第5章
その3
「それで僕、何処から来たんやぁ~? 言えるかぁ~?」
「・・・・・・」
武生の駅舎に導いた後、山根明人が優しく聞いてみても、自閉傾向が強い広瀬学は固まってしまって何も言わない。いや、何も言えない(※1)。
「どうしたんや。おっちゃん、別に怒ってないから言うてみ」
「・・・・・・」
その時、学のお腹の辺りから地響きがするように、
グゥ~ッ、キュルキュルキュル、グゥ~ッ、・・・・
「ハハハハハ。僕、お腹が減ってたのかぁ~!? よしよし、何かあったかいなあ?」
そう言いながら山根は戸棚の中から買い置きのカップヌードルを探し出し、ニコッとして、
「どうや、僕、これでええかぁ~?」
釣られて学もニコッとし、はしゃぎ出して、
「僕、ラーメン食べます。ラーメン大好き。僕、ラーメン食べます。ラーメン大好き。・・・」
同じことを繰り返す。
「おっ、えらい元気が出て来たなあ。よかった、よかった。ほなら作ってあげるさかい、これを食べてからまた話をしよかぁ~!?」
「食べたかぁ~? ほならまた話に戻るでぇ~。僕、どこから来たか言えるかぁ~? それか、学校の名前言えるかぁ~?」
学はリュックのポケットをごそごそとしてさっきも取り出した生徒証を再び取り出し、
「曙養護学校、中学部1年3組、広瀬学、血液型AB型、住所は曙市、・・・」
と丁寧に読み上げて行く。
「分かった。ほならそれちょっと貸して!」
自分で見た方が早いと思った山根は生徒証を預かり、
「僕、ちょっと待っといてやぁ~。これで連絡が取れるから、もう心配ないでぇ~」
そう言いながら、学の様子を視界に入れたまま電話機の方に行く。空腹を満たすことにより、体が温もって安心したのか? どうやら学は落ち着いているようだ。
ホッと胸を撫で下ろしながら、山根は、
「もしもし、昼間報告しておいた子のこと、分かりましたわぁ~。今から早速学校や家の方にも電話してみます。どうも、心配をお掛けしてすみませんでした。後は大丈夫ですから、警察の方にだけ電話しておいて貰えますかぁ~? よろしくお願いします。ほなら私はこれで失礼します」
先ず管区の本部に連絡を入れ、次に学校に連絡を取ってみる。
しかし夏休み中で、しかも夜9時を過ぎた頃であるから、学校にはもう誰も残っておらず、仕方がないので直接家の方に電話を入れる。
初めての場所で夜まで遊んだら
お腹が減って不安なのかも
親切な駅員さんに助けられ
少し元気が出て来たのかも(※2)
※1 かつては、したがってこの話の舞台である20年ぐらい前は自閉症、今は傾向、偏りの度合いで表すことが増え、自閉スペクトラム症と言われているが、何れにしても社会性に偏りがあり、コミュニケーションの質的な障がい、興味や言動に偏りが見られる。その結果、少しの変化でも恐れるような傾向があり、決まった言動を繰り返すことが多い。この場面のような当意即妙な遣り取りは勿論大の苦手である。その所為もあって、本来の知的、身体的能力を急な場面では発揮出来ないことが多い。
※2 旅行をしていて地方で思わぬ親切に出会うことがある。たとえばこれは筆者の実際にあった話であるが、城崎で温泉巡りを楽しんでいる内に往復切符を落とし、仕方が無いから帰りの切符を買い足した。帰ってから暫らくして城崎の警察より電話が入り、拾った切符を預かっているので、換金して送ってくれるという話になった。そんな手間暇を掛けてくれることに感心した覚えがある。
その4
《何だか遅いわねえ。一体どこへ行っているのかしら!?》
最近は暗くなってから帰って来ることもよくあったから、広瀬学の母親、朋美はそんなに大きく心配することはなくなったが、それでも学のコミュニケーションの能力を思うと、やはり少しは心配になる。
そんな時であった。遠くの方から、
トゥルルルル、トゥルルルル、トゥルルルル、・・・、
「はい、もしもし。広瀬ですけど・・・」
📞どうも始めまして。私、福井にある武生駅の山根と申します。
《えっ、福井!? 一体どう言うことやろうか? 夫の貢が福井出身であるから、夫のことで何かあったんやろうか?》
朋美は何だか胸騒ぎがする。
《フッ、馬鹿な!? 安物のサスペンスじゃあるまいし・・・》
深呼吸した後、何とか気を取り直して、
「はい。どう言うご用件でしょうか?」
📞広瀬学君はお宅の息子さんですよね!?
「は、はい。もしかして学がそちらへ・・・」
夫ではなく、心配していた息子の方であった。
📞はい、こちらでお預かりしています。
「あっ、ど、どうもすみません。そんな遠くまで独りで・・・」
《この頃行動力が出て来たと喜んでいたが、たった独りでそんなに遠くまで行ってしまうなんて夢にも思わなかった。この先、一体どうなってしまうんやろう!?》
我が子のことになると一気に心配が押し寄せて来て、普段に似合わず朋美は言葉が詰まってしまった。
📞大丈夫ですか、奥さん!? 学君のことは大丈夫ですよ! 学校の方にも連絡は取ってみたんですが、もう誰もいらっしゃらなくて、それでご自宅の方に掛けさせて貰いました。お迎えの方ですが、今日はもう遅いからこちらでお預かりしますので、明日、早目に来て頂けますか? それで結構ですよ。
「はい。武生駅の方に伺えばいいんですか?」
📞ええ、それで結構です。それではお待ちしておりますので、よろしくお願いします。
「はい。どうも有り難うございました。此方こそ、明日までよろしくお願いします。失礼します」
切ろうとすると、それまでのんびりした調子で話していた山根は、ちょっと慌てた様子で、
📞あっ、学君と話をしなくて大丈夫ですかぁ~!?
「そうですねえ。すみません。すっかり慌ててしまって・・・」
受話器を手で押さえでもしたのか? ガサゴソと音がした後、学を呼ぶ声が小さく聞こえ、暫らくして学の声が聴こえ始めた。
📞お母ちゃん。学君、元気にしています。
「もぉ~っ、この子はぁ~!? お母ちゃん、どれだけ心配したと思てるのん。大人しくしてるかぁ~? 明日迎えに行くさかい、大人しく待ってるんやでぇ~」
📞うん、学君、大人しく待っています。
「ほな、また駅員さんに替わって!」
📞うん、学君、駅員さんに替わります。おっちゃん、母ちゃんが替わります。
学は受話器を離し、そのまま山根を呼ぶので、丸聞こえであった。
📞もしもし、もうよろしいですかぁ~?
「ええ、どうも有り難うございました。元気そうな声を聞いて安心しました」
📞ほしたら明日、お迎えの方、どうかよろしくお願いします。失礼します。
「失礼します」
電話を切った後も朋美は暫らくボォーッとしていた。
学の成長、そして不安(※)について考え込んでしまったのである。
少しずつ行動範囲広がって
嬉しさよりも不安なのかも
※ 子どもが少しずつ成長し、行動範囲を広げて行くことに対しての不安は障がいのあるなしに関わらないことであろうが、行動範囲を広げて行くのは社会に対してであるから、コミュニケーションを含めた社会性に障がいを持つ故の障がい児に対しては不安もより大きくなって当然である。それでも学校と言う場所がそこを繋ぐ上で必要な空間、時間、出会い、訓練等を提供し、驚くほどの成長を見せることがある。だから学校は欠かせない存在であるし、教育の好い意味での面白さがある!?