sanso114の日記

日々気になったことを気楽に書き留めています。

台風一過(エピソード30)・・・R4.6.9①

            エピソード30

 

 弓道は元々武術の中のひとつである。その戦う、或いは闘う為の方法・技術、および道具である弓矢に、所作、精神、空気と言ったものが加わり、更にそれらが渾然一体となって長い年月の間に昇華した結果、弓道となった。

 生物は生きる為に闘って行かなければならない。その生物の中でも動物は自らの体内で栄養分を作ることが出来ないから、何らかの動作を起こし、必要な栄養源を外から確保しなければならない。人間も動物の一種であるから、当然、自ら動くことにより何とか食べ物を得るしかないのである。

 初めは手や足、更に牙や歯、爪等まで動員して闘ったのであろうか? 他の動物に比べ、体の大きさの割に筋力が弱く、歯や牙、爪等も鋭くないから、単独かつ素手では不利だったのが容易に想像される(※1)。

 そこで並外れて発達した知能を使ったのであろうが、先ずは群れたり、手足や歯牙、爪等の代わりになりそうで、もっと強い物を探したりしたはずである。

 しかし、群れることによる効果はともかく、所詮人間の筋力など高が知れている。道具を手に持って使っている間はもどかしい思いもしたであろう。

 その時、もしかしたら弾みで手を離れた石器や骨角器の意外な動きや、意表を突いた効果がヒントになったのかも知れない。

 もしかしたら、手より足を使って飛ばした時の効果を知り、それがヒントになったのかも知れない。

 もしかしたら、弦にぶら下がって遠くに移動する動物を見て、意外な動きにヒントを得たのかも知れない。

 何れにしても、経験知に、私のような凡人では計り知れない融合が加わって、現在も見られるような弓矢へと結実して行ったのであろう。

 ただ、それだけでは単なる武器に過ぎず、それを扱う技術も武術に過ぎないが、そこに加わったのが魂、更に精神性である。これを発達し過ぎた脳の所為、すなわち自然な流れにして安心したがる輩も多いのが世の常ではあるが、それでは単なる原子や分子の集合が細胞となり、またその集合があるレベルを超えると勝手に魂が加わると考えることに不思議はないのか!?

 筆者のように自然を超えたものを畏れる古いタイプの人間にとっては、偶然に偶然が重なると、それはもう必然である。不思議に思い、畏怖、更に敬慕、敬愛へと進む方が自然なように思われる。

 幸い、原初の人間は純朴で健全であった。武器、武術をただ人間が生み出した闘う為の道具、技術としては捨て置かず、そこに呪術性、宗教性を加えた。

 何故先ず精神性が来ないのか? と疑問に思うかも知れないが、それはもう近代人故の傲慢さである。言葉も未分化の原初の人たちだからこそ、本質を見抜く鋭い勘が養われていたということも十分に有り得る。これをあながち否定し切れないのは、言葉を習得していない乳幼児や障碍児者にこの種の勘の鋭さが感じられるからである。彼らの、他人の悪感情、体に合わない食べ物等に対する激しい拒絶反応を見たとき、むしろ我々健常者に分類される大人の方にこそ、中途半端な知識故の危うさを思い知らされるであろう。そしてこの種の勘の鋭さは、精神性と言うより動物本来の霊性と言った方がより近いように思われる(※2)。

 近代になるに連れ、知識が確立され、技術が進んだ。また子どもという未発達、かつ未教育な存在がクローズアップされ、知識、技術を効率好く伝えるべく学校教育が発達した。その過程で言葉の世界では表し切れない呪術性、宗教性と言ったものは精製され、魂、精神性と言ったものへと昇華されて、武術も武道へと移行して行ったわけである。

 たとえば、我が国において相撲に勝るとも劣らないぐらい国技的とも言えるスポーツとなった柔道は、明治期に一等の知識人でもある嘉納治五郎の尽力によって柔術から引き上げられ、更に学校教育にまで取り入れられた。剣道や弓道合気道、空手道等にも、歴史や規模はともあれ、同様の過程があったはずである。

 話が大きく変わるようであるが、性および性教育に関しても同様のことが考えられる。

 いや、闘う前に生物は殖えなければならないから、むしろ闘うよりもっと大事なことで、此方が先に来るべきかも知れない。だからこそ性欲は、食欲、睡眠欲と合わせて、人間の三大本能のひとつとして位置付けられている。

 性行為は類人猿から分かれたばかりの原初の人たちにとって、コミュニケーションの一手段、更に歓びのひとつであるだけではなく、矢張り生殖と言う本来の意味から来る、或いは死と隣り合わせであることから来る畏怖の対象でもあり、呪術性、宗教性が加わっている。今でも我が国では古い神社の祭りとして彼方此方にその痕跡が残っているし、新興宗教における怪しげな儀式としても多々見られる。

 そこから霊性を取り払って倫理性を加え、性教育として学校教育に取り入れ出したところまで、遅れ馳せながら武道により近付いているのではないか!?

