エピソードその3
なだらかな御椀山を臨む北河内も大分人が増えて、住宅が山裾まで迫っている。青木健吾が大阪市内の親元からから地域トップの進学校北河内高校に学生として通っていた7、8年前と比べても田んぼや畑が更に減っていた。
もっとも健吾が通っていた当時は大阪府の学区はそれぞれがもっと広く設定されており、北河内が鄙びてのんびりしていたように、北河内高校ものんびりした地域2番手の進学校であった。同じ地区に君臨するトップの進学校、城の森高校と比べようもないぐらい差を付けられており、たとえば国立京奈大学への合格者数だけを比べても城の森高校は100人前後で推移しており、北河内高校は2桁にも達しなかった。
それはまあともかく、実はもっと前から健吾は北河内と縁があった。父親である新吉の職人仲間、峰岸幸三がこの辺りに住んでおり、少なくとも2、3回は来た覚えがある。その頃はJR片町線(現学研都市線)の線路から御椀山の山裾にある有名な北河内神社の境内までの間には、田んぼや畑が一面に広がっていた。
峰岸は関大(関西大学)の夜学を中退しているが、戦後直ぐに少なくとも新制高校を出て4年制大学までは進学したと言うことで、職人にしては高学歴であり、受験情報に通じて判断力にも優れていた。そこに地元愛が加わり、健吾の成績がかなり好いと聞いてからは、会う度に北河内高校を勧めるようになった。
そんなことも健吾が北河内高校を進学先として選ぶ際に殆んど迷わなかった理由のひとつになっていた。
その北河内高校に昭和61年度から健吾は常勤講師として雇われることになった。
何でも教諭として赴任するはずであった中堅教師、滝口伊佐緒にちょっと恥ずかしい不祥事が発覚し、2月上旬の或る日、急遽連絡が入ったのである。
既に健吾の中では大きくなっていた中野昭江の存在に、生真面目な健吾にとってはかえって迷うところもあったが、それはそれとして引き受けることにした。
《何となく気が合って一緒に勉強しているだけで、別にまだ個人的に付き合っているわけやない。第一、10歳も違うし、昭江みたいに可愛い子が俺と個人的に付き合ってくれるわけがない・・・》
考えれば考えるほど健吾は自信がなくなり、それならば同じ学校に勤めた方が会う機会が増えて好いかとも思ったのである。
2月16日の日曜日の午後、健吾が駅前のガストでケーキセットを頼み、公務員試験の一般常識のテキスト、問題集を広げていると、少し遅れて昭江がやって来た。
珍しく友達を連れている。
席へ案内しようとしたウエイトレスに断わり、ためらい気味に健吾のそばにやって来て、ちょっと恥ずかし気に、
「こんにちはぁ。一緒に勉強したいと言うから、友達も連れて来たのぉ。別にいいでしょう!?」
「・・・・・」
健吾にすれば断われるわけがないことを分かっているから、返事を待たず、迷わずに紹介まで続ける。
「一緒のクラブの橋本加奈子さん」
加奈子は照れずに健吾の事情が分からず泳いでいる目をしっかりと見て、
「こんにちはぁ。よろしくお願いしま~すぅ!」
「こんにちはぁ・・・」
少し照れた様子の健吾を見て微笑みながら昭江は、
「此方青木健吾さん、私たちの先輩でぇ~すぅ!」
何時もよりちょっと軽さを強調して紹介した。
実際にそうなったかどうかは別にして、ともかく場が一気に華やかになった。普段の昭恵には深沈としてしっとりとした大人の女性を思わせる魅力があったが、加奈子には一目で誰にでも直ぐに分かる、ぱっと花開いたアイドルのような明るい可愛さがあった。
少し空気が落ち着いたところで昭江はメニューを開き、健吾の方にさっと目を走らせてアイコンタクトを取ってから、
「私、青木さんと同じものにしょうかなぁ? ねえ、加奈子は何にするぅ?」
ここでは私が先輩よと言う感じで仕切ろうとする。
加奈子もちらっと健吾の方に目を走らせ、健吾の目が落ち着いて来たのを確認してから遠慮せずに言う。
「じゃあ私もぉ・・・」
その後は3人共特に意識はしていないような感じで、健吾と昭江は実はお互いに凄く意識しながら、何時も通りの如く勉強し始めた。
ずっと前から異性との交際経験があり、彼氏の居ないときの方が少ないぐらいの加奈子には何だか可笑しくて仕方が無かったが、そんな可笑しさに慣れてもいたので、取り敢えず勉強し始めた。
どうやら昭江と加奈子が持って来たのは学年末試験の対策問題のようで、時々分からなくなったところを健吾に訊く。それに対して健吾は少し考えて、淀みなく答えた。そんな遣り取りを何回かする内に、自然な空気が醸し出されていた。
勉強がひと段落着いた頃に、加奈子が、
「昭江、あれぇ、渡さへんのん!?」
背中を押すように言う。
昭江は黙ってカバンの中から小さな箱を取り出して、
「遅くなったけど、はい・・・」
バレンタインデーに渡せなかったことを詫びている。
健吾は何でもないように受け取ろうとしたが、そうは行かず、多少舌をもつれさせながら、
「あっ、ありがとう!」
大事そうに受け取り、そそくさとカバンの中にしまった。
耳の先まで真っ赤になっているし、何でもないようにコーヒーカップの伸ばした手が少し震えていた。
一方の昭江は昭江で耳まで赤くなり、それでも無事渡せたことで安心したのか? 黙って微笑んでいたから、そんな2人を何度か交互に見て、加奈子はまた可笑しくなって来て、笑わずにはいられなかった。
「ウフフッ。もうこの2人はぁ・・・。ウフフフフッ」
それからまた暫らく勉強した後、学年末試験までの間にもう何回か会う約束をしてその日はお開きにした。
昭江と加奈子が帰った後、健吾は気持ちを落ち着ける為にもう暫らくいることにして、夕食にエビフライとおろしハンバーグがセットになっている定食を頼んだ。
《今夜は照明がやけに眩しい・・・》
何でもないようなことが何でもなくなんかない。そんな夜になりそうな予感に健吾はまた新たな震えを覚えていた。