sanso114の日記

日々気になったことを気楽に書き留めています。

季節の終わり(10)・・・R2.7.16①

          第3章 美樹の挫折?

 

              その3

 

 給湯室での広瀬学との飯事を終えた松村美樹が病室に戻って来たら、仕事帰りの由樹が来ていた。

「あら、ママ。来てくれてたの?」

 それを聞いた由樹は悪戯っぽい表情を浮かべて、

「あら、はご挨拶ねっ!」

 とちょっと恨めし気に言い、美樹と暫らく見詰め合った後、どちらからともなく笑い出す。

「ウフフッ」

「ウフフフフッ」

 由樹にすれば、ここのところずっと塞ぎ込んでいた美樹がこの頃時々また笑顔を見せるようになり、この日は特に嬉しそうなので、慣れない仕事の疲れも忘れ、自分まで嬉しくなって来たのである。

 由樹は病院の掛かりのことを思うと、中堅サラリーマンの夫、謙二の稼ぎだけに頼っているわけには行かない! と覚悟を決めて、自宅の近所にあるスーパーマーケット、「マンデーキング」のレジ係に勤め始めたのである。

「美樹、今日は何だか元気そうね! 何か好いことがあったの? えらく嬉しそうに見えるわ~」

 由樹にそう言われて、美樹は自分の心の中に起こりつつあるさざ波を見透かされたような気になり、ちょっと赤くなった。

「別に・・・。ほら、夕食をあまり食べる気がしなくて、学君のところに行って、食べ物をちょっと分けて貰っていただけよ」

 それ以上言うともっと赤くなりそうで、美樹はそこで言葉を止めた。

 由樹にはそれで十分であった。血を分けた娘の、年の割に幼い恋心など、詳しく説明されなくても直ぐに分かる。

《今の子にしてはえらくおぼこいので、それが親としては、安心なんだか? このまま大人になって本当に大丈夫なのかと不安なんだか? よく分からなかったけど、結局私は安心していたのね!? その美樹が、こんなにもはっきりと恋心を見せるようになったんだわ》

 少し前なら気持ちの最後に、しかも知的障害児と、と付き、もっと暗い気持ちに囚われたはずである。

 でもこのところの急展開によって由樹は、もうそんな表面的なことについてはどうでもよくなっていた。美樹が乙女らしい恋心を揺らせる相手が出来た。それだけで十分であった。そして、肩の力を抜いて見直した学こそ、今の美樹に相応しい相手のように思え始めた。

「それではお茶でも入れようか? 勿体無いから、ママはこの夕食の残り物を貰っておくわね」

 由樹は万古焼きの急須に、美樹のお見舞いにと貰った福寿園の煎茶を入れ、電気ポットから80℃に保温してあるお湯を少しずつ注ぐ。

《よくは知らないけど、確か沸騰したてのお湯よりはその方が旨味が出て、断然美味しいはずだったわねえ・・・》

 と由樹は何となく思っていた。

 そして2人とも、暑い時にこそ暑いものを飲んだ方が好い、と言う年寄りの教えを後生大事に守りたい気分になっていた。

 

 話が一段落した後、由樹は手提げ袋から編み掛けのストールを取り出して、折り畳み椅子をベッドサイドに持って来て腰掛け、今までさもずっと編み続けていたかのように、ごく自然にすぅーっと自分の世界に入る。

 美樹はベッドサイドのロッカーから鍵付き布装の日記帳を取り出し、ベッドの両端に渡した簡易テーブルの上におもむろに開いた。

 この日記帳は、学が日記を付けていることを知った美樹が自分も付けてみたくなり、由樹に買って来て貰ったものである。初めは、

《今更布装の日記帳? しかも、わざわざ鍵付き!?》

 と思わないでもなかったが、由樹の懐古趣味が嫌いでもなかった美樹は、使っている内に自分が選んだような気になっていた。

 

9月10日

 今日は森田先生が勉強の相手に来てくれた。受験勉強に打ち込むと、それまでモヤモヤしていたのが少しは忘れられた気がする。

 勉強中に、学君が大きなレジ袋にお菓子を一杯詰めてやって来た。何だかサンタさんみたい。夏のサンタさんかぁ~。相変わらず好い味を出している。

 学君の言うことはイマイチ分からない時もあるけど、真っ直ぐな気持ちに溢れていて、救われた気になる。入院前は、人前で警戒し、弱味を見せまいとして気取り、緊張ばかりしていた自分が恥ずかしくなって来る。

 学君のところの藤沢先生も来ていたけど、あの人もけっこう好い味を出している。時々、この人本当に先生かな? と思われるほど頼りないこともあるけど、学君のお母さんはそこに母性本能をくすぐられるようである。それに、藤沢先生が現われると明らかにソワソワし始める森田先生も、藤沢先生のことが嫌いではないようだ。

 あの2人、もしかしたら好いところまで行くのかな?

 正美、菫との会話にはちょっとモヤモヤするものがあったけど、元気な時はそんなものだろう。自分もそうだったもの。

 こんなことを書いていると、今、たぶん自分が大変な状況にあるのだろう、と言うことが忘れられるけど、本当は確実に進行しているのだろうなあ。誰も病状については何も言わず、検査ばかり繰り返して、今は毎日決まったように、あの原色の点滴を繰り返している。来週の木曜日にはいよいよ手術まですると言うし、今更何もないわけがないだろう。きっと・・・

 

 その時、美樹はふと視線を感じ、ゆっくりと振り返った。

 どうやら日記を覗き込んでいたらしい由樹が目を真っ赤にし、肩を震わせて嗚咽を噛み殺している。

 美樹も感情の波にさらわれ、迷わず由樹の胸に飛び込んだ。

 

        迫り来る死への恐怖に耐えかねて

        母の胸へと飛び込むのかも