 そして何より筆者が言いたいことは、武道、性の道共に、実は未だに奥深く、広く霊性を含んでおり、果たして学校教育として飼い馴らすことが可能なのか? ということである。

 先にも簡単に触れたが、元々学校教育とは経験知、技術等を次世代に、効率よく、安上がりに伝えて行く為のものである。要するに、西洋科学に基づくマニュアル化、およびより広くの人に伝わり易い鋳型化の実践だとも言える。絵や音、言葉として表し得るからこそ、子どもにも容易に伝えられるのであるが、果たして霊性がそう易々と言葉になるのか!? と言うことである。

 筆者としては、完全否定まではしないが、かなり限られた範囲でしか無理ではないか? といささか後ろ向きな発言をしたくなる。関西人的にいわゆるええ格好しいの筆者は、表向き出来る限り前向きな発言で通したいタイプなのであるが、我が国の学校教育においてマニュアル化、鋳型化が更に進みがちな昨今、どうしても否定的にならざるを得ない。

 たとえば、性教育において、大勢の前に反り返って道鏡も真っ青になりそうな歌麿級の張り型を置き、順番に避妊具をはめさせているところを参観させて貰ったことがあるが、気恥ずかしくて頭がくらくらして来た。救いは若い指導教員が照れまくり、舞い上がっていたことぐらいで、生徒たちも茫然自失。ただ淡々と従っていただけのように見えた。

 更に、経済的、社会的に妊娠が許されない今は出来る限り性交を避けた方がよいが、どうしてもそう言うことになったら、きっちり避妊しましょうね、という、極めて現実的な指導をしながら、学校、社会において男女交際に神経質なほど縛りをかけ、昔ながらの純潔性も求めている混乱。当たり前の話であるが、社会的に見て決して得意とは言えない層の集まりであるように見える教員にとり、性教育は極め付けに扱い難い分野であるように思われる。

 要するに、性は歓び、畏怖等も伴ってこそ本当の世界が開け、それを排除した性教育は単に欲求不満解消術、危機回避術に陥ってしまいがちになる、と言うことである。

 或いは度を過ぎた不妊治療のように、あまりに理性的で機械的な性行為は、味もそっけもない(本当はそれが一番大切なはずのに)、極めて事務処理的な生殖行為に陥ることもある。

 声を大にして何度でも言う! 理性を超えてこそ本来の姿を見せてくれる、目くるめく性の世界を、現代における出来る限り行間を排除した言葉で表そうとしても、ごく一部、それも本質から遠い部分しか伝わり難いと言うことである。

 筆者にとっても大いに苦手科目であり、だからこそ惹かれ過ぎるきらいがある所為か、思わず熱くなってしまったようだ・・・。反省。ここは努めて冷静に、霊性に感謝、感謝である。

 

 さて、そんなことには全く頓着なく、この話の主人公、藤沢浩太は今日も呑気に弓道の練習に打ち込んでいた。

 そしてクラブ活動が終わった後は、独りでグランドを黙々と走り込み、更に体育に重点を置いた学校でもある奈良県立西王寺高校ならではのフィットネスマシンを使って、ウエイトトレーニングに勤しんだ。

 他の部員が帰った後、黙々と矢を射るそれは弓道部顧問の安曇昌江を待つ為であった。浩太は既に、一端のナイトの気分になっていたのである。

 勿論、昌江が練習を終えた後は、この頃の習慣になりつつある、王寺駅近辺における2人だけの夕食を楽しむのであろう。

 しかし、2人とも今はそれで十分なのか? 決してそれ以上は進もうとしなかった。お互いが相手を大事に思い、また今の時間を今しか出来ないことで楽しみたかったのである。

 何も頭ではっきりと考えたわけではない。特に浩太はそうで、何となく、それ以上求めると、全てが壊れてしまいそうで、怖かったのである。それを言葉があまり得意ではない彼特有の勘が鋭く教えていた。

 流石に教師である昌江は言葉を商売道具としているだけあって、もう少しくはっきりと言葉として捉えてはいたが、浩太を大事に思う気持ちが強い歯止めになっていた。

 それに我が国の女性は一般的に元々自分から求めるタイプでなく、未通女の場合、余計にそうであった。まして教養に優れ、求める世界が別にしっかりとある昌江であるから、それで少しも困ることはなかった。

 そして2人とも、傍から見て何とも言えないほどむず痒くても、それを言わせないほどに幸せな顔をしていた。

 こんな輩には武道がどうとか、性教育がどうとか、全く関係なさそうであった。この究極の世界に最早、教育の入り込む余地などなかった。どうやら2人の相性は性的なところで一致しているわけでなく(2人とも淡いという意味では一致しているが)、魂の部分で一致していたようである。

 

        言葉には表し切れぬ世界あり(※3)

        感じることが大事なのかも

 

※1 例えばチンパンジーの握力が300㎏以上、ゴリラの握力が500㎏以上と言われている。ゴリラは体重が150㎏以上あるようだから一般人とは比べ難いが、チンパンジーは体重が50㎏で、小柄な一般人と比べて易い。ちょっと想像してみたら分かるように、人間に近いと言われるチンパンジーでも比率的に10倍ぐらいの筋力を出すことが出来るのだ。

※2 これは実際に私が体験したことからの実感が大いに反映されている。ごく一般的な子育てだけではなく、実際に障害児者とまあまあ長い期間関わった経験から強く印象付けられたことである。並行して高名な心理学者、河合隼雄氏の著作等も読んだが、それは安心する為であって、そこから先に学んだわけではない。

※3 今回全体に亘るテーマであるが、最近は一般的になっているICT的な見方をするとちょっと面白いことに気付く。言葉に大きく関わる文字情報よりも音声情報の方が容量を食い、それよりも映像情報が容量を食うのである。また人は見た目が9割なんて言葉もあるように、見ることにより伝わる情報量が圧倒的に大きい。つまり、言葉と言うものはそれだけ伝え難い面があると言うことではないか!?