その49
令和2年6月下旬の或る朝のこと、藤沢慎二は何時も通り今の職場である心霊科学研究所東部大阪第2分室に7時50分頃に着いて、玄関ホールでタイムカードをスリットした後、そばに置いてあるアルコール消毒液を掌に溢れんばかりにたっぷりと取り、手指を丸めたり、伸ばしたり、擦り合わせたり、爪の間にも染み込ませようと指先を掌でトントンしたりし、ともかく丁寧過ぎるぐらい念入りに消毒する。
この消毒液は大分前から置いてあり、来客も含めてそこを通る人の皆が日に数回ずつは使う所為か? この頃は何だか減りが早いように思われる。幾ら呑気で不精者の慎二でも一旦使い始めると、そうしないことが結構大きな不安になって来るのであった。慎二はそれぐらい小心者で、同調圧力に弱いタイプでもあった。だからついでに洗面所に寄って、持参した米国製超強力うがい薬で何回もうがいをしておく。
そんな一定の安心感が得られるまでの儀式的なことまで済ませて執務室に入って来たら、これも何時も通り、既に正木省吾、すなわちファンドさんが来て居り、スマホを観てはぶつぶつ言いながらしきりにメモを取っていた。その変わらなさ加減にも結構大きな安心感があった。
「おはよ~う」
「おはようございま~す」
習慣的な朝の挨拶を交わした後、我が国では急速に新型コロナウイルス感染症が収まりつつあると安心し掛けていたら、緊急事態宣言、休業要請、都道府県をまたぐ移動自粛等の解除の影響が早速出ているのか? この頃また無視出来ないほどの感染者が福岡県、大阪府、神奈川県、東京都、埼玉県、千葉県、北海道等と、広範囲に亙って出ていること、大阪でも難波、心斎橋、梅田、天王寺、京橋等の繁華街では人波が確実に増えて来ていること、通勤電車や駅に学生が見られるようになり、まあまあ混んでいるときも増えたこと、外国では米国、ブラジル、イギリス、イタリア、ロシア、インド、イランと相変わらず広範囲に亙って猛威を振るっていること等、ひと通り世間話をし、それから慎二は自前の中古ノートパソコン、「神の手」をおもむろに開いた。そしてそばには、上手く書けたと思う時は即座にブログにアップ出来るように、テザリング用に格安のSIMを挿したスマホまで用意しておく。
迷うところがあったのか? その後は暫らく考えて、それからおもむろに年季の入った256MBのUSBメモリー、「愛のバトン」を取り出して「神の手」にそっと挿し込み、休みの間に家でまた書き進めていた私小説っぽい作品、「明けない夜はない?」の一部を取り出して、見直しながら加筆修正を始める。
ファンドさんの気持ちは既に投資情報に移っており、またスマホの液晶画面を観てはぶつぶつ独り言ちながら、熱心にメモを取り始めた。
明けない夜はない?
その11
元気盛りの一般的な高校生にとっては勉強以外であれば大抵のことが面白い。いや、その勉強でさえも一緒にする誰かがいれば面白くなる。そんな一般的な高校生達が大勢集まれば騒がしくて仕方が無くても当然のことであろう。
と言うわけで、北河内高校女子バスケットボール部御一行35名様を乗せて思い切り賑やかになった大型観光バスが昭和61年の夏の或る日、一路合宿地である北陸の福井県高浜町へと向かっていた。
常勤講師として顧問を引き受け、その一員となっていた青木健吾は、自分から積極的に引き受けて手配した緊張感を出発してから暫らくの間こそ持っていたが、次第に賑やかになって来たバス内を飛び交っている黄色い声にすっかり魅了され、癒されていた。そして運転手の直ぐ後ろと後ろから3分の1ぐらいと大分離れているにも関わらず、教師と生徒との淡い関係を超えた存在として少なからず気になっている中野昭江の少し低く、しっとりと落ち着いた声を確り聴き分けていた。
京都を過ぎた辺りであった。健吾が安心感もあってうとうとし掛けていると、横からお菓子の袋がいきなりのように差し出され、声を掛けられた。
「青木先生、よろしかったらどうぞぉ!」
健吾と同じく顧問を務めている英語教師の袴田久美子であった。教諭なので、常勤講師の健吾よりは立場的に格上であったが、普段の練習、練習試合の付き添いは大抵健吾に任せ、公式戦、合宿等、大きな責任を伴う場合には付き添うことにしている。元々体育会系ではないが、女子のクラブであるから女性の顧問も一応付けておくべきと言う学校側の配慮でもあった。
それはまあともかく、お菓子であれば大抵好きな健吾は遠慮なく貰っておくことにする。
「あっ、すみません! もう、京都を過ぎましたねえ!? それにしても流石女子高生、皆賑やかですねえ・・・」
「ウフフッ。ほんとうに・・・。期末試験の結果も出たし、今が一番好い頃かしらぁ~」
