分、上からは煩く言われるし、もしかしたらこれは大変なところに来てしまったのかも知れないなあ。さて、一体どうしたものか・・・》
しかし、見えて来るに従い、学校としてまだまだ出来ていないところだらけであることを知り、慎二は肩の力を抜いた覚えがある。
それに元々理科の教師であるから、理科の授業をすると決めれば、それの方がかえって楽なのは当たり前の話である。
授業だけではなく、通学バスを使わず、電車、バス、自転車等で自主通学すること、昼には給食がなく、弁当、お握り、パン等、何でも好いから自分で用意すること等、求められる生活力も一般的な支援学校を超えていた。
更に時間が経ち、少し落ち着いて考えてみると、結局、いなば高等支援学校に来ている子らが普通高校を選ばなかったのは、社会性に大きな課題を持っているからであることが分かって来た。
バイトで必要なぐらいの計算や接客は十分可能なので、事実、何人もの生徒が近くのガソリンスタンド、ファーストフード店、工場等でバイトに使って貰っていたが、その子らも含めて多くの子がちょっとしたことで人間関係に躓いて戸惑い、応用が利き難いのである。
ちょっとした壁に当たって臨機応変な対応を求められると、途端に難しくなり、学校からの紹介で運好く一般企業に雇って貰えても、実際には障害に対する配慮のない職場であったり、学校としてのアフターケアに手落ちがあったりすると、呆気なく辞めてしまう例も幾つか見られるようになった。
元々、その意味での支援を意識して平成18年度に開校されたのがいなば高等支援学校であるが、その後、法令の流れに従って大阪府では全ての養護学校が支援学校と呼ばれるようになり、慎二の住む奈良県では支援学校を意識しつつも、養護学校という通称を捨て切れないでいることは以前にも述べた通りである。
それはまあともかく、支援を得ながら一般就労を目指すことを強く意識し、気負いこんで創立されたいなば高等支援学校ではあるが、時代の趨勢に紛れ始めたとも言える。際立った存在としての意味は薄れ、ある程度市民権を得たということであろうか?
事実、この2、3年(10年ぐらい前から数えて)、受検しに来る子らの様子が大分落ち着き、平均化して来た。中に居る慎二の印象としても、仕事の進め方も含めて、システムとしての形が出来て来たようである。
漸く余裕が見え始めた今年の夏、慎二は、曙養護学校で付き合いの出来た秋山本純の根気良いメールでの誘いがきっかけとなって、また小説を書き始めた。
大分間が空いたので、初めはぎこちなかったが、以前にかなり突っ込んで書いていた経験が残っていたようである。直ぐに秋山のペースを上回り、秋山が辟易するぐらい作品を送信し続けた。
結局、秋山とのやり取りは9月の下旬、ようやく夏らしさが抜ける頃に終わったが、その後も慎二は書き続け、今に至っている。
結局、慎二にとって書くこととは、自分を表現することであり、それは生き生きと生きる、つまり人間らしく生きることに繋がっていたようである。
いなば高等支援学校の気忙しい流れに身を任せていたここ数年、家に居るとき慎二が寸暇を惜しんでしていたことと言えば、ほとんどが韓国ドラマを観ることであった。
それでも、それぞれの作品の濃さ、深さ、パワー等のお蔭で、大きな不満はなかったのであるが、何処か寂しさを感じていたのも事実である。自分を表現するという意味では満たされないものを常に抱えていたのだ。
書くことの復活で、その心の隙間が漸く埋められ始めたようである。
ただ、矢張り年は隠せない。幾ら好きでも、昔の馬力は中々戻らず、このまま戻って来ないのかも知れない。着想力、構想力、瞬発力、根気、持久力等、何れをとっても今一迫り切れず、物足りないことは分かっているのに、少しペースをあげようとすると息切れし、かえって気力を失ってしまいそうになる。
仕方がないから、そんなときはフッと気を抜き、暫らく置いてまたぼちぼち始める。
必要上とは言え、不器用ながらそんな老練なテクニックも覚え始めたようである。
その、仕方がないときには待つという姿勢が仕事の方でも生きて来たようで、余裕、懐の深さといったものが感じられるのか? 若い教師や生徒から何気なく相談するでもなく、悩みを漏らされることが時々ある。
相談するでもなく、というのは、何かアドバイスしようとすると、大抵は聞く耳を持たず、ぷいっと何処かに行ってしまうのだ。そこまでは信頼されていないらしい。
《また何時ものことやろなあ。俺の何かの面が、悩みを打ち明けてみよう、という気にさせるらしい。俺の意見を聞きたいわけでもないんやぁ~。仕方がない。壁にでも何でもなったるがなぁ~》
そう割り切ることにし、慎二はついアドバイスしたくなる口を必死に噤んで、耳を傾けることに覚悟を決めた。
