その43
令和2年6月下旬の或る朝のこと、藤沢慎二は何時も通り今の職場である心霊科学研究所東部大阪第2分室に7時50分頃に着き、玄関ホールでタイムカードにスリットした後、そばに置いてあるアルコール消毒液を掌に溢れんばかりにたっぷりと取り、手指を丸めたり、伸ばしたり、擦り合わせたり、爪の間にも染み込ませようと掌でトントンしたり、ともかく丁寧過ぎるぐらいに念入りに消毒する。
この消毒液は大分前から置いてあり、来客も含めてそこを通る人の皆が日に数回ずつは使う所為か? この頃は何だか減りが早いように思われる。幾ら呑気で不精者の慎二でも一旦使い始めると、そうしないことが結構大きな不安になって来るのであった。慎二はそれぐらい小心者で、同調圧力に弱いタイプでもあった。だからついでに洗面所に寄って、何回もうがいをしておく。
そんな一定の安心感が得られるまでの儀式的なことまで済ませて執務室に入って来たら、これも何時も通り、既に正木省吾、すなわちファンドさんが来て居り、スマホを観てはぶつぶつ言いながらしきりにメモを取っていた。その変わらなさ加減にも結構大きな安心感があった。
「おはよ~う」
「おはようございま~す」
習慣的な朝の挨拶を交わした後、もしかしたら梅雨入りして蒸し暑くなって来た影響もあるのか? 梅雨の合間にもしっかりと感じられるほど紫外線が強くなっている効果も大きいのか? 我が国では急速に新型コロナウイルス感染症が収まっていること、また全国的に緊急事態宣言に続いて休業要請、更に都道府県をまたぐ移動の自粛も解除されている所為で早速気の緩みが出始めたのか? 福岡県、大阪府、神奈川県、東京都、北海道等と、広範囲に亙ってまだ新たな感染者が無視出来ない数出ていること、大阪でも難波、梅田、天王寺、京橋等の繁華街で人波は確実に増えて来ていること、通勤電車や駅に学生が見られるようになり、程々に混んでいるときも増えたこと等、ひと通り世間話をし、それから慎二は自前の中古ノートパソコン、「神の手」をおもむろに開いた。そしてそばには、上手く書けたと思う時は即座にブログにアップ出来るように、テザリング用に格安のSIMを挿したスマホまで用意しておく。
迷うところがあったのか? その後は暫らく考えて、それからおもむろに年季の入った256MBのUSBメモリー、「愛のバトン」を取り出して「神の手」にそっと挿し込み、休みの間に家でまた書き進めていた私小説っぽい作品、「明けない夜はない?」の一部を取り出して、見直しながら加筆修正を始める。
ファンドさんの気持ちは既に投資情報に移っており、またスマホの液晶画面を観てはぶつぶつ独り言ちながら、熱心にメモを取り始めた。
明けない夜はない?