そう言う久美子も学校に居る時よりはかなり華やいでいる。
《英文学が専門で、確か京都女子大学を出ていて、今年28歳になるって昭江と加奈子が言ってたなあ。そしたら俺より2つ上かぁ~?》
急に身近に思えて来て、健吾は俄かに緊張を覚え出した。
その時、2年生でお調子者の葉山涼香から、
「青木先生、袴田先生、好い感じのところを申し訳ないんですけど、そろそろカラオケタイムといきませんか!? 先ずはデュエットお願いしま~すぅ!」
大きな声が掛った。
それに拍手と歓声も続く。
嫌がるのかと思ったら、久美子は満更でもなさそうであった。
健吾は人見知りが強く、後ろに昭江がいるかと思ったらとても自信がなかったが、この雰囲気になったら仕方が無い!? と覚悟を決めて、
「しゃあないなあ。ほな、銀座の恋の物語、でも行きますかぁ~!?」
と言いながら久美子の方を見る。
「じゃあそれでぇ~」
久美子も異存がなさそうで、バスガイドが手際よくカラオケを掛けてくれた。
♪ここ~ろの、~そこ~まで、しびれるよ~な~
とい~きが~、せつ~ない、ささやきだから~♪
意外と上手く行ったようで、歌い終わると拍手と歓声が鳴り響いた。
「青木先生、すご~い!? 低音の魅力ぅ~!」
「アンコールお願いしま~すぅ!」
「アンコール! アンコール!」
勢いで思わずもう1曲行きそうになったが、そこはグッと抑えて、健吾はマイクを後ろの生徒に渡して決然と言う。
「もうええってぇ! 後は皆で楽しみぃ~!」
「はぁ~い!」
それで誰も異存はないようであった。
ワイワイ言っている内にバスは福井県に入り、やがて海が見えて来た。
「わぁ~、凄い! 海やぁ、海ぃ~!」
「ほんま、海やぁ~!」
「青くてとっても綺麗・・・」
北河内から大阪湾まではかなりあり、それに頑張って行っても海らしい海は観られない。少しはましな海を観たければ神戸から和歌山まで足を延ばす必要があるが、それでも日本海に比べると汚れている。生徒達にとっては久しぶりに旅行気分にさせてくれる、青々として透き通った、まともな海が目の前にあった。
その海を観ながら暫らく走って、着いたのはまあまあ大きめの民宿であった。玄関の案内板には北河内高校女子バスケット部御一行様以外に京都朝鮮高級学校水泳部御一行様ともあった。
案内された部屋に荷物を置いた後、早速昼食であったが、その時50歳ぐらいの民宿の主人がにこにこしながら出て来た。
「こんにちはぁ~」
それを聞いた部員達も声を揃えて、
「こんにちはぁ~!」
「流石元気だねぇ。今日から4日間、後から案内する体育館でしっかり練習して、ここではゆっくり寛いでください。お腹が減ったでしょうから、挨拶は短い方がいいね。早速昼食にしましょう」
合宿の団体を始終受け入れているのか? 慣れた様子であった。昼食も特に高級なものを使っているわけではないが、ボリューム、栄養共にしっかり考えられたメニューであった。
昼食後、海沿いの松林の中の道を歩いて5分ほど行くと、私設のプレハブっぽい体育館があった。入ってみると、バスケットボールのコートが1面取れるようになっており、柔道をする時もあるのか? 端の空いたところには薄緑色のビニールで覆った畳が積み上げてあった。
そんな様子を目にした皆の表情から察して、案内して来た民宿の主人は本当に申し訳なさそうに言う。
「狭くて申し訳ないね。町にはバスケットボールのコートが3面も取れる体育館が2つあって、本当は其方を使って欲しかったんだけど、生憎今年の夏は抽選に外れちゃってねぇ・・・」
確かに練習をするには其方が好いが、民宿がバスケットボールの出来る体育館を持っているのも凄いように思えて来て、単純で人の好い健吾は感心しながら、
「いえ、別にまあこの人数ですから・・・。でも、個人で体育館を持っているなんて、凄いですねぇ!?」
そう言われた民宿の主人は満更でもなさそうにバスケットボールを手にして、
「若い頃、これでも僕もちょっとバスケットボールをやっていて、国体にまでは出たことがあるんですよぅ~」
そう言いながら段々自慢気な顔になり始め、ゴールの前に引いたフリースローインすれすれに立ち、片手で軽やかにシュートを放ってみせた。
そのままシュポっと入れば恰好が好かったのであるが、現実はそうも行かない。大分手前で落ちてしまった。
ちょっと恥ずかしそうになった主人は意地が出て来たのか? 顔を引き締め、慎重に狙ってもう一度放ったが、少しは近付いたものの、やはり届かず、
「前は届いたのになあ・・・。まあゆっくり練習して下さい・・・」
そう言いながら、ちょっと照れ臭そうに出て行った。
部員達はそこで大声を出して笑うわけにも行かず、何もなかったかのように静かに練習を始めた。その辺りの遠慮はある、好く出来た子達であった。
