sanso114の日記

日々気になったことを気楽に書き留めています。

季節の終わり(11)・・・R2.7.17①

          第4章 晶子の日常

 

              その1

 

 病院を出た時、日差しが少し傾いてはいるものの、未だ十分に暑かった。

《今年は何時までも暑いなあ。もう4時6分かぁ~。帰ったら4時20分頃だから、未だ1時間近くはある。明日の用意を少しは進めておけるなあ・・・》

 森田晶子はもう教師の顔に戻って、腕時計を見ながら翌日の授業準備のことを考え始めている。

 

 晶子の勤める、従って松村美樹が通う大阪市立西都中学校は入院している近城大学付属病院から車で10分ほどのところにあった。

 美樹の所属する3年生は生徒数400人の大所帯で、後の学年は多少減少しているとは言え、全校での生徒数は1000人を優に超えている。

 それでも音楽の教師は晶子ともうひとり、中堅の男性教師、美山雪彦がいるだけである。

 美樹は週に2回、火曜日と木曜日の午後に美樹を訪問する時間が保障されているので、多少は授業時数が軽減されているとは言え、そんなに授業の空き時間はなく、放課後にクラブの練習や会議の合間、または帰宅後に上手く時間を見付けては授業準備をするしかなかった。

 しかも今、授業内容を考えようとしている教科は、何と国語なのである。

 それでも晶子は教育大学を出ていて、国語の免許も一応は取っているからまだ許される範囲内にあるが、西都中学には免許を持たない教科を怖々教えている教師が何人もいた。

《明日は谷川俊太郎の詩のところだから、確り読み込んでおかなければ・・・。と言っても、鋭い感性に時々タジタジとさせられた美樹はもう教室には居ないんだなあ。そう思うと、何だか気が抜けちゃうなあ・・・》

 

 学校に戻った晶子は、職員室には戻らず、そのまま真っ直ぐに音楽室の隣にある音楽準備室に向かった。

 幾つかの教科には準備室があり、その教科を主に担当する教師には職員室だけではなく、準備室にも机が与えられていた。晶子は職員室より音楽準備室の方が落ち着き、仕事がはかどったので、もっぱら此方を利用していた。

 晶子が戻って来てから程なく美山がやって来た。

 どうやら、晶子の帰還を今か今かと待ち受けていたようである。

「ねえ。この前のこと、考えておいてくれたかなあ?」

「えっ、そんなこと・・・。この前もお断りしたように、私にはとても無理ですわ~」

 美山の主催するオペラへの参加を誘われているのである。

 美山は晶子より15歳上であったが、未だ独身で、感性の趣くままに恋を楽しむのがアーティストの肥やしだと、酒席になると必ずと言っていいほど口にしている、自称遊び人であった。そして、そんな風に気に入った若い女性音楽教師を誘っては落とすのが趣味だと噂されてもいた。

 晶子は殊更に美山が怖かったわけでも、嫌っているわけでもない。何となく漂っている不潔感が肌に合わなかっただけのことである。

「いや、君なら出来ると思ったからこそ、この僕が特別に誘ったのだよ! 幾ら自信を持っていたとしても、出来ないと僕が判断した人をわざわざ誘うほど僕は暇じゃない。僕がやっていることは冴えない音楽教師に夢を与える慈善事業じゃないんだからねえ。確かに僕は今、しがない音楽教師に見えるかも知れないなあ・・・。でもね、ほら、これを見てくれたまえ!」

 そう言って、美山は前にも見せたことがある音楽雑誌に自分が書いた評論を見せる。

 噂によるとそれは、美山の父親がスポンサーの一人になっている、おぼちゃまたちの同人誌的な音楽雑誌らしい。

《もう何度同じような評論を見せられたことだろう? ちょっと目を留めると、次は、これで原稿料を30万円ほど貰ったんだ、これぐらいなら何時でも直ぐに僕は書ける、僕はドイツ語と英語が出来るので、他にも時々翻訳を手掛けている、なんて言い出すに決まっている・・・》

