捨てる神あれば拾う神あり?
アレン・マー
今から100年ぐらい後のこと、霊能者、正木剛の協力もあって、自由を求める気が肉体から飛び出した後、残った穴を、取り敢えず色んな気によって満たすことが出来るようになった。これを応用すれば、アルツハイマー病等によって起こる認知症のように、気が抜けて自分であることが損なわれて行く症例の治療も出来るのではないだろうか? 数学に強い医者なら考えそうなことである。
そして医者である限り、少なくとも医学部には合格したのであるから、一般的に言って数学は大幅に平均を上回っているはずである。だから、脳に関わる医者ならば考えたくなるテーマであった。
ただ問題になって来るのは、自己も含めた物忘れが、単純に気が抜けただけではなく、機能面の損傷が関係しなかったのか? ということである。つまり、必要な機能としては何も損なわれていないのに心理的に何らかの問題が起こって気が抜けたのか? 脳細胞、神経等の損傷のように機能的に欠落が起こって気が抜けたのか? 十分に見極める必要があるということである。
とは言え、今から100年も経てば、ロボットにでもほとんど人間に近い機能を持たせられる時代。人工臓器など朝飯前であるから、脳細胞、神経の機械的修復、更に人工化まで十分に可能であった。
その結果、気が抜けたがままの肉体は全くと言っていいほど存在しなくなり、それぞれ新たに人として我が国を支え始めたから、話がややこしくなった。自由を得られたのはいいが、個性を求める肉体を離れた気たちの居場所が、最早空間にしかなくなったのである。何時でも帰れる家があってこそ、空間を自由奔放に彷徨っているのは気ままでいいが、戻る家がなく彷徨っているのは不安なものだ。
そして、気の魔術師を気取っていたのはいいが、正木は、実は数学、物理と言った理系科目がからきし駄目であった。言いわけにはならないが、だからこそ競争率が低く、理系とも文系とも取れる、我が国の学問の世界では未来になっても異端児扱いの心霊科学科を選んだのである。そんなわけで、非常に重要かつ基本的な点を見落としていた。
具体的には、肉体を離れた気たちが空間を彷徨っているのはいいが、それが何時まで彷徨っていられるのか? と言うことである。一般的によく見られる物質は地球が及ぼす重力により引っ張られているので地上に留まり、大気のような軽い物質であっても、ほぼ大気圏に止まっている。それと同様に気も留まっていられるのか? と言うことの考察が全くなされていなかった。その辺りが、幾ら売れっ子であっても、正木は似非科学者であった。
そして、こういう場合ほとんどが陥る結果となった。つまり、地球の重力では大気を構成する物質より更に軽めの気を長く留め置くことは出来なかったのである。絡まったり、融合したりして、重くなった気は何とか、大気圏内は無理にしても、重力圏内に留まり、元の世界との交流を辛うじて楽しめたが、孤独を楽しむタイプの気はあっさりと地球の重力圏を離れ、果てしのない宇宙へと旅立つことになった。
また、地球の重力圏内に留まった気たちも、うかうかと離れようものなら、たちまち何処かへ運ばれて行くから、常に緊張していなければならない。これでは自由を求めて肉体を離れた意味がないのであった。
高い代償を払ったようである。自由を得たいばっかりに怪しげな霊能者に大枚はたき、この結果はむごい。
しかし、捨てる神あれば拾う神あり。運命は巡るものである。持っていた物を手放すのは未練が残って当然だとしても、新たな出会いがそれより悪いとは限らない。今持っていないと言うことは、更に手放す必要はなく、今後、前より程度のいい肉体と出会い、より幸せになれる可能性も十分にあると言うことである。それを期待出来る分、面白くなったと言えるのかも知れない。
つまり、頭を柔らかくして、発想を柔軟に広げれば、無限の可能性を得たとも言えるのである。
それはまたこんな風に考えれば気が楽になるだろう。
命ある物は必ず死ぬ。ここで言う死とは肉体の死を指しているのであるが、誰でもが通る道を一足先に通ったと思えばいいのである。そして肉体が滅んだ後も気が生きていることは明らかになったのであるから、後はそれこそ死ぬことはないし、老いることもない。命あるものとしての永遠の夢であった不老不死の世界を楽しめばいいのである。
勿論、また何かの肉体を得た場合、肉体の死か、肉体との分離とは付き合う必要があるが、それも二度目となれば怖くないだろう。
そこまで書いて藤沢慎二は感に堪えないような恍惚とした状態になり、それに身を任せて、むしろ楽しんでいた。
「父ちゃん、また変なもん書いてぇ~。それに、今度はご丁寧にもペンネームまで付けたんかいなぁ~!?」
妻の晶子である。特に変わった顔はせず、落ち着いたものである。
「フフッ。そうやけど、ええ感じやろぉ、このペンネーム?」
「どこがやぁ~? でもそれ、何処から取ったん?」
慎二の目の前にある大型液晶画面を指す。
「この頃またアランとか注目され出しているやろぉ~?」
「父ちゃんがよう言う名言集とかに出て来る人やなあ?」
慎二は我が意を得たりと言うドヤ顔になって、
「そうや! フランスの実践哲学と言うか、合理主義哲学と言うか、あの感じにやなあ、マーで中国系の感じを加えて、ちょっと謎めかしたわけやなあ。フフッ」
「実践や合理主義はないけど、怪しさは十分に漂ってるなあ。まあどうでもええけど、暇やったら玉子と牛乳、買ってきてやぁ~」
もうすっかり慣れたもので、思い切り日常的なお使いを頼むと、晶子は静かに書斎を出て行った。
「しゃあないなあ・・・」
慎二もそれで異存はないようで、その方が時間は取られても、かえって気が動くとでも思ったか? 財布と保冷バックを持ち、静かに買い物がてらの散歩に出た。
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これは10年以上前に書いたものに、アランの下りを加える等、加筆訂正した。
因みにアランはウィキペディアによると、エミール=オーギュスト・シャルティエと言う立派な本名を持つフランスの哲学者、評論家、モラリストとある。
元教師で、退職後、色々な発言、執筆を続け、有名な弟子を育てている。
合理的、楽観的、ヒューマニズムと、昭和30年生まれの私にとっては身近とも思える思想であろうか!?
ちょっと沈み、暗くなりがちな今、見直されているのが分かる気もする。
ただ、芸術霊感説を否定する等、異論もある。
何でも理屈で理解し、はっきりした言葉で説明したくなる気持ちを分からなくもないが、それだけではしんどくなる。
今、ネットの記事を読んでいても、自分なりの理由付けを一刻も早くしたそうなコメントに溢れているが、直ぐには分からないこともあり、一旦置くことも大事である。
そして先ずはよく観ることであろうか?
ともかく、柔らか頭も時には大事だろうなあ。フフッ。