sanso114の日記

日々気になったことを気楽に書き留めています。

台風一過(エピソード35)・・・R4.6.23①

            エピソード35

 

 藤沢慎二は今、それなりに長くなった教師生活を振り返り、不思議な気持ちになっていた。一昨年より以前はそうでもなかったのだが、昨年辺りからこんなことがよく、とまでは言わないまでも、まあまああった。

 何が不思議かと言うと、昨年の時点で後5年、今年からでは後4年も経てば、一旦は学校現場から降りることだ。再任用を希望するとしても、雇用形態が変わる(※1)からまた別の話となり、ともかく退職の時期が直ぐ近くに迫っている。

 そう言えば、壮年期の頃、退職数年前の教師や事務員の物忘れが酷く、

「あの人、3つ言うたら2つ忘れるねんでぇ~。そやから一遍に用事言うたらあかんねん。伝われへんから、無駄、無駄!」

 などと軽く見られていたことを思い出す。

 それに会議で発言が少しもたもたしようものなら、

「気持ちは分かりますけど、忙しいねんから、もうちょっと要領よく話してくれませんかぁ~!?」

 と苛立ったように言われて、話を途中で切られていることもよくあった。

 慎二は一緒になって笑いながらも、

《何れ俺にもそんな時期が来るのやろなあ。それでも居らなあかんねんやったら、惨めやろなあ・・・》

 と薄々感じてはいた。

 その何れが片手で数えられる範囲に迫っていた。

 しかも慎二は、若い頃から自分も時々軽く見られたり、明らかにそう感じる発言に晒されたりすることに気付いていた。

 それなのに、いやそれだからこそか、ともかく日常となって少しも実感が湧かず、それが不思議で仕方がなかったのだ。

 夏休み中の生徒向け講習会(と言っても、夏休みの宿題の面倒を看る集りで、質問に答えるだけではなく、望まれれば殆んど付きっ切りで指導し、答えを教えてしまうこともしばしばである)でのこと、リラックスした雰囲気が1年生の野口美穂をそうさせたのか? 多少の甘えを含んでごく自然に、

「おじいちゃん。この問題、どうしたらええのん? 教えてぇ~」

 それを自然に受け入れようとしている自分にも戸惑いながら、慎二は30代の頃、当時赴任していた高校でやはり同じようなリラックスした状況において、担任をしていた永原佳代に、

「お父ちゃん、この問題、一体どう考えたらええのん? 教えてぇ~」

 と、かなりの甘えを含んでごく自然に聞かれたことを、ちょっと懐かしく思い出していた。

 あの時、慎二はまだ独身で、佳代に生徒に対する以上の少なからぬ好意を持っていたから、ごく自然に聞き流している振りをしながら、かなりのショックでもあった。

《あの子、今頃どうしているのかなあ? 確か17歳ほど違ってたから、来年になったらもう40歳かぁ~!? もうすっかりおばさんやろなあ・・・。フフッ》

 そう考えてみると、自分がおじいちゃんと呼ばれたからと言って少しも不思議はないのに、おじいちゃんでは既に人生をリタイアしているようで、実感がまるで伴わないのである。

「先生、先生って! さっき、おじいちゃん、って言うたから、もしかしたら怒ってるんかぁ~? それとも、本当に呆けてたりしてぇ・・・」

 冗談っぽく言いながら、美穂は心配そうに覗き込む。その笑っていない瞳が澄んで美しく、間近に迫った顔が、

《元々整っているとは思っていたが、黒いのであまり意識になかった・・・。まさかこれほどとはぁ~!?》

 まるで韓流スターように肌がつるつるで、おまけにすっきりと引き締まっていた。

「何言うてるんやぁ! まだ呆ける年でもないでぇ~。ちょっと考え事をしていただけやぁ。ほれ、どれを聞きたいんやぁ~? 言うてみぃ~」

 慎二はどぎまぎしながらもその場を何とか切り抜けたが、一種不思議な気持ちがしばらく残り、居間のように使っている理科準備室に戻ってからまた思い出に浸ることにした。

 それもまたここ2年のことであった。以前は家族の写真さえ撮らず、思い出に浸ることなどとんとなかった。常に前にしか興味がなく、

《理屈から言えば、過去はもう現実にはないから、思ってみたところでどうしようもない。そう考えるのは理系の自分にとっては当たり前のことやぁ~》

 と、むしろ密かに誇りにしていた。

 だからと言って慎二は、過去を懐かしむようになりつつある今の自分が嫌いなわけではないが、矢張り少しは戸惑うのである。

 インターネットショッピングでせっせと買い集め、持ち込んだ、コンパクトなステレオシステムで、家でCDからUSBフラッシュメモリーにコピーして来た音楽をシャッフルモードで掛けると、安全地帯の「ワインレッドの心」が甘く、切なく流れ始めた。

 

 ♪もぉ~っと勝手に~、恋し~たりぃ~、もぉ~っとキッスを~、楽しんだり~♪

 

《うっ! これも偶然が偶然に重なり、必然なんかなあ~? この歌は佳代を受け持っているときに流行っていたから、当時も理科準備室で頻繁に流していた記憶がいまだにはっきりと残ってる・・・。その甘い声までしっとりと濡れたままの状態で思い浮かべられそうやぁ~。