 晶子は美樹のことで神経が掻き乱され、疲れているから、何時もよりは余計にうんざりしながらも、

「あっ、また評論を書かれたんですね!? 先生、凄~い!」

 ちょっとわざとらしく、ぶりっ子をして見せる。

 つい1年半前まで現役の女子大生だった晶子には、それが決して好みではない態度であっても、見よう見まねでそれぐらいのことは出来た。

 美山は、前とは作戦を変え、これぐらい大したことはないと言う顔で、フッ、と軽く鼻で笑ってから、

「うん。そう。それならば暫らく貸しといてあげるから、好かったら読んでみて」

 とあっさり渡すので、仕方なく晶子が受け取った時に見た目が、子どものようにキラキラと期待に輝いていた。

 やっぱり目は嘘を吐けないらしい。その単純な喜びように晶子は意外な純粋さを見たような気がし、好感度が多少はアップした。

「まあこんなものはともかく、僕の感性は伊達じゃないと言うことを知って欲しかっただけなんだ。だから、この僕が大丈夫だと言う限り、君は大丈夫なんだよ! 確かに今は未だ原石かも知れない・・・。でも、僕と一緒にボイストレーニングをして行けば、将来的に君はきっとものになるはずだよ。ただ美声なだけじゃなくて、君の声には詩がある。君のハートから溢れ出る詩、それを悪たれ中学生にただ聞かせているだけで終わり、もっと広い音楽界に出し惜しみしているなんて、全く勿体無い話だよ。さあ、僕と一緒に立ち上がろうじゃないか!?」

 話している内にどんどん自分の世界に入って行く美山を見て、晶子は益々心が離れて行くのであった。そんな何の中身も無い言葉の羅列ではなく、早く本物の言葉に触れていたかった。

 

 美山が独りで虚しい言葉を散々喋り散らし、諦めて帰った後、晶子は早速国語の教科書を取り出し、谷川俊太郎の詩を丹念に読み始めた。

 

         生きる      

                       谷川俊太郎

    生きているということ

    いま生きているということ

    それはのどがかわくということ

    木もれ陽がまぶしいということ

    ふっと或るメロディを思い出すということ

    くしゃみをすること

    あなたと手をつなぐこと

    

    生きているということ

    いま生きているということ

    それはミニスカート

    それはプラネタリウム

    それはヨハン・シュトラウス

    それはピカソ

    それはアルプス

    すべての美しいものに出会うということ

    そして

    かくされた悪を注意深くこばむこと

 

    生きているということ

    いま生きているということ

    泣けるということ

    笑えるということ

    怒れるということ

    自由ということ

 

    生きているということ

    いま生きているということ

    いま遠くで犬が吠えるということ

    いま地球が廻っているということ

    いまどこかで産声があがるということ

    いまどこかで兵士が傷つくということ

    いまブランコがゆれているということ

    いまいまが過ぎてゆくこと

 

    生きているということ

    いま生きているということ

    鳥ははばたくということ

    海はとどろくということ

    かたつむりははうということ

    人は愛するということ

    あなたの手のぬくみ

    いのちということ

    

 繰り返される何気ないことの有り難さが感じられ、晶子は美樹からそれが失われて行こうとすることにそっと涙するのであった。

 そして、詩の中にある、「かくされた悪を注意深くこばむこと」の難しさをしみじみと思うのである。

 美山の歯の浮くような言葉でも、普段の自分なら繰り返し持ち上げられることにより、ついその気になってしまうかも知れない。それほど人間は自分に自信が持てないものなのである。

 それが今、厳しい現実を突き付けられて、晶子は言葉の表面だけではなく、多少なりとも心が透けて見えるようになった気がしている。

 どうやら美樹もそれは同じようである。

 と言うか、美樹は元々そんな聡明な少女であった。

 

        何気ない事の大事さ気付く時

        時間の無さが惜しまれるかも