その9
ゴールデンウイークが終わって暫らくすると、北河内高校では1学期の中間テストに備えてクラブ活動が1週間の休止期間となった。同じ学校の教師と生徒の関係となった青木健吾と中野昭江はもう近所のファミレスで2人っきりの勉強会と言うわけには行かない。健吾にはそれを判断するぐらいの節度が残っていた。
仕方が無いから健吾は担当している物理の部屋で1番広い、普通教室2部屋分ぐらいはある物理実験室に部員を集めて勉強会を催すことにした。
これは生徒のみならず、担任、保護者にも喜ばれた。2年生の後半になってクラブ活動を引退するまでは中々独りでの勉強に集中し難いからである。北河内と言う土地柄もあり、北河内高校には学区でトップの公立進学校になってもまだそんな呑気なところが残っていた。
さて、勉強会をし始めて1時間ほど経ち、休憩に入った時のこと、夏の合宿をどうするのかと言う話が突然のように出て来た。
先ず2年生のムードメーカー? お調子者の葉山涼香が口火を切る。
「なあなあ。今年の合宿やけど、どこに行くぅ? 去年は涼しいから言うて高野山にしたから、どこ観ても山ばっかりのところで退屈したやろぉ~!? 今年は絶対に海があるところがええなあ・・・」
それを聴いた1年生の三島冴子も目を輝かせ、
「ええっ、今年は合宿で海に行けるんですかぁ~!?」
と声を弾ませると、後は、
「海ぃ、ええなあ・・・」
「わぁ~、海、行きたいわぁ~! 私、絶対新しい水着買ってもらお~」
「うちとこ、この頃あんまり旅行してへんから楽しみやわぁ~」
皆が口々に勝手なことを喋り出し、収拾が付かなくなりそうなので、2年生でキャプテンをしている外崎順子がまとめに掛かる。
「まあまあ、夏の楽しみについてはそれぐらいにして、そろそろ勉強を再開しょう。ほな、青木先生、どこか海があって好さそうなところを探しておいて下さいね!」
「うん、分かったぁ・・・」
健吾としても特に異存はなかった。
それどころか何だか楽しみになって来た。そして早くも、モデル並みに引き締まりながらもメリハリのある水着姿の昭江が、自分を意識しながら恥ずかし気に海に入って行くシーンが脳裏にくっきりと浮かび始めていた。
「あっ、先生、今、変なこと考えてへん? ウフフッ」
お調子者だけに勘が鋭く、反応の速い葉山涼香であった。
満更当たっていなくもないので、健吾は急に目を泳がせ、耳まで真っ赤になっていた。そしてもごもごしながら否定に掛かる。
「いや、そんなことないってぇ・・・」
「ウフフフッ」
「ウフフフフッ」
年の割に健吾のそんな初心さがおかしかったようで、部員達は目を煌めかせて中々勉強が手に付かない様子であった。
昭江はその輪に入らず、静かに勉強を再開し始めたが、少しも進まず、何だか健吾に自分の水着姿をまじまじと見られているような気になって来て、それが別に嫌なことではないだけに、いや心の奥ではむしろ求めている自分の存在にも気付き始め、頬を薄っすらと染めていた。
皆を束ねるキャプテンだけに順子はそんなことにも鋭く気付き、実は自分も健吾に惹かれ始めていたことから、ちょっと哀し気な表情になり、もう何も言わずに静かに勉強を再開し始めた。
部員達が帰ってから早速健吾は電話帳で合宿斡旋業者を調べ、問い合わせてみたところ、1泊3食付きで5000円ぐらいからあった。荷物の多さを考えて大型の観光バスの貸し切りを頼んだ場合、和歌山、北陸ぐらいであったら1人当たり5000円で済みそうであるから、3泊4日で1人当たり20000円ほどになる。意外と安く、健吾の気持ちは調べて手配したり、計算したりしている内に、早夏休みまで飛んでしまい、活発でキラキラと輝く素直な女子高生達に囲まれて大騒ぎされながら、すっかり行った気になっていた。
それはまあともかく、幾つか聞いた候補の中で健吾が惹かれ、ほぼ決めていたのが福井県の高浜町にある民宿であった。それを顧問の1人である女性教諭の袴田久美子に相談したところ、直ぐに緊張した表情になって言う。
「ええ~っ、福井県の高浜町ですかぁ~!? 高浜って、あの関西電力の原発があるところでしょう? 何もわざわざそんなところに行かなくても・・・」
結構強そうな難色を示すので、その時はそれで置いた。