それも悪くなかったようで、時々お話のネタを貰い、また生き方のヒントを貰えているような気がしていた。
最早大きな声では言えなくなっていたが、これは若い頃とほとんど同じで、慎二は相変わらず彷徨える人であった。ある時期から、本当の自分探しがライフワーク、などと嘯くようになっていたが、照れ隠しに居直っただけでのことで、正直なところであった。
その意味でも、ゆっくりにせよ、また書けるようになったこと、他人(ひと)の内面に触れられるようになったことは、決して小さなことではなかった。
ただ、数日前に息子の浩太と背比べをしてみると、3cmほど抜かれていた。つい先頃、
「昨日測ったら174cmぐらいになった。ようやく父ちゃんに追い着いたなあ。もしかしたら抜いたかも知れんでぇ~。フフッ」
などと喜んでいたと思っていたら、何時の間にか177cmになっていたのだ。
ショックと言うより、これだけはっきり抜かれてみると慎二は、かえって肩の荷が下りた気もしていた。自分のライフワークは別にして、家族のこと全てを自分が背負う必要もない気がして来たのである(※3)。
《漸くまた自分のしたいことに戻れそうやなあ。フフッ。授業や集会が苦になる方やから、教師が本当に自分のしたいことなのか? 甚だ疑問な点もあるけど、生徒らとの個人的なやり取りは嫌いではないし、元気がないときに生徒らからエネルギーを貰っているのも事実やぁ~。それに書くことは少なくとも今の自分にとって、考える切っ掛けになっているみたいやから、エネルギーになっているのも事実やぁ~。下手でも何でも、ともかく今は書いてみることかも知れんなあ・・・》
頼りに思われ始めている浩太は、慎二がそんなことまで考えているとは露知らず、暇さえあればただ韓国ドラマを観ているだけではなくなった父親の存在を素直に喜んでいた。
一時は老いさらばえたかと心配し、自分が背負わなければと感じるからこそ、
「俺は父ちゃんみたいに儲けられへんから、大黒柱になるのは無理やでぇ~。自分独りで食べて行くのが精一杯やなあ・・・。稼げるようになったら、日本中彼方此方、今やっている弓道の弓矢みたいにふらふらと飛んで行くわぁ~」
などとふざけて言っていたが、かなりの本音が入っていた。それが、まだまだ大丈夫と思えることで、肩の荷がグッと軽くなったように感じていたのである。
一方は頼りがいを感じ始め、一方は頼り切られない気楽さを感じることで、喜び始める。人の心というものは真に勝手なものであるが、何れも自由度が増したように感じられたことで喜んでいるところが共通している。
そう! 人生にとって大切なことは心の自由度である。放った後の弓矢は風任せ、運任せ。行き先が予想し切れないからこそ面白い。その自由度が平等に与えられることこそ教育の最重要点かと、慎二は今、教師生活の終盤になって漸く思い始めていた。そして、教師としての職業の面白さを噛み締め始めてもいた。
2011年10月23日(日)
放たれた心の自由守りたい
それが教師の務めなのかも
何が平等なのか? 今まで人間社会の不平等性を嘆き、自由ではない自分の心をぼやいてばかりいた。
その自分が、心の中では他人を見下し、自分を高みに置くことで、漸く心の平安を得ていた。
結局、何も分かっていなかったのだ。
ただ、支援学校の生徒たちの何人もが、成績や境遇とは関係なしに、飛び切りの笑顔を保てていることを不思議に思い、羨ましくも思っていた。
結局、人にとって大切なことは心が如何に自由に解放されているかということで、その他のことはさほど大切ではない。他人がどう思うかは別にして、少なくとも自分が満足出来なければ、それこそ人生の意味は感じ難い。その満足を得る為には心が自由でなければならず、その自由を平等に保障しようとするのが教育だと今は素直に思える。
日記を閉じた慎二は、独り書斎でにんまりと満足気に微笑み、明日も学校に出る覚悟を何とか決めた。
幾ら、漸く面白みが分かって来た、と偉そうに思ってみても、慎二の悟りは所詮その程度のものであった。そのお気楽さが家族にとっても微温湯のように思え、頼りなくても、基本的に楽だったようである。
其々が勝手な思い抱きつつ
日々暮らすのが家族なのかも
※1 普通は大学生の時に取得し、共通科目も多いので、中学校の1級と高校の2級がセットになっているものであるが、一旦社会人になってから少しでも早く取得しようとすると、何方か目指す方だけを取得する場合も往々にしてある?
※2 大阪府の場合、一般就労を目指す軽度の知的障害児に向けた学校として高等支援学校が平成18年に開校され、生徒側の需要が高まって次第に増やされて行った。
※3 既に何度か書いてように思うが、この話を始めて書いたのが10年ぐらい前で、今もここに書いてあるような過ごし方をしており、老化は年なりに更に進んだ気がする。