sanso114の日記

日々気になったことを気楽に書き留めています。

私と言葉の隠れた部分・・・R2.3.21①

 藤沢慎二は前の職場に居るとき、とぼけたことを書き捲ったてへぼな短歌や俳句を添えた日記をコピーして配ったり、緊張した場面でとぼけたことを言ったりした所為で、当時流行りの癒し系に分類されていた。地に足をつけて日常生活を送っているものからすれば、主流から大きく外れている故、気が抜けて、ホッとする面もあったようだ。

 そのイメージが独り歩きしている所為か、たまに気を入れて真っ当そうなことを話し始めると、周りはちょっと戸惑い顔になり、そっぽを向く。

 こんなはずではない。お前がそんなことを言うのはおかしいだろう? それにそんなことは世間で聞き飽きた正論に過ぎないし・・・。

 というわけだ。

 本来ならば、そう言われてもなあ、確かに平凡な意見かも知れないが、それは皆だってそうだ、所詮皆同じような凡人同士なんだから、と慎二こそ戸惑い、開き直るところであるが、若い頃からそんな扱いには慣れこになっていた。

 たとえば中学生のときには「おっさん」と呼ばれ、引っ込み思案の所為で、謙虚そうで落ち着いて見えるところが評価されていた。口を開くと無視されがちで、たちまち空気のような存在と化すのが普通なのに、それがかえって都合好かったのか? 何かで集まるとなると、必ずと言っていいほど、数合わせのように呼ばれる。口では、誰誰が「おっさん」を面白がり、呼びたがっていたと言うのであるが、いざ顔を出してみると、俄かには信じ難かった。たまに何かを言っても、聞きたいように聞き、それをきっかけに慎二を除いたお話の輪が出来るから、慎二にすれば今一話した気がしなかった。

 酷いときはデートの緩衝材のように扱われたこともある。40年以上前(これを書いたのが10年以上前であるから、今からは50年以上前)のこと、街も心も今ほど開けていないから、中学生と言っても、大抵は可愛いものだ。公園か精々ゲームセンター、ボーリング場、映画館等に行く程度で、しかも2人だけでは気まずいから、慎二を呼ぶのである。

 慎二にすれば堪らない。呼んだ2人はそれで安心し、慎二のことは無視して会話を弾ませ、やがて微妙な雰囲気を醸し出すから、本来は弾みたがっている慎二の好き心がくすぐったくって仕方がなかった。

 それは高校、大学と上がっても、基本的に変わらなかった。行動範囲が広がり、することが大人に近付くだけのことで、慎二の与り知らないところが評価され、利用されるのは同じである。そして、意識している部分は相変わらず出すと無視された。

 これはある種の分裂と言えなくもないが、このことに気付いたのはつい最近のことである。

 今の職場に移ってから、元々強い興味があった所為か、人間の陰の部分である無意識、オーラ、霊等の総合的理解、融合、更に教育、医療の世界への応用までを図ろうと張り切り過ぎるあまり、言葉の世界、すなわち意識の表にある部分を重視しがちな現実社会の雰囲気の中、慎二のような不器用なタイプは疲れ切り、やがて気を病むことになった。

 そして病気休暇を取り、ひと息吐けることになった。

 それがよかったようである。慎二は統合出来なくなった自分に戸惑い、慌てた結果、自分について、更に自分の発する言葉および気について深く考えるようになった。元々は自分を離れた場所に置き、外野からのアプローチとして取り組もうとしていた人間の深層について、今度は必要に駆られたのもあるにしても、自分のものとして考える機会を得たのである。まさに地に足をつけた思考の始まりであった。

 

 先ず自己の分裂についてである。

 慎二の意識している部分は自分ではむしろ評価していない部分。いわば嫌いな部分である。当時でも目立って貧困な家庭に育った彼は、ませていた分、それが応え、否定したかった。たまに気を許して家に友達でも呼ぼうものなら、たちまち低く見る言動に遭遇することになるから、嫌でも気付かされる。

 たとえば大学生の頃、飲み会の後、酔っ払って帰れなくなった高校の頃からの友達、矢島孝和を当時住んでいたアパートの1室に泊めた翌朝のこと、周りの建物の所為で朝日が十分に入らず、薄暗い部屋を暫らく見渡した後、誰にともなく呟いた。

「ふぅ~ん、藤沢はこんなところから頑張って国立の浪速大学に行ったんやなあ・・・」

 慎二にすれば気弱な笑いを浮かべているしかなかったが、心に深く焼き付き、いまだに鮮明に残っている光景となった。

 そんな思い出がもの心付いた頃から積み重なると、当然、自信など持ちようがなかった。だから慎二は今でも全く自信の持てない方で、控え目で謙虚に見られがちな一因にもなっている。

 しかし、人間それだけではやって行けない。一寸の虫にも五分の魂。それがなければ壊れてしまう。

 では、壊れないようにするにはどうすればいいのか?