実は理学部出身でありながら寡聞にして健吾は、その頃未だ高浜町が原発で有名なことを知らなかったのである。それに調べてみても、政府や研究機関にも認められて日々普通に稼働しているのであるから、確率的に考えてそんなに危険ではない気がしていたのだ。
未だ東日本大震災が起こっていなかったことが一番大きかったのであろう。健吾は更に色々調べてからも、疑うことなく久美子を説得に掛かることにした。
そもそも放射線と言うものは自然界にも普通に飛び交っているし、コンクリート等からも出ている。そんなものに比べても原発の危険性は低いぐらいだ。
そんな一般的によく見聞きする理由が根拠であった。
そして久美子の、教師によくある生真面目な神経質さを揶揄するぐらいであった。
後から振り返ってみれば恥ずかしいことに、知らないと言うことは時に大胆な言動を取らせる。健吾はすっかり説得出来た気になって手続きを進めた。
面白いことに、実は久美子も健吾に少し惹かれ始めており、積極的に進められると強くは反対出来ない。それに、健吾が原子核実験でも有名な国立浪花大の理学部を出ていると言うことがこの場合妙な安心感を与え始めていた。人はそんな風に自分が安心するような理由を無理にでも引っ張り出し、動き始めるもののようである。
青春は辛い練習何のその
合宿さえも楽しいのかも
その辺りまでを見直しながら加筆訂正し、ちらっと時計に目を走らせてここで置くことにした。
《これ以上続けると気持ちが持って行かれてしまうから、仕事にならへん・・・》
そんなことを思いながら「愛のバトン」をそっと引き抜いた後、「神の手」を優しく閉じ、慎二が創作の余韻に浸ってしみじみとしていると、
「おはようございま~す」
「おはようございま~す」
「おはよ~う」
井口清隆、すなわちメルカリさんが執務室に入って来た。
慎二はまだ恥ずかしさも少し残っていたが、ちょっとは軌道に乗り始め、この話に付いては多少の自信も出始めているので、「神の手」を再び開き、メルカリさんの方にその液晶画面をおもむろに向けて、
「ふぅーっ」
ひと息吐いて気持ちを落ち着けながら静かに問いかける。
「どう、これぇ? ほら、この前もちょっと見てもろた書き掛けの小説みたいなもんの続きなんやけど、自分としてはまあまあ上手く書けてると思うんやけどなあ・・・」
「そう言うたら、確かブログさんの若い頃らしい主人公が、ヒロインの通う高校の常勤講師になって、毎日キャピキャピしたJKに囲まれながらわくわくしているところでしたねえ!? あの後どうなるのか? ちょっと気になってたんですわぁ~。それにしてもブログさん、毎朝、よう精が出ますねえ・・・」
気の好いメルカリさんは半分呆れ、半分感心しながら、さっと目を走らせる。
「どれどれ・・・」
そして興味津々と言った様子で目を輝かせ、
「ふぅ~ん、憧れのJKらにすっかり馴染んでますやん! それで心の鍵を甘くする夏の合宿にまで行くんですかぁ~!? それは楽しみやなあ・・・。フフッ」
「おいおい。何を考えてるんやぁ~!? 当時は俺かて純粋やってんから・・・」
「もうすっかり自分のことやって認めてますねえ。フフフッ」
「・・・・・」
何も言えなくなって口をもごもごさせている慎二に構わず、メルカリさんはほくそ笑みながらサッと立ち上がり、コーヒーを淹れに行った。
そこに事務を担当している若い依田絵美里がお茶を持って来て、慎二の机の上にそっと置き、「神の手」の液晶画面に目を走らせる。
暫らくしておもむろに、
「実は私も高校の1年生の頃に、合宿で高浜に行ったことがあるんです。2010年の夏やったから、あの大震災の前の年のことになりますねえ・・・」
そう言いながらちょっと懐かしそうに遠い目をする。
「ふぅ~ん、そうやったんかぁ~」
慎二は大震災のことよりも絵美里が高校生の頃を思い浮かべていた。
ただ普通であればそれは中年オヤジのいやらしさを醸し出すところあったのかも知れないが、そうではなく、慎二の場合は中野昭江のモデルにした女性への感傷からであったから、かえって澄んだ目になっていた。
絵美里は自分を見ているようで、実はその向こうに別の女性を見ていることに寂しさを覚えたのか? それ以上は何も言わず、すっと遠ざかった。
そして慎二はその背中にもモデルにした女性を見ていた。
同じもの一緒に見ながら心では
別の世界を広げるのかも