 あのときは確か、佳代はワープロを教えて欲しいと言って、理科準備室に置いていた俺のパソコンを神妙に触っていたんやったなあ・・・。

 教えてやろうとして背中の方からそっと近付き、何かを取ろうとした弾みで、佳代の胸に軽く俺の手の甲が触れてしもた。

 緊張が極限に達し、一瞬凍り付いた俺を解そうとでも思ったのか、佳代は小さな声で、

『あっ! 触った・・・』

 それが少しも責める風ではなく、むしろ微笑みながら言ったことがまた意外やった。

 理科準備室に来たときは何時も澄まし顔の佳代の内面に触れられたようで、何や嬉しくもあったなあ・・・。

 その後、少しぎくしゃく、ドキドキしながらも一緒に居る緊張を楽しみ、時々横目で佳代の意外に豊かな胸の膨らみが気になって目を楽しませていた記憶が、これもはっきりと残ってるわぁ~。手の甲には、ほんの僅かに触れただけやのに、豊満な胸がAKBの誰かさんや、韓流スターのバービー人形に例えられる誰かさんのような作り物ではないことを確信させる感触がまざまざと残っていたなあ・・・。

 しばらくして男子生徒が何人か雪崩れ込んで来たので、誤魔化す為もあって、当時置いていたシャープの定価8万円以上もした高級CDWラジカセのリモコンのスイッチをポンと押したら、偶然入っていたのが安全地帯のCDやった。

 当然のことやけど、アルバムの1曲目に入っていた「ワインレッドの心」が、それも前に掛けていたままの、吃驚するような大きな音で鳴り出しよった・・・。

 

 ♪もぉ~っと勝手に~、恋~したり~♪

 

 そしたら突然のようにある男子生徒が、

『甘いなあ・・・。甘い! 何や怪しい雰囲気やなあ!?」

 そいつに顔を覗き込まれても、俺はどぎまぎして何も言えなかったわぁ~。

 他の男子生徒らもチラッと見ただけで、それ以上は何も言わず、誰からともなく気を利かせたのか、全員で目配せをし合って、珍しく静かに立ち去りよったなあ・・・。

 何でもないことやのに、何でこんなにはっきりと覚えているんやろぉ~?》

 答えをはっきりと分かっていながら慎二は、はっきりとは言葉にせず、しばらくは音楽と思い出を楽しむことにした。

 

 しばらくしておもむろにレノボのモバイルパソコンを開き、ドキュメントの中に収納されていた日記のファイルを開いた。

 この頃また、時々小説を書き、日記を付けられるようになっていた。

 それで学校でも付けられるように、書斎の隅で埃に塗れて眠りがちであったモバイルパソコンを持ち込むことにしたのである。

 液晶画面の大きさが11.6インチと、ちょっと小ぶりではあるが、CPUはセレロンデュアルコアで、メインメモリーを2GBから4GBに増やしてある。

 それでも4万円ほどで済んだのも気に入っていたのであるが、この頃家用として、衝動的にイーマシンのデスクトップを3万円で買った。これが描画等、限られた機能を強化してあり、安い割に慎二の用途では結構速いので、更に気に入ってしまった。

 勢い、モバイルパソコンの方は眠りがちになり、気にかかっていたのである。

 

平成23年7月26日(火)

 

        女生徒が円らな目をし「おじいちゃん」

        思わず年を感じるのかも

 

        お父ちゃんお祖父ちゃんへと昇格し?

        月日の流れ感じるのかも

 

 大してショックだったわけでもないが、事実を如実に知らされ、以前高校に勤めている頃に「お父ちゃん」と言われて戸惑ったことを懐かしく思い出した。

 

 相変わらず綺麗事を書いているが、日記とは往々にしてそう言うものである。事実かどうかはともかく、書いてあることにニュアンスが込められている。そして、騒々しくなっていた胸の内を指の先から紡ぎ出す、いや吐き出すことで、気持ちがグッと落ち着いて来るのであった。

《生徒や若い先生らは俺のこと、もう心も何も満足に動かん脇役のように思っているんやろなあ? 事実、俺も若い頃は年配の先生をそんな風に思っていたしぃ~。それに、殆んどものを言えない生徒たちのことも・・・》

 しかし、幾つになっても、人間にとって時間は前にしかなく、誰にとっても自分の人生の主役は自分しかない。重くても、辛くても、それは厳然とした事実である。

「よっこらっしょっと!」

 掛け声がないと動けなくなったのもこの頃のことであるが、慎二はまた自分の人生を引き受ける力を取り戻し、助けを借りていた音楽を止めて、静かに理科準備室を出た。 

 

        来し方を振り返りつつ前を向き

        また人生を歩き出すかも

 

※1 厳密に言えばこれは間違いで、週1日勤務のフルで働いている限り雇用形態は変わらない。変わるのは給与形態である。質量ともに同じ仕事なのに、給与は大雑把に計算すると、半分を少し超えるぐらいになる。それでも時間給にして4000円を超えていたのが2000円ぐらいになるから、最低賃金を1000円とすると倍ぐらいはあるから、他にそんな仕事は得られないから、まあ好いか、と言うことになる。面白いことに、管理職をそのまま続けた教員も給与が半分になり、馬鹿馬鹿しくてやっていられないと言う人もいる。それであっさり辞めて講師になると、給与が元のようになったと言うから、如何にも付焼刃的処置で、矛盾が残っていたようだ。過去形にしたのは数年前の話で、賢い人達、いや計算高いと言うべきか、ともかく計算が得意な人達の集団でもあるから、2022年6月現在、既に矛盾は改善されているかも知れない。