sanso114の日記

日々気になったことを気楽に書き留めています。

はざまに揺れて・・・R2.3.15⑤

 藤沢慎二が残業の手を止めて、休憩がてら行っていた夕食から職場に戻って来ると、玄関から出られなくて困っている若い女子社員がいた。

《嗚呼、今年入った子やなやあ。彼女も残業していたのか・・・。確か、橋本恭子と言う子やったなあ?》

 どうやら、玄関の大きなガラスドアの下にある止め具を知らないようなので、慎二は視線と指差しで教えてやった。

 擦れ違ったときの匂いが好かった。風の匂いしかしないのである。それに、素朴なはにかみようは何処か懐かしいものを感じさせる。

 慎二はこれからこまだ大分掛かりそうな残業の辛さを暫し忘れた。

 まだ東大入試二次試験問題の解答原稿チェック、原稿整理、早大入試問題の解答刷りの初校と、後のことを考えると、どうしても今日中に何とか目途を付けておきたいことがうんざりするほど残っているから、早くとも、会社を出るのは午後の10時を越えるだろう!?

 それなのに慎二は、この日ばかりは大して重荷に思えなかったのである。春の所為もあるのか、気持ちが浮き立つような気がしてならなかった。

 

 それから慎二は、社内で恭子の存在を意識するようになった。と言うか、廊下や階段で擦れ違う度に立ち止まり、はにかみながら会釈する恭子のことを意識せざるを得なくなったのである。

 慎二は受験に対する通信指導を中心業務とする勉誠舎の編集部に所属し、恭子はその発送部に所属していたから、普段、殆んど接点はない。発送に対する質問、苦情等が編集部まで偶々入って来たときに取り次ぐだけのことであった。それに、その役を慎二が受ける確率も高くはないから、殆んど縁がなかったのである。

 しかし、面白いもので、一度意識し始めると、不思議なほど会う機会が増えるものである。慎二は日に数回は恭子のことを目にするようになった。もしかしたら運命の神様が導いてくれているのだろうか!?

 本当は、それまで殆んど景色のように擦れ違っていただけかも知れないが、慎二は何かが変わって来たと思いたかった。

 

 では、慎二は恭子に交際を迫るか、そこまで行かなくても、話し掛けるか、グループでの遊びに誘ったのかと言えば、そんなことは全くなかった。   

 慎二は大阪にある国立の浪速大学を出てから入社し、そろそろ5年になる。恭子は地元の短大を卒業したばかりだから、2人は年が7つ離れていたが、その所為だけではない。

 それでは、慎二が、幾ら好きな子が出来ても、全くコンタクトを取らず、ただ遠くから眺めているぐらいしか出来ないほど気弱であったか、と言えば、それに近くはあったが、手紙等、出来るだけショックが少ない方法を探して、下手なりにコンタクトを取るのが普通であった。

 では、このときに限って、どうして何もしなかったのか!?

 結局、出来なかったのである。慎二はこのとき、同時期に入社した佐々木順子の方にも惹かれており、彼女の方が分かり易く派手な輝きを放っていたから、ある弾みで、順子の方に告白してしまったのであった。

 順子は173cmの慎二と同じぐらい肩の高さがあった。顔が小さい分だけ背が低いようであるから、170cm近くあったのかも知れない。それに伸びやかな肢体をしていて、慎二がよく目にしていた雑誌のグラビアに生命を吹き込んだような感じがしていた。編集部に編集助手として配属され、編集室に入るとき何時も正面に位置していたから、慎二は自然と意識するようになったのである。

 或るとき、慎二が目の前を通り過ぎる順子のことを目で追っていると、同じ教科の後輩、元宮咲子が意味ありげな目をし、冷やかすように言った。

「藤沢さん。迫ってみたらどうですかぁ~!? 彼女、好い子ですよぉ~」

 それを聞いて、偶々そばにいた順子の上司、安藤和義が慌てて、

「駄目だよぉ~、変なことそそのかしたら・・・。彼女にはこれから確り仕事を覚えて貰わなくてはいけないんだから、今、手を出したら駄目だよぉ~」

 慎二は気弱な微笑を浮かべただけで、何も言わなかったが、心の中では、自分なんかより安藤の方がよっぽど危ないタイプなのに、だから言うのかと思うと、ちょっと可笑しかった。

 このときはそれだけのことであったが、慎二にとってはそれが切っ掛けになり、順子との距離がぐっと縮まったような気がしていた。

 そう言えば、目があったとき、嬉しそうな顔をする。もしかしたら、彼女も僕のことを意識し始めているのだろうか!?

 勝手な妄想が膨らみ始めると、もういけない。順子のどんなしぐさも、慎二は自分を意識してのことのように思われ出した。

 

 恭子のことを意識し始めたのはそれから暫らく後のことであった。そしてその意識の仕方は、順子の場合とは違い、ごく淡いものだったのである。

 恭子とは順子より仕事上の接触がより少なかった所為もあるが、それ以上に、光り方の違いに大きな理由があった。恭子もよく見れば可愛く、決してスタイルも悪い方ではないのだが、それに女性らしい豊かさを基準にすればむしろ好い方なのだが、順子のような目立つほどの華やかさがなく、そばに居て安心出来るタイプであった。それ故、当時、家庭を持つと言う意味において適齢期には程遠かった慎二にとって、恭子はどうしても2番手に来る女性だったのである。

 

        彼方此方に気が散り胸を焦がしつつ

        結局誰も得られないかも

 

     ☆     ☆     ☆     ☆     ☆

 

 これはかなり自分に近いことを書き留めている私小説のようなものである。

 

 常に片手ぐらいの人に惹かれていたような20代であった。

 

 そしてそれぞれの人に誠実であろうとすれば、そりゃ持てんわなあ。フフッ。

 

 でも、それで好かった。

 

 私にとっての適齢期はまだまだだったのである。

 

 この後、仕事自体に迷い出し、会社を辞めており、それから紆余曲折があって、家人に出逢うまで10年以上掛かっている。

 

 その間にも幾つかの恋に胸を焦がしているから、物語の頃、私にとってはまだまだ早春であったようだなあ。フフッ。

 

        早春の恋はいまだに淡過ぎて

        手を取るまでは遠かったかも