2時間ほど練習した後、民宿に帰って入浴している時のこと、お風呂は意外と大きく、そこに朝鮮高級学校の先生達が先に入っていた。健吾が湯船に浸かって落ち着いた頃、近くに居た年配の先生、朴夏俊(パク・ハジュン)が話し掛ける。
「こんにちはぁ~。私、朴と言いますぅ。よろしくぅ」
「あっ、こんにちはぁ~。私は青木ですぅ。こちらこそよろしくぅ」
少し離れたところに居た少し若く、如何にも水泳をやっているような体格の好い先生も黙礼をするので、健吾も黙礼を返した。
それをにこやかに確認してから朴が続ける。
「私達は京都からですけど、貴方達は北河内だから、大阪からですねえ!?」
「そうなんですぅ。私達は大阪からですぅ」
朴の人懐っこい雰囲気がそうさせたのか? それとも文字通り裸の付き合いであるからか? 恥ずかしがりの健吾でも意外と気楽に話せた。
幾らか話している内に、どうしても言っておきたかったという感じで朴が悔しさを滲ませながら言う。
「貴方達のところは進学校だから多くの生徒が進学するのでしょうが、私達の学校からは勉強が出来ても中々大学までは進学出来ないんですよぅ」
健吾にすれば一体何のことか分からず、
「・・・・・」
返事は無くともしっかり受け止めていることを確認し、朴は続ける。
「公式には高校と認められていないから、立命館とか、一部の認めてくれる大学にしか行けないんですよぉ・・・」
それを聴いていて、素直な健吾は自分の国ながらちょっと恥ずかしくなって来た。
「そうなんですかぁ~!? 知らなかった。それにしても酷いですねえ・・・」
「そうでしょう!?」
まさに裸の付き合いで、気を好くした朴はその後も色々教えてくれ、健吾はそれまでは大分遠い存在であった隣の国に一歩近付けた気がしていた。
その辺りまでを見直しながら加筆訂正し、ちらっと時計に目を走らせてここで置くことにした。
《これ以上続けると気持ちが持って行かれてしまうから、仕事にならへん・・・》
そんなことを思いながら「愛のバトン」をそっと引き抜いた後、「神の手」を優しく閉じ、慎二が創作の余韻に浸ってしみじみとしていると、
「おはようございま~す」
「おはようございま~す」
「おはよ~う」
井口清隆、すなわちメルカリさんが執務室に入って来た。
慎二はまだ恥ずかしさも少し残っていたが、ちょっとは軌道に乗り始め、この話に付いては多少の自信も出始めているので、「神の手」を再び開き、メルカリさんの方にその液晶画面をおもむろに向けて、
「ふぅーっ」
ひと息吐いて気持ちを落ち着けながら静かに問いかける。
「どう、これぇ? ほら、この前もちょっと見てもろた書き掛けの小説みたいなもんの続きなんやけど、自分としてはまあまあ上手く書けてると思うんやけどなあ・・・」
「そう言うたら、確かブログさんの若い頃らしい主人公がヒロインの所属する女子バスケットボール部のもう1人の顧問、妙齢の女性と揉めながらも夏の合宿が高浜に決まって、あの後どうなるのか? ちょっと気になってたんですわぁ~。それにしてもブログさん、毎朝、よう精が出ますねえ・・・」
気の好いメルカリさんは半分呆れ、半分感心しながら、忙しい中も厭わず、さっと目を走らせる。
「どれどれ・・・、ふむふむ・・・」
読み終えてからちょっと考え、おもむろに口を開く。
「そう言うたら、この辺りにも朝鮮高級学校、ありますねえ。でも、僕らはその内実を殆んど知らないし、知ろうとも思わない・・・」
《おいおい。メルカリさん、珍しく真摯な目をして熱くなっているなあ》
と思いつつも、慎二はどう言って好いか言葉を探していると、メルカリさんは続けて、
「でも、ブログさんは若い頃にそんな経験をして、これまで色々考えてはったんですねえ。流石です・・・」
しみじみとそう言いながら立ち上がり、コーヒーを淹れに行った。
そこに事務を担当している若い依田絵美里がお茶を持って来て、慎二の机の上にそっと置き、「神の手」の液晶画面にさっと目を走らせた。
読み終えてちょっと考えてから、
「私、この近くですから、友達にも朝鮮高級学校出身の子、何人かいてます。両親が韓国出身の子も。付き合ってみると、皆、何も変わらないのに、大人になるに連れて何かが変わってしまう・・・。何だか寂しいですね!」
と言い、返事を待たずに離れて行った。
《皆、普段口には出さんでも、色々考えてるようやなあ。直ぐには答えが出えへんと思うけど、これで好い・・・》
慎二はそう思いながら絵美里の背中を父親の様な目で見ていた。
主義主張超えて人間繋がって
分かり合えたら嬉しいのかも
人と人コロナを前に繋がって
対抗すれば望ましいかも