第6章
その1
教師と言う稼業は貧乏性なもので、8月も半ばを過ぎるとそろそろ2学期の授業、行事等のことが気になり出し、ジッとしていても中々落ち着けなくなるものである。
しかしこの年の藤沢慎二には、それだけではなく、もうひとつ気の重いことがあった。
それは口約束にせよ、婚約した安永真衣子に付き合って、仲人を頼んだ山鉾高校の先輩、黒田清吾をはじめ、親戚、招待客等、色んな人のところに挨拶をしに出掛けたり、結婚式、新婚旅行、住宅等の最終的な契約をしに出掛けなければならず、これまでの経験から考えて、その度に真衣子と諍い、人生観の食い違いを意識させられてしまうことを怖れるのである。
その日は京橋で待ち合わせ、京阪電車で丹波橋に住む黒田のところに向かっていた。
野江の辺りを通る頃、漸く真衣子が口を開き、ちょっと探るような目付きになって言う。
「ねえ先生(※1)、この前のことですけど、福井の方に行ったお土産と言って鯖の棒寿司を届けて下さったでしょう? あれ、美味しかったわ。どうも有り難うございました。ところで、福井へは川上先生か誰かと行かれたんですか? それとも、曙養護学校でも一緒に旅行するようなお友達がもう出来ました?」
「いえ、この前にも言いましたように、仕事です」
確かにそうであるが、気持ち的には明らかにそうではなかった。それが分かっているだけに、慎二はもう少し補足しないといけないような後ろめたさを覚え、
「電車が大好きな生徒がいましてね、普段でも彼方此方ただで乗り回しているんですが、今回は北陸線の特急、サンダーバードに乗って福井県の武生まで行っちゃったんですよぉ~」
「ええっ!? もしかして、そんな遠くまでたった1人で?」
「そう、1人で。それでね、武生駅の方から連絡が入ったので生徒の母親と一緒に迎えに行ったんですよ。それだけのことです(※2)。だから、旅行じゃなくて仕事だったんです」
「それだけのこと、ですかぁ~!?」
そう言って真衣子は、顔色を多少青くしながら固い表情をして、その後は暫らく黙り込んでしまった。
「あれえ、どうかしたんですか!? 僕、何か真衣子さんの気に障ることを言いました?」
慎二は自分の気が済んだものだから、そこまで詳しく言えば、真衣子がかえって気になり出すことが分からない。
《本当に鈍感なんやから。何だか怪しい雰囲気を感じても、1人で行ったとか、友だちと行ったとか言うのやったら、それ以上聞きようがなく、ひと先ず置くしかないわ。でも、はっきり女性と行ったと言われると、それも中学部の生徒の親であることを考えると、私と10歳ぐらいしか違わないやろから、この人とは6歳ぐらいの差。そんなん、十分守備範囲やん。気にならないわけがないやん!?》
真衣子はそんな風に心を千々に乱しながらも出来る限り平静を装い、
「先生、やっぱり世間の目と言うものを考えないといけないと思うわ。私たち、この冬に結婚するはずでしょ? それやったら、あなたがあまり年の違わない女の人と、2人切りで遠くまで出掛けるなんて、可笑しいと思いませんか?」
「そんなん・・・、女の人と一緒やなんて・・・。生徒のお母さんですやん。折角気にならないようにはっきりさせたのに・・・。それに、何でそんなに年が違わないと分かるんですかぁ~!? この頃のことやから、色んなパターンのカップルがいますし、出産年齢も幅広くなっていますよ・・・」
慎二はそこに僅かな逃げ道を見付けようと、話を曖昧にすることを試み始める。
「何を言うてはるんですかぁ~!? お母さんは女の人です。違いますか? それに、中学1年生の子を持つお母さんやったら、遅く生んでもまあ40代でしょう? そんなお母さんと先生の不倫なんて、世間では幾らでも聞きます。そのお母さんは一体幾つなんですかぁ~?」
そんな風に話を持って来られれば、今更広瀬学の母親、朋美の年を誤魔化しても仕方がないので、慎二は、朋美にあんまり関心を持っていない、と言うことを表情に含ませているつもりになって、
「あんまりよくは覚えていないねんけど、33歳やったかなあ・・・」
真衣子は、して遣ったり、それ見たことかと目を怒らせながら、
「やっぱりぃ・・・、あなたって人はどうしてそんなに誤魔化そうとするの!? さっきはさも年配の、色気なんか関係ないような人のように思わせようとして、私が話を広げると、今度は自分が関心を持っていなかったような振りをして逃げようとする・・・」
