sanso114の日記

日々気になったことを気楽に書き留めています。

台風一過(エピソード32)・・・R4.6.15①

            エピソード32

 

 性のエネルギーの出方に差がある2組の例について、ちょっと熱っぽく語ってしまった。1組は筆者にも通じ、親近感が湧く晩生な例として。そしてもう1組は全く対極にある為、羨望の対象になる早生な例として。
 共通しているのは2組とも性的に見て極めて相性が好い、珍しいほど幸運な例である、ということである(※1)。

 今回は趣向を変えて、藤沢浩太のもう1人の親友、尾沢俊介の場合を考えてみよう。想像通り、性的な相性という点では真逆かどうかは別にして、すれ違いの例となる。

 ところで、恋とせずに場合としたのにはわけがある。

 俊介は中肉中背ながら、しなやかな筋肉を持ち、それが姿勢や動きにも表れていた。また厳しい家庭環境、否応なしの社会経験が表情を引き締め、漂う空気を凛とさせていた。持てぬはずがない。

 事実、確かに持てた。以前にも触れたように、西木優真とバレンタインのチョコレートについて質、量ともに僅差で競り合うほどで、これは学業成績、一定レベルに達している芸術やスポーツの幅広さ、風貌、体格、経済力のみならず、家庭環境等まで加味して比べたら軍配を優真から俊介にはっきりと移すべきだったかも知れない。

 が、幾ら持てても、俊介の交際はあまり続かなかった。始終違う相手を連れ歩いていた。別に漁色家でも何でもなく、付き合い出してあるところまで行くとピタッと止まり、怖いように進まなくなってしまうのだ。

 目くるめくような甘いアプローチの末、ようやく緊張を解き、せっかく酔い痴れてその気になった相手は、茫然としたまま、大抵はそれ以上どうして好いのか? どうしてやれば好いのか? 分からなくなってしまう。

 中には勇気を出して自らを投げ出し、縋り付こうという相手も居るには居たが、それでも俊介は頑として受け入れなかった。まるで官能の世界に足を踏み入れるのが悪徳であるかのように、怖がるというより、忌み嫌っているかのようであった。

 結局、相手としても諦めるしかなく、全てを開き、投げ出してしまった自分を何とか落ち着け、慰める為に、寸止めで肩透かしを食わせた俊介を恨み、悪く言うことになる。これもお決まりの喧嘩別れであった。

 性へのこの明らかに不審な態度は学校における性教育の時にも必ずと言っていいほど見られた。前置きとして何でもない話をしている内はまだ好いのであるが、教師が緊張し始め、話が佳境に入ったのを感知するともういけない。落ち着いて座っていられなくなり、教室をぷいと飛び出してしまう。

 初めの頃教師は、これを俊介の発達障害的なもの、たとえばADHDのようなものかと疑ったが、他の時の様子、成育歴等から考えて、どうやら異常とも言える家庭環境的なところから来ているトラウマのようなものであることが分かって来た。

 考えてみれば当然であろう。幾ら父親に大きな原因があり、現在もあったにせよ、未だ判断もつかない幼児を置いたまま、若い男と一緒に手に手を取って居なくなった母親である。傷付かないわけがない。まともに人を愛せなくなる方が普通であろう。どん底にあった浩太に手を差し伸べ、親友になれたことの方がむしろ不思議なくらいである。

 でもまあ、この種の初期における見立て違いは、精神科医心理療法家といった専門家にも往々にして見られることであるから、幾ら人間相手に教えることを生業とする教師であっても仕方のないところである。

 要は事実が先にあり、専門家にせよ、多くの事例、それに触れた経験、その分析・共有等から編み出された一般的な区分けに当てはめようとしているだけのことだ。扱う症例、機会、知識、経験等の多さに、好き故の勘の好さが加わり、一般人とは差が見出されるのが普通であるが、専門家とて人間で、精神や魂の腑分けまで出来るわけではない。たとえ脳にまで解剖学的に分け入ったところで、見えるものは肉、血等の物質ばかりで、もう少し拡大しても精々が細胞で、たとえ原子や分子にまで辿り着いても魂までは観えない!? 大事なことは、生半可な知識や経験を信じ過ぎず、目の前の人間をありのままに見る謙虚さである。

