エピソード28
「ふっ・・・」
ピシューッ
「ふぅー」
矢は真ん中からかなり逸れていた。
「また駄目だわ・・・」
安曇昌江は自分一人が駄目になったようで、落ち着かなかった。
「ふっ・・・」
ピシューッ
「ふぅー、また駄目」
かれこれもう2時間ぐらいは繰り返していた。誰も居なくなった弓道場で唯独り、黙々と矢を自分の心の中にでも射ているような気分であった。
師匠の左近寺周平は足を地に着け、家族の元に帰った。それが好かったのか? この頃本格的に練習を再開し、シニアの各種大会で目を見張る好成績を上げている。ほとんどぶっちぎりであった。この分では現役の若手の中に入っても十分に戦えるのではないか!? と騒がれ始めている。
藤沢浩太は一時迷いが生じ、伸び悩んでいたが、最近吹っ切れたのか? また安定して来た。特に昌江が付き添った大会では嘘のような成績を上げている。今日の昌江となら、もしかしたら五分五分かも知れない。それぐらい調子好い時がある。
《夏休みが過ぎて、みんな好い顔になって来たのに、私だけが何だか浮いている。一体どうして・・・。駄目駄目! こんなところで弱気になっちゃ・・・》
「よし、もう一回!」
・・・・・・
「ふっ・・・」
ピシューッ
「ふぅー。うん!」
矢は的の真ん中に吸い込まれた。漸く迷いが吹っ切れたようである。
それからの昌江は黙々と更に30分ほど矢を射続け、全て真ん中に吸い込まれた。
「よし! うん!」
それでようやく納得出来たようで、昌江は校舎の屋上にある大時計を見た。
「まだ7時半。この頃暗くなるのが早くなって来たわねえ」
照明を落としたら既に真っ暗で、広い校庭を横切り、部室のある辺りに行くのが怖いぐらいであった。
緊張しかけたとき、その気配を察したか? 中型犬ぐらいの動物が昌江の前方を斜めにササッと植込みに向かって横切った。
「あっ! 吃驚した・・・」
そのとき足元にピカッ!
「先生、大丈夫ですかぁ~? 今日は凄く頑張ってましたねえ~」
懐中電灯で照らし、タオルを差し出してくれたのは藤沢浩太であった。
「どっ、ど、どうも有り難う・・・」
昌江は思わず声が震えた。泣き出しそうなほど嬉しかった。
「どうして? ・・・」
「いや、先生でも悩む時があるんや思たら、何や待ってなあかん気がして・・・」
「うふっ。それは私も人間だから、悩むことぐらいあるわぁ~。でも、何だか恥ずかしい・・・」
「えっ、何がぁ?」
もうほとんど先生と生徒、或いは顧問と部員であることをお互いに忘れている。
「何が、って、そんなこと・・・」
口ごもっている昌江にそれ以上聞くのは可哀想な気がして、浩太はまた気を利かし、
「まあそれは好いから、ゆっくりシャワーでも浴びて、汗を流して来てください。僕はもう浴びてさっぱりしたし、ここでのんびり待ってますからぁ~」
「有り難う・・・。お礼にマクドか何か奢るわぁ」
「わっ、本当ですかぁ~!? ほな、何か甘いものがええなあ」
暗さが恥ずかしさを押し退け、すっかり恋人同士のようになっていた。懐中電灯を消しても、昌江と浩太の瞳は交互にキラリ。何も食べなくても、心はほっこり、ほのぼのと満たされていた。
帰りは王寺まで一緒なので、昌江は王寺で浩太を西友に連れて行った。
「マクドでいい? それとも、さっき言っていたみたいに、甘い物がいい? 好きなものを選んでいいわぁ」
「本当ですかぁ~? ほな、浅慮せんと寿がきやの担担麺セット!」
「うふっ。浩太君、夕食前なのにそんなもの、食べるのぉ?」
「いえ、食べてから帰るって、さっき言っておいたので・・・」
「嗚呼、それが夕食のつもりだったのね・・・。それならもっと好いものを食べましょう。いらっしゃい!」
昌江は浩太をフードコートの脇にある、それなりに本格的そうな中華料理店、近鉄グループの百楽に誘った。
「そんな・・・。いいんですかぁ~!?」
「これぐらいは幾ら安月給の先生でも大丈夫よ! でも、あんまり高いものは駄目よ。うふっ」
昌江は目を白黒させている浩太を見ながら、からかうように言う。
暗い校庭でスマートにエスコートしてくれたときとは打って変わって、また昌江の前ではおどおどした元々の浩太に戻っているので、昌江は優位に立ち、浩太のことが可愛くてたまらなくなって来た様子である。
本格的中華料理店に入ろうが、好き嫌いの多い浩太に選べる物はあまりなく、結局担担麺と麻婆丼を頼もうとしたら、昌江が、
「浩太君、辛い物が好きなのね!? それじゃあ、今日は私に任せてくれる?」
「は、はいっ!」
昌江はウエイターを呼び、
「麻婆豆腐にライス2つ、それに四川料理の一般的なところで回鍋肉に棒棒鶏。それに卵スープ。それから・・・」
普段浩太が好んでいそうな物を入れながら、気を利かしてどんどん頼んで行く。
圧倒されて放心状態になっていた浩太が気が付くと、テーブル一杯に並んでいた。
昌江は時計にサッと目を走らせ、
「あっ、ごめんなさい! もしかしたら頼み過ぎたかしらもしかしたら?」
既に8時半になっていたので、気を遣ったのである。
「大丈夫ですよぉ~。この頃10時を過ぎることも多いし・・・」
「えっ! そんなに遅くまで? もしかして、デートだったりして・・・」
冗談っぽく聞くが、目は決して笑っていなかった。
「そ、そんな、僕、好きな女(ひと)なんて、いませんよ!」
先生以外は、と付け加えたかったところであるが、流石にそれはためらわれた。
しかし浩太は、さっき暗い校庭で不安げな昌江の気が熱く絡んで来たことを甘く思い出していた。
「あら、そうかしら!? 浩太君、この頃柿本さんと好い雰囲気だって・・・」
気軽に話せている内に、昌江は冗談に紛れて聞かずにはいられない。
「ええっ!? そんなこと一体誰が・・・」
ドギマギしつつ、浩太はさっきから昌江が浩太君とごく自然に言っていることがくすぐったく、嬉しかった。
「みんな言っているし・・・。それに私も何回か見たわぁ~」
「あれは相談されたから・・・。それだけのことで、僕は柿本さんに特別な気持ちがあるわけではなくて。まあ友達みいなものだから気楽に喋れるんで・・・」
必死に説明しようとする浩太を昌江はもっと責めてみたくなった。
しかし、時計が既に9時半を回っていることに気付き、辛うじて理性を働かせ、
「一杯残っていて残念だけど、もうそろそろお開きにしましょうかぁ? 明日もあることだし・・・」
「は、はいっ!」
ここでの浩太は言いなりであった。
「浩太君、それじゃあまた明日。さようなら。気を付けて・・・」
「さようなら。失礼します!」
夢見心地で昌江に送り出され、電車に乗ったのは10時前。家に着いたら10時半近かった。
母親の晶子には王寺で友達と待ち合わせて夕食を共にし、喋っている内に遅くなったと、半分事実を混ぜて誤魔化したが、晶子はこれまでの習慣から、少しも疑おうとしなかった。浩太が女性に全く興味がないものと決めつけ、半ば心配する振りをしながら、安心し切っていた。
しかし、浩太が自室に上がった後、果たしてそうでよかったのか? 晶子に初めての疑念が生じ始めた。
《何だか何時も以上に