 それが無意識の分裂。多重人格と言う奴である。

 ただ、イメージにもないことは中々浮かぶものではないから、無意識にせよ、大抵は何処かで見聞きしたことがベースになっている。慎二の場合は多分、母方の曽祖父以前のイメージであるように思われる。

 母親の祥子から幾度となく、曽祖父が明治前半の生まれにしては珍しく帝大出であることを耳にし、将校の軍服を身に纏って馬にまたがる凛々しい姿の写真を見せられて来た慎二は、曽祖父の属した家庭、更に社会について、ジェーン・オースチンの家庭教養小説に出て来る英国の中産階級をイメージしていた。

 そして祥子は、国民の8割が中流意識を持っている、と言われるようになった現代(平成大不況の前のこと)においても、曽祖父のことが強く、しかも好ましいイメージとしてあるので、

「そんなん中流言わへんわぁ~。中流言うたらやなあ、今やったら精々芦屋(東京では田園調布?)に家を構えてお手伝いさんを雇い、買い物は御用聞きからするぐらいの人等までやなあ。普通のサラリーマンのどこが中流やぁ~!?」

 と、自分の住んでいる安アパートのことを忘れてうそぶくのであった。

 つまり、祥子にとって曽祖父の胸に抱かれていた幼い頃を除いて、現在は常に仮の姿なのである。

 ただ、大人である祥子にとってはそうであっても、生まれたときから安アパートおよびそれが馴染む街を目にしていた慎二にとってはそれが現実である。

 しかも祥子が否定する現実であったから、より複雑であった。嫌いだし、否定したいから自分の足元をふら付かせ、自信など持ちようがないのに、頼るしかないから、全部をそこに委ねるわけには行かない。

 だから、祥子とは逆に、祥子にとっては現実の中流階級、実は似て非なる昔で言う中産階級が慎二にとって逃げ場、いわばサンクチュアリィなのである。多分そんなところが無意識で発せられた言葉、気、書かれた言葉、行間等から醸し出され、ゆとり、癒しとして周りに受け入れられたのであろう。

 今となっては、慎二は周りに受け入れられた無意識の自分、受け入れられる自信がなく、事実否定されがちであった意識にある自分、更にまだまだ未知の自分、それら一切合財を含めて自分だと思えるようになりつつある。あまりの辛さからとても統合し切れなくなったからこそ、隠れていた自分にも気付かされることになり、悩み、考えさせられた結果、それぞれなりに愛せるようになって来たのだ。これはもう再統合への道も近いのかも知れない。

 

 次に言葉の分裂について考えたい。

 何故言葉かと言うと、一見理性が勝ちがちな慎二は自然な流れとして言葉が大好きである。それも仕事柄カウンセリング、講演、講義等に興味を持ち、得意と思われがちな話し言葉は大の苦手で、極端に書き言葉に偏っている。

 しかし意識して、それなりの時間を掛けて書いた論文、会議や講義用の資料等が評価されることは殆んどなく、遊びで書き散らした日記、エッセイ、ショートショートの類が意外なほど受けるのであった。

 結局これも人格と同様で、分裂と言ってもいいのかも知れない。

 意識にある慎二の主張は自信がない為、上滑りで、纏まりがない。しかも、慣れない専門用語を使おうとするので、評価されなくても当たり前。評価される方がおかしいと言ってもいいぐらいのものである。

 一方で、気を遊ばせて書いた雑文からは、慎二が意識していない部分が滲み出ており、それが周りの懐かしい部分、癒されたい部分を心地よく刺激するのかも知れない。

 つまり、その人から一旦出た言葉は、その人の意識することの全てを表わせるわけではないのは勿論であるが、逆にその人の意識にない部分を表わしもする。その辺りが言葉は言霊と言われる所以であろう。

 

 以上から考えて、自己も言葉も意識される部分は一部で、そのまた一部が重なり合っている。それが言葉で表わされ、誰にでも瞬時に伝わる自己で、自己にも言葉にも表わされていない、遙かに広い裾野がある。そして、表われていないからと言って、無いわけではなく、むしろ本当に受け入れられたい部分であったり、深くて重い部分であったりする。時折行間や気として滲み出るそれらを含めて受け入れてこそ人生は味わい深くなるのではあるまいか!?

 

 そこまで書いて慎二は満足げな顔になり、そっとパソコンをシャットダウンした。折からの花粉症の所為もあったが、知らぬ間に涙で頬を濡らしており、その所為もあって、鼻水を少し垂らしながら・・・。

 書斎の外には、引き戸を少し開けて、そんな慎二をじっと観ている妻の晶子がいた。

 何時もであればそれを大仰に口にしてからかい、笑う晶子であったが、その時は慎二の書くことに何か自分のこととして感じるところがあったのか? しみじみとした感じで黙ったまま、透き通った微笑みを浮かべ、ひと回り以上年の離れた慎二を母親のような目で見守っていた。

     

        言葉には隠れた部分広がって
        感じ取れれば面白いかも

 

        自分には隠れた部分広がって
        感じ取れれば面白いかも