第3章 光り輝く日々
その1
近年では未曽有の傷跡を残した阪神大震災による大混乱も、恋の予感に震え、それでも何とかお互いに近付いて行こうとしていた藤沢慎二と森田晶子にとって、そんなに長くは続かなかった。
晶子への電話が通じるようになった日から連日、慎二は以前と同じように、帰宅後、気持ちを落ち着けてから晶子の自宅に電話し、3時間近くごく身近な、他愛無いことを語り合った。
そして、自分たちのこれからに関する肝心なことには今一つ触れないままであった。
1月22日の土曜日、慎二と晶子は大阪市内の南部、天王寺にいた。市立美術館の常設展を観る為である。
一般的には、有名なアーティストの展覧会の方が華やかで、デートに向いているのかも知れない。しかし2人には、大勢の人が集まり、歓声と光に溢れた場所は眩しくて、落ち着けないようであった。
恋をするのに落ち着きなんか邪魔で、浮かれるままに高みに舞い上がって行くものだ。だから落ち着いてどうする?
そんな浮付いた考えとは無縁の2人であった。
だからと言って、落ち着いていたわけでは決してない。2人とも対人緊張が結構強く、日常生活のレベルで十分舞い上がっていたから、それ以上の刺激を本能的に避けていたのである。元々落ち着けないから、せめてデートの間なりとも少しでも落ち着きたかったのである。
市立美術館の中は期待通り落ち着いた雰囲気で、人影も疎らであった。所蔵の仏像、書画、工芸品等、展示作品も渋い物が多く、2人には期待通り落ち着ける景色になっていた。
そして作品を目の端に意識しながら、2人は周囲の邪魔にならない程度の声で、何時もの他愛無い遣り取りを楽しんでいた。
「ねえ、お腹空かない? 私、朝が早かったから、ちょっとお腹が空いたわ」
1時間ほど館内を歩きながら会話を楽しみ、ひと息吐いた頃に晶子が言う。
《晶子は付き合い始めてから直ぐに慣れ、俺に対して全く気取らなくなった。それだけ俺に甘えてくれているんやなあ。可愛い・・・》
晶子はもう化粧を全くせず、無印のトレーナーにジーンズ、それにカジュアルなコートと言う出で立ちであった。
この時期、慎二にとっては晶子のどんなことでも好ましかった。
後から考えれば、それは恋の真っ只中にいる者みんなが陥る誠に馬鹿馬鹿しいエアポケットであるだろうし、そのかなりの部分は、恋が醒めればめれば鼻に突いて来ることもあるだろう。
恋に限らず色々なことに対してそろそろ醒め始める年齢に差し掛かっていた慎二は、心のどこかでそんなことぐらいは十分想像が付いていながら、今は浮かれている自分に酔っていたかった。
「そうやなあ。この建物の下、確か横のところにレストランがあったから、行ってみよかぁ~?」
慎二も晶子なら気が許せ、他の人には丁寧語以外では中々話せないのに、晶子には直ぐに砕けた言葉で話せるようになれた。
美術館下の食堂は独特の雰囲気があり、2人には合ったようである。そこでも会話が弾み、気が付いたら3時間が経っていた。
その間にウエイトレスが何回か、そっと水を注いでくれるだけで、わざとらしく食器を下げたり、香辛料や爪楊枝を取り替えたりして帰りを焦らせるようなことはしない。
「ねえ、こんな風に外で会うのも好いけど、別に私が先生の家に行っても好いよ。何か買って行けば、それでも十分楽しめると思うわ」
話が途切れた頃、晶子がぼそっとそんなことを言う。
あんまり自然なので、慎二も自然と反応するように、
「そうかぁ~! ほな、次の土曜日、僕の家に来る? ちょうどその日に頼んでいるステレオコンポが来るねん」
と言うと、それにも晶子はごく自然に応じる。
「ふぅ~ん、ステレオ買うの? 好いわねえ。そうしたら、私、ワインとCDを持って行くわぁ~」
「あんなあ、前にも良いステレオを持っていたことがあるねんけど、手狭になって教え子にやってしもたから、生駒に移ってからは5万円ほどのステレオミニコンポで我慢しててん。でも、やっぱりもうちょっと好い音が聴きたくなり、年明けに日本橋にあるニノミヤ無線に行ったら、話の弾みでサンスイのアンプ、ダイヤトーンのスピーカー、それにソニーのCDプレーヤーを合わせて、定価で62万円以上するところを消費税込みで44万円と言われて、給料が入ったら何とかなりそうやったから、思い切って買うことにしてん」
慎二は晶子との話があまりにスムーズに進むもので、かえって自分にはやましい気持ちなど微塵もないと言うことを証明しなければならないような気になり、自分をも誤魔化すように、余計なことまで披露した。
本当はそれでデート代にも事欠くようになり、以前の職場の上司で今も時折一緒に仕事をしている本田登の好意に縋り付いたのに、流石にそこまでは言えなかった。
「ふぅ~ん、凄いなあ。私なんか長屋に住んでいるから、小さな音、それもCDラジカセでしか聴いたことが無いから、楽しみやわぁ~」
晶子は本当に楽しみ、と言う顔をして見せる。
「それで、先生はどんな曲を聴くの?」
幾ら親しそうになって来ても、晶子は慎二を先生と呼ぶことだけは未だ止められないらしい。
慎二も面と向かっては未だどう呼べば好いのか心が定まらず、あまり呼ばないようにしている。
「いやぁ~、どんな曲って・・・。たまにはクラシックも聴くけど・・・、ジャズとか、ポップスとか、それに・・・」
そこで一旦切って、チラッと晶子の表情を確認してから、慎二は、思い切って言ってしまう。
「演歌とか、アイドル系とか、かなあ。ハハハ」
本当に気弱な奴である。
晶子は意に介していないように微笑んでいるので、慎二は多少気になっていたことを思い切って訊いてみる。
「ところで誕生日は何時?」
「えっ!? 1月24日やけど、何かくれるの?」
2日後である。あっさりとプレゼントを求められ、かえって慎二は言い出し易くなった。
「うん。好いよ! それで、何が欲しい?」
「えっ、本当にくれるの? 嬉しい! そうねえ・・・、それならば銀の指輪が好いわ」
自分からストレートに指輪を求める晶子に慎二は、かえってそれに含まれる深い気持ちを意識せずにあっさりと応じることが出来た。
「好いよ。でも、銀が好いんか? もっと違うのでも好いよ」
「いえ、私は銀が好きなの!」
「そうか。分かった! そうしたら、24日の夜にまた会おうか?」
「無理しなくても好いよ。今度、29日にまた会うんやから、その時にでも・・・」
そう遠慮されると、慎二は是が非でも会いたくなった。
「いや、少しの時間でも好いから、やっぱり会おう!」
そう言われれば晶子もそれ以上反対する理由はなく、2人は晶子の誕生日である24日の夜に天王寺で落ち合うことになった。
そして慎二の頭の中は早くも晶子への誕生日プレゼントのことで一杯になっており、その喜びに浮かれ始めていた。
言葉から垣根が取れて親密に
気楽なデート重ねるのかも
誕生日祝いたい人現れて
上げる喜び感じるのかも