sanso114の日記

日々気になったことを気楽に書き留めています。

台風一過(エピソード41)・・・R2.3.1①

            エピソード41

 

 子どもは大人の背中を見て育つと昔から言われるように、子どもはそれぞれの地域、家庭等、周りに居る人の影響を受けながら育つ。その結果、多少見る目が不完全であったり、再現性が悪かったりして歪な出力であったとしても、当然、似たような考え方をし、言動を発することになる。

 同じことかも知れないが、逆に、昔からクラスは担任に似るとよく言われて来たように、ある程度リーダーシップを発揮して引っ張る大人が子どもたちを自分の色に染めがちであるとも言える。

 面白いことに、パソコンのような機械にさえその傾向は表れるようで、落ち着いて冷徹な人に使われたパソコンはきびきびと無駄なく動き、買った当初の状態よりかえって反応が好くなるのが普通であるが、だらしない、或いは頼りない人に使われたパソコンは次第に締りがなくなり、どんどん反応が悪くなる。ちょうど藤沢慎二のパソコンか、独りにんまりしながらこの物語を打っている相模宗太郎のパソコンのように・・・。

 以上のようなことから考えて、公立高校の教師が宗教や政治等、思想信条に関わることついて教えてはいけない理由も分かるであろう。

 そう言う意味も含めて、極め付きの困難校に位置付けられがちな奈良県立西王寺高校に集まり易い、無気力で後ろ向きになりがちな生徒たちが少しでも人生に前向きな姿勢になるべく指導する為に、若くて元気があり、前向きな体育系の教師を集めることは理に適っている。

 勿論、周りが理解し易く、受け入れ易い理由は、厳しく管理し、躾ける為にある程度の力、押し出しと言ったものが必要だから、ということであろうが、それでも実は上に述べたような前向きな姿勢が身に付いた後に来ることの方が、それぞれの子の卒業後も含めた人生における意味を考える上では重要である。

 人生は短いようで長く、その意味を直ぐには見出せないことも多い。それぞれの道を切り拓いて行く為には創造力、発想力、決断力、瞬発力と言ったものも必要ではあるが、結果が見えないことに焦らず、じっと耐えて信じていることに努力し続ける忍耐力、持久力、継続力と言った力も必要である。そしてそれらの力を養う為には、何も体育的な迫り方だけではなく、哲学、心理学、歴史学、地理学、民俗学等、あらゆる人文科学的な力、また物理、化学、生物、地学等の自然科学的な力を総動員しながら寄り添い、日々共に歩むような地道な努力を要する。そこに必要とされるのが主要5教科、芸術系教科、職業科等の教師の教育力、および人間力なのである。

 それでは西王寺高校において体育系の教師以外の教師たちがその条件を満たしているのか? いまだ満たし切れていなかったとしても、満たそうと努力出来る環境が保障されていたのか? 弓道部の顧問であると共に、国語の教師でもある安曇昌江をあまりに簡単にとも思えるほどすんなりと私立の法隆寺学園高校に送り出したことは果たして間違っていなかったのか?

 それらについての答えを即座に出すのは難しい。上にも書いたように、直ぐには答えが見つからない問題であるから、後の批判を待つしかないのである。

 一方で藤沢浩太との問題が持ち上がるまでも昌江は、弓道の実績から考えて西王寺高校には勿体ない存在であるから転勤しないかと何度も持ち掛けられている。その一見答えが見え易い方から考えれば、また昌江個人の職業人生としての遣り甲斐から考えれば、この転勤が理に適っているのであろうが、大人の好い見本が子どもの好い基礎を形作るという意味では、西王寺高校のような不器用な生徒が多い学校にこそ、人間性も含めて一流の教師を配置すべきと言えるのではないだろうか!?