 それはまあともかく、俊介は恋多き割に、しかも殆んどの場合、飛び切りの美少女やグラビアアイドル顔負けのセクシークイーンを連れていながら、長くてひと月、早ければ3日ぐらいしか続かなかったから、物事を表面的にしか見ない輩、つまり世間からは羨まれること頻りであった。本人はほとんど幸せそうな顔をしていないので、余計にそう受け取られた。

 その俊介が少しずつ変わって来たように思われたのは、浩太を訪ねて2年2組の教室を訪れることが多くなってからである。

 浩太の隣には必ずと言っていいほど柿本芳江がいた。彼女はしなやかで伸びやかな肢体を持った飛び切りの美少女であっても、初めの頃は俊介に何処か似通った暗い陰があり、俊介にとっては何となく自分を見ているようで決して惹かれることはなかった。

 第一、これまで俊介の方から異性に迫ったことはなく、何時も迫られて仕方なく受け入れるという、男にとって真に羨ましいパターンであることも大いに影響していた。

 その俊介が、浩太の斜め後ろ辺りに何時もひっそりと控えている里崎真由に気付くまでにそう時間はかからなかった。

 芳江とは違うが、よく見れば真由も勝るとも劣らないほどの美少女であった。成熟度が違い、容貌の幼さが目立つ為に、芳江の傍では光らなかっただけのことである。原石の美しさは分かる人だけに訴えかけるものがあった。それに、体格的に見ても、俊介の横に置くには芳江より真由の方が似合っていた。

 しかし、人の行動パターンは中々変えられないもの。自分から積極的に迫ったことがなく、迫られてもあるところまで来るとピタッとブレーキをかけてしまう浩太にとって、真由に強く惹かれるようになっても、その先どうして好いのか分からなかった。と言うか、進む勇気を持てなかった。

 それがかえってよかったようである。その内に真由が俊介の気持ちに気付き始め、浩太と比べてみるようになった。

 勿論意識的にではない。真由はそんなに擦れた女子ではなかった。浩太のエネルギーのほとんどが芳江を通り越して昌江に向かい、どうしようもなく強い絆が感じられ始めた今、心のどこかに隙間風が吹き始めたのだ。習慣のようになって浩太の傍を離れられないが、心は別のようで、俊介が入り込む余地が少しずつ広がっていた。

 これも習慣のように、浩太と芳江は話が煮詰まって来たり、単に退屈したり、喉が渇いたりする度に、揃って中庭のオープンカフェにお茶をしに出かけたし、その内の何回かには俊介と真由も付き合うようになった。

 意味こそ違っても、俊介、真由双方にとってこの自然なグループ交際が好かったようである。適度なクッションがあってお互いを変に意識し過ぎなかった(※2)から、かえって本質が見えた(気がした)。

 そんなことが刺激にでもなったのか? 俊介の顔が次第に明るくなり、何となく漂っていたクールなイメージが少しずつ薄れて行った。大して接点のない女子から迫られることはグッと減ったが、俊介に不満はなかった。そして休みがちであった学校にも毎日来るようになり、夏休み以後時々習慣的に口にしていた大学進学を本気で考えるようになっていた。

 

        自分とは違うところで持てたとて

        心に何処か風が吹くかも

 

        魅力とも思わぬところ受けたとて

        気持ちは何処か微妙なのかも

 

※1 簡単に言ってしまえば動物的な面での相性であるが、実はこれが無視出来ないほど、時に他の面ではカバー出来ないほど大きい。特に他に選択肢を持ち難い庶民にとってはそうなり易いのである。財産、地位、権力等、他にカバー出来る人間的なものを多く持つ場合は話がややこしくなるが、そんな場面では、こと恋愛に関する限り、動物的には幸せな状態とは遠くなりがちなように思われる。なんて、庶民故の戯言かも知れないが・・・。

※2 グループ交際、私のように昭和の中盤に生まれた者には懐かしい響きであるが、実は今でも普通にその形式の利点は応用されている。合コン、お見合いパーティー、テレビでやっていたような相乗り等、最初はグループから始め、緊張感を和らげているわけである。私のような男性ホルモンが表に出ないタイプはその緩衝材的な役目をよく担わされたもので、それが分かってからは段々微妙な気持ちになって来た。