第5章
その1
夏休みになると毎日のように、広瀬学は朝起きて直ぐ自転車にまたがり、彼方此方のガソリンスタンドを見て回り出した。
次々と入って来る車、ホースによってエネルギーを注入され、また元気になって出て行く車、その流れ、関わる人のきびきびとした動きが面白く、何時まで見ていても飽きなかった。
お腹が減ると家に戻り、今度は近くにある京阪電車の古川橋駅に行き、そこの改札を上手く(※1)通り抜け、気分に従ってその日の予定を決める。
8月上旬のある日、夏らしいギラギラとした太陽がそうさせたのか? 珍しく学は朝から古川橋駅に向かった。
古川橋駅では何時も通りに改札を上手くすり抜け、迷わず淀屋橋行きの電車に乗り込んで、その日の予定を考える。
《今日は一杯電車に乗るんや! その為に朝から出て来たんやから、晩まで一杯乗れるわぁ~。さて、どの電車に乗ろうかなあ? ほんま、楽しみやなあ。たまには遠くまで行ってみよかなあ・・・》
多分そんな風に思い(※2)、学は胸をワクワクさせながら本当に幸せそうな顔をしている。
そんな彼を見ていると誰も止める気がしないのか? 京橋でも上手く京阪電車とJRの改札を通り抜け、今度はJR環状線内回りに乗り込み、大阪駅へと向かった。
大阪駅に着いた学は、凄い人混みに思わず目を丸くする。
《わぁ~っ、凄い人やなあ!? 一体何人おるんやろう? こんなん見てたら、目が回りそうやわあ・・・》
その後はどうする予定とも考えていなかったので、取り敢えず階段を下りてみると、そこも凄い人である。
《こんな駅初めてやぁ~。流石に凄いなあ・・・。次はどこに行ったら電車に乗れるんやろう!? 五月蝿いなあ、ほんまにぃ~》
普段行き慣れている西三荘、門真市、古川橋等の駅に比べ遥かに多い人、そしてホームへの上り口の数に、学は戸惑うばかりであった。そして、暫らくの間、目を固く瞑り、耳を押さえて屈みこんでいた。
そんな学をちょっとぐらい不思議に思い、立ち止まっても、障がい児らしいことを確認すると急速に関心を失って足早に立ち去り、特に関わろうと言う人はいない。都会を行き交う人は、みんなそんなに暇ではなさそうである。
大分経ってから学は気を取り直し、案内板の方を見る。
どうやら、和倉温泉行きのサンダーバードと言う電車に興味を覚えたようで、北陸線ホームの方に上がって行くと、電車は既に入っていた。
白色に塗装された芋虫のような優しいフォルムの車両を見て、学は益々気に入ったようで、迷わずに乗り込む。
《やっぱりかっこええなあ。ほんま、家にある図鑑で見た通りやぁ~。そやけど、和倉温泉行きって書いてあるけど、和倉温泉って一体どこなんやろう? 聞いたことある気もするなあ。もしかしたら、宮津は通るんやろか? もし宮津を通るんやったら、久し振りにお婆ちゃんのとこに行ってみよっと! 吃驚するやろなあ・・・》
特急車両にはそこそこ詳しい学も、地理に関してはかなり大雑把であった。
未だお盆には遠く、車内はガラガラと言えるほどに空いていたので、学は真ん中より少し後ろ辺りに腰を下ろす。
以前、難波でラピートに乗り込み、一番前に座っていたところ、検札に来た車掌にいきなり声を掛けられ、誤魔化すのに苦労した覚えがあるからだ。
それはまあともかく、リクライニングが利き、確りと身を包んでくれるシートは座り心地がよく、学は直ぐに眠りに落ちた。
勇気出し普段と違う駅に行き
違う電車に乗り込むのかも