 また国語の教師としての昌江の力にも実は無視出来ないものがある。まだ目立った実績を上げているわけではないが、若手女流俳人として関西の俳句会で少しずつ注目され始めており、子どもでも容易に始められる俳句作りを通した国語教育、人格陶冶は生徒たちに少しずつ浸透し始めていた。

 これらの力が、素早く見栄えの好い実績を上げるべく、常に結果を優先的に求め続けるという企業論理に影響されがちな私学の雄である法隆寺学園においても、果たして有効に機能するのであろうか?

 その辺り、どうしても行きつ戻りつ迷うばかりで、俄かには答えが見えて来ないのであるが、見えないからこそ多くの目で見て、また確りと時間を掛けて検討すべきことであったのかも知れない。

 勿論、じっくり時間をかけたからと言って、下手な考え休むに似たり、と昔から巷でよく言われるように、無駄に終わることも多く、素早い決断力、行動力が上手く行くように見えるのがこの世の中の常ではあるが、それも矢張り見え易いところが見えているだけのこととも言えなくはない。必要と思われる時間と手間を掛ければ、少なくとも納得はし易いのではないだろうか!?

 ともかく、多くの人や機関が動いてしまったものは戻しようもなく、動いた時点から始めるしかない。超光速粒子の存在や時間の逆行はまだ一般的に認められた理論ではなく、現時点において時間は何時でも前にしか開いていないのである。

 などと言っている内は、少なくとも自分だけは分かった気になって気持ち好く、この分では何とかなりそうにも思いがちなのであるが、言うは易し、行うは難し、である。中々そうは簡単に行かない。西王寺高校における一般教科の授業は時に、生徒、教師双方にとって虚しいものとなる。生徒たちの多くは落ち着いて取り組むことに慣れておらず、また取り組む為の学力も定着していないことから、勢い直ぐに気が散ってしまう。それに、困難校の西王寺高校に来たことだけから考えても、これまでの短い人生において努力した結果が報われることが少なかったはずであるから、見えない近い将来に向かって努力する気なんて中々起こらない。

 また教師たちの多くは勉強が得意である。これまで我が国における勉強は暗記型で、記憶力、再現性さえ好ければ比較的容易に結果が出せるから、いわゆる知能指数を表すIQが高いタイプにとっては分かり易い世界である。努力が直ぐに実ったかのように見え易い。生徒たちがどこで躓き、悩んでいるかということを理解し、待ったり、回り道したりする方が難しいのである。

 また長い平成大不況の影響も大きく、生徒たちに一番近いところに居る教師でさえ、幾ら前向きに見えても経済的には努力の割に報われることの少ない人生を送っているのが普通であるから、それが余裕や優しさの欠如となって表れ易い。まして子どもたちに観られることを前提にせず、意識もしていないことが多い保護者や近所の大人たちは、報われないことによる疲れや虚しさを平気で顔や態度に出しがちであるから、子どもたちの人生における好い見本には中々なり難い。

 結局、子どもたちは身近な何を見本に生きて行けば好いのか中々判断し難く、いきおい歌手、タレント、モデル、アスリート等、見場が好く、目立つ存在を見本にすることとなる。

 しかし企業論理に強く影響を受けた効率性、即効性を求めるあまりの安直さという意味では、我が国における上のような著名人の扱いにもそれが表れているから面白い。たとえば、プロ野球選手や映画俳優の給料でさえ一般人の給料と比べて是非を問い、体よく抑制したり、醸し出す色気を身上とする芸人の肥やしとも言える色事を一般人の倫理性に照らし合わせて批判したり、裁いたりする。またAKB48とKARAや少女時代のような日韓のアイドル歌手を比べても、我が国の場合の方がスタイル、ダンス、歌唱等のスターとしての完成度を求めず、身近さを求めている。子どもたちの見本という意味では、近付こうと思えば直ぐにも近付けそうで、都合が好いというわけか?