そう言われれば確かにそうで、返す言葉がない。事実慎二は十分以上に朋美に女性として惹かれていたのであるから。真衣子よりもむしろ朋美に女性としての魅力を感じ始めていたのであるから・・・。
しかし、ここで黙ってしまってはそれを認めることになってしまうから、慎二は最後の気力を振り絞り、声を大にして、
「何を馬鹿なこと言うてるんですかぁ~!? そんなん安物の女性週刊誌の読み過ぎですよぉ~! マスコミが騒ぐほど現実は派手なもんではなく、地味なもんです。大阪駅で待ち合わせ、一緒に武生まで行って、生徒を受け取り、3人で帰って来た、ただそれだけのことですよぉ~」
「でも、それではどうしてお土産なんか買おうと言う気になったんですかぁ~!? あなた、今まで私にそんなこと一度もしてくれたことがなかったじゃないですかぁ~!」
《す、鋭い! 事実を言うて、嘘やないからそれでええやろと思たのに、気持ち的なところから迫られたら、一体どう答えたらええねん!?》
「・・・・・・」
沈黙に耐え切れなくなった慎二は、
「それはまあ・・・、ええとこやったし・・・、今度は真衣子さんと来てみたいなぁ、と思っただけのことで・・・」
「嘘っ! ・・・。もういいです!」
「な、何が嘘やぁ!? 何がもういいやぁ!? 何もない、言うてるやろう! 一緒に行っただけやって!」
「事実はねっ!? でも、その時の気持ちはどうなんですかぁ~? 私がそれを言っていることは分かっているはずやのに、そんな表面的な話ばかりして誤魔化そうとしてはる・・・」
「・・・・・・・」
「あなたは正直だから、嘘を言ったら直ぐに分かるのよ。本当のことは言えないし、気が弱くて黙ってもいられないから、嘘を言ったんでしょ。若い女性と一緒だったら惹かれて当たり前だし、それが言えなければ、黙っていればいいじゃないですかぁ~!? 私を愛しているのなら、それがせめてもの誠意じゃないかしら? 自分を守ろうとし過ぎるから嘘を言うんだわぁ~。自分を守りたいのなら、そんな軽はずみな行動を取らないことよ!」
「・・・・・・・・」
今更黙っていても仕方がないだろうが、一々ごもっともで、慎二は返しようがなかった。
「それに、向こうの旦那さんにもし知れたら、きっといい気がしないと思いますよ」
それがそうでもなかったから、慎二はこれを機会と勢い付いて、
「いや、向こうの旦那さんも勿論知ってますよ! 仕事で忙しくて行けないと言うし、クラスには女性の担任もいるんやけど、私用で忙しいと言うから、僕に白羽の矢が立ったんですよ・・・」
「・・・・・・・」
《どう言う人やろ、此の人はぁ~!? 私の言うことには少しも答えないで、自分を守ろうとばかりしている・・・。私は今回のことを謝って、今後しないと約束して欲しかっただけやのに・・・》
その車内放送を機会に、2人は何事もなかったかのように黒田を訪ねて行く顔になっていた。
電車内での諍いを知らない者が見れば、2人共きちんとした身なりをしているし、多少硬さの残る表情も、何か大事なことをしに行く前の緊張としか思えなかった。
婚約し小さなことが気になって
口争いが絶えないのかも
お互いに自分の気持ち大事にし
相手のことが薄くなるかも
※1 教師同士のカップルは面白いもので、心の垣根が取れるまで先生と呼び合うこともままある。世間一般に比べて生真面目なタイプが多いのと、その後の経験において擦れることが少ないこともあるのかも知れない。名字で呼ぶと堅苦しい気がし、然りとて名前で呼ぶのがまだ恥ずかしい時には便利なこともあるのだろう。それに、リスペクトの意味、礼儀等、色々な意味を含んで便利なのが日本における先生で、政治家、それに今注目されている将棋の棋士同士も先生と呼び合っている。
※2 教師が聖職者と言われて来た影響もあるのか? それを理由にしてコスト削減の意味もあったのか? ともかく、一般世間であれば避けて来たことを平気でやって来た歴史がある。意識的に相手との差を付けて来た場合、それが出易い。例えば教師と、保護者、子ども、そして子どもが障がい児の場合の付き添い、身辺介護等に余計にそれが出易かった。そう言う反省があって今は、付き添いにも以前以上の配慮があるし、身辺介護にも同性同士を心掛けるようになっている。