※1 障がい児については、他人の直ぐ後ろに付いてとか、ともかく上手く改札を擦り抜けて、遠くまで行ったことがあるという話を時々聴く。それだけ電車が好きな子が多いのも勿論であるが、見ていても、分かっていて見逃しているのかも知れない。たとえば大阪から福井まで行って、そこで分からなくなったのか? 見付かったのか? ともかく連絡を受けて保護者が迎えに行ったという話もあった。
※2 障がい児については、外に出す言葉のたどたどしさに比べて、内面はもっと豊かなんだろうなあ、と思われることが多々ある。実際にどのように表現して好いのかは分からないが、自分なりに表現するしかないので、筆者が考えている時に使う言葉を使って表現してみた。以下も、同様である。
その2
目を覚ますと、太陽は高く昇り、やけに空腹を覚える。
どうやら広瀬学は1時間以上眠ってしまったようだ。
《嗚呼、お腹が減ったなあ・・・。キオスクでパンかおにぎりでも買おかなあ?》
今日は1日中遊ぶ積もりで出たので、母親の朋美に2千円持たされていた。お昼代だけではなく、遠くに行った場合の交通費、電話代なども入っている。
それから間もなく電車は止まり、降りてみると「武生(たけふ)」と書いてある。
車内放送がよく聞こえなかったので取り敢えず降りてみたが、学にとっては聞いたことがない地名だ。
おにぎりやパンぐらい思っていたようにキオスクで買う手もあったが、大阪に比べ、大分鄙びた雰囲気が漂っていて、何となく旅情を誘ったのか? 学は駅から出てみることにした。
「おいおい、坊や。ちょっと待って!」
改札から出ようとしたところ、珍しく駅員に呼び止められた。
大阪とは違い、人口が少なく、他人に対してもう少し関心を持っているようである。
学は駅員の大きな声に吃驚し、耳を押さえて一目散に駆け出した。
「おい。待てって! 逃げたらあかん!」
中年の駅員が追い掛けようと改札の外に出た時には、学はもう大分遠くまで行ってしまい、諦めるしかなかった。
「フゥーッ。本当に足の速い奴や。ほやけど、何や変な子やなあ」
「どうしたんや、山根さん」
「おう、坂口さん。あんなあ、どうも無賃乗車のように見えたから呼び止めたら、逃げて行きよったや。それはまあええねんけど、何や様子が可笑しいねん。もしかしたら障がい児かなと思たんや。電車が好きで、長い休みになったら独りでフラフラと遠くまで行ってしまう子もおる、と聞いたことがあるねん」
「ふ~ん、ほうかぁ~」
「もし障害児やったら、今頃親御さんが心配してないかな、と思たんや」
「えらい優しいやん。ほう言うたら、あんたとこの娘さんが施設に勤めてるって言うてたなあ!?」
「ほうなんや。ほやから、何や心配になって来たなあ。取り敢えず何箇所かに電話入れとくかぁ~」
「ほうしときぃ。ほうしといたらええわ。もしかしたら、もう問い合わせもあるかも分からんしぃ・・・。ほれに、今の電車に乗って遠くから来たんやったら、また戻って来るんとちゃうかぁ~!?」
「ほうやなあ・・・」
後ろで心配してくれているとは知らず、学は少しでも遠くに逃げようと振り返らずに走り続けた。
街中に入り、ひと息吐いた学は、近くにコンビニがあったので、そこで弁当とお茶を買った。
《どこか座るところはないかなあ? 嗚呼、疲れたなあ。椅子はないかなあ。座りたいなあ・・・》
キョロキョロしながら歩いていると、少し先に綺麗な公園が見付かり、そこで食べることにする。
弁当を食べた後は、少し気持ちが落ち着き、何時ものようにガソリンスタンドが見たくなって来た。
探すと中々見付からないものである。
大分歩き回った末、漸く小振りで洒落たガソリンスタンドを見つけた学は、早速近くにビューポイントを探し出し、そこに確りと腰を落ち着けた。
喉が渇くとペットボトルのお茶を口に含み、小腹が空くとコンビニで余分に買っておいたおにぎりを頬張りながら、日が落ち始めるまで飽かずに眺め続けた。
日が落ちた頃、空腹を覚え、また漸く知らない土地に来た不安を感じ始めた学は、駅に戻ることにする。
《一体どっち向いて行ったらいいのやろう!? 無茶苦茶に逃げたから、分からんようになってしもうたがなあ。こんな時はどないしたらいいんやろう?》
学は悲しくなって来て、涙をポロポロ零し始めた。
「僕、どうしたんやぁ~!?」
通り掛かりのお爺さんらしい人が、心配して覗き込み、優しく声を掛けてくれる。
「あんなあ、僕、分からへんねん」
「何がやぁ~? 何が分からへんのやぁ~?」
「あんなあ、僕、家がわからへんねん。古川橋に帰りたいねん」
「えっ、古川橋!? 一体ほれはどこのことかなあ?」
お爺さんに取れば初耳のようで、必死になって思い出そうとしている。
そうしているうちに、近所の養護学校に通う生徒と似た空気を感じたお爺さんは、
「ほうや、僕。学校の身分証明書か何か、住所を書いた紙は持ってないかぁ~?」
それを聞いて学は、ズボンのポケットやリュックのポケットをゴソゴソ探っているうちに、リュックの方から名札が出て来た。それに、母親の朋美に電話代のことも言われたような気がする。
「ほれや、ほれや。ほな家に電話してみぃ~。出来るかぁ~? 出来ないんやったら、お爺ちゃんがしたろかぁ~?」
「いや、僕、電話やったら何時もしてるから、大丈夫やでぇ~」
《落ち着いて考えれば簡単なことやった。人に頼らなくてもそんなことぐらい自分で出来るわぁ~》
そんなプライドが学の顔を輝かせていた。
「ほうかぁ~。もう大丈夫そうやなあ? ほな、お爺ちゃん、もう行くでぇ~。ほれでええかぁ~!?」
「うん、大丈夫、大丈夫! どうも有り難う」
自分で出来ることが分かってウキウキして来た学は、お爺さんと別れた後、公衆電話を探し始めた。
探すとないもので、この頃公衆電話が減っているだけではなく、地方都市であることも加わって、中々見付からない。
結局、大きな道を探しているうちに駅へと通じる道に出たようで、遠くの方に線路と駅らしい建物が見える。
《あっ、駅や、駅や! あれ、きっと駅やわぁ~!? 何と言う駅やったかいなあ? 慌てて逃げたからすっかり忘れてしもたけど、さっきの駅のような気がするなあ。そやけど、さっきのおっちゃんがおったらどないしょう? 怖いなあ・・・》
駅に近付くにつれ、学は忍者にでもなった積もりで身を潜め、様子を伺いながらジワジワと近寄っていった。
どうやら昼間の駅員の姿は見えないようである。
学は安心し、改札を通ろうとする若者数人に混じって通り出したところ、駅舎の中から昼間の駅員が飛び出して来て、
「僕、ちょっと待って!」
どうやら中から見ていたようである。
学は慌てて元の道へ逃げようとしたが、話が出来ていたと見え、今度は近くにいた若い駅員に捕まってしまった。
遅くまで知らない街を彷徨って
周りの他人の世話になるかも
のんびりとした分田舎他人のこと
興味を持って世話を焼くかも
※ この項、書いていて、会話が大阪弁であることに気付き、武生でそれはおかしいかと思い、標準語に直そうと思ったが、それもおかしいかと思い直した。ちょっと調べてみると、福井では、あかん、とか大阪と同じような言葉も使うし、語尾を延ばしたりもするらしい。それから、そうか、それで、そんなもの、がそれぞれ、ほうか、ほれで、ほんなもの、のように、そ→ほと変わるらしい。