 それでもスターはスターである。実際は近付き難い距離にあり、近付けたと安心し掛けたら、スッと遠ざかる。ある意味、ストレートに持てる力を出せない我が国のスターたちの方が高等テクニックを求められていると言えなくもない。

 話を広げ過ぎたようだ。結局、スターたちは現実的な見本にはなり難く、深追いし過ぎた者は余計に見えなくなり、本当の自分探しに一生を費やすことになる。

 それでは一体どうすれば好いのか!? 教師も生徒も虚しがっているだけでは何も始まらず、進まない。

 そこでもう少し生きる力に結び付き易いのが、遠足、宿泊研修、体育祭、文化祭等の行事やクラブ活動、合宿、更に入学式や卒業式のような儀式等での取り組みである。生徒と教師の距離が日常的な授業よりもう少し近付き、教師にとっても専門とは限らない面を求められる分、生な言動も出易いから、自然と計算出来ない部分が多くなる。整っていない分、不安も大きいが、成功した時の感動も大きい。総合的な勉強としての面が強く出るから、生きる力にはよりなり易いと言えよう。

 一般人の生活になぞらえると、ハレとケということである。日常生活は勿論大切で、人生の中心になることは事実であるが、それだけではあまりに地味で、辛気臭い。それを少しでも緩和し、人間における動物的な原始の部分を引き出して奮い立たせてくれるのが非日常、つまり盆踊りや祭のような取り組みなのである。

 そんなわけで西王寺高校では授業を教育委員会の求める最低限の量と質に抑え、行事やクラブでの取り組みを重視していた。

 かなり偏りがあるにせよ、人間観察を趣味とし、本当の自分探し、自分育てをライフワークとして来た藤沢慎二にすれば、以上のようなことはこれまでも人生に迷う度に幾度となく考えて来たことで、偶然の縁にせよ持つことが出来た子どもたちの学校における祭、つまり行事の意味を十分に分かっている積もりであるが、日常生活における祭が好きではない(はっきり言ってしまえば、若い頃の苦手意識から、ここ最近は嫌いにまで変化しつつあった)のと同様に、自分の学生時代からの経験を含めても学校における行事が好きではなかった。皆で力を合わせて取り組んだ結果の、ラムネの栓を抜いたような爽快感自体は嫌いではなかったが、それとて何とか遣り過ごせた安堵感の部分が大きい。私的な旅行のような、普通楽しみになり易いことでさえ、行けば、1日でも早く帰りたくなる方であった。

 それもこれも、慎二自身、頭の中では常に色んな妄想が飛び交う非日常的な時間が流れており、分身が何時も本当の自分を探し求めて意識の荒野を彷徨っていたからであった。

 そして、もう容易に想像が付くように、慎二の息子である浩太の方も日常を非日常的に生きていたから、それ以上舞い上がりたくはなく、祭より日常の方が好きであった。昌江の存在も大きかったにせよ、それ以前からずっと、日々頭が雲の上、というような部分が多分にあった。

 そういう意味でも弓道は、浩太にとって至極馴染み易かったようである。緊張と緩和、力を込めて永遠とも思える一瞬を待った後、虚空に向かって力を放ち、後は風任せ、運任せ。迷い易い浩太にとって、最後までは決定しないでも好いのが助かった。結果は謙虚に待つしかない。その潔さも心地好かった。

 奇しくも、慎二や浩太が大好きな韓国ドラマにもそんな部分が多分にあるようだから面白い。決まっているようで、はっきりとは決まっていない放送時間、回数。展開も流動的で、始まってしまった後でも視聴者の声を反映しながら、日々脚本が変わって行くと言う。まるで吉本新喜劇のように、視聴者参加型のイベントなのである。更に登場人物は町に出ても、ドラマの影響で温かく迎えて貰えたり、冷たくあしらわれたり。テレビの中だけではなく、町全体を巻き込んだお祭なのである。慎二や浩太がそれぞれ自分の頭の中でのみ展開している非日常的な世界を、マスメディアを通じて発信し続けているのが韓国ドラマということであろうか?

 

        日常が祭のように非日常
        面白ければ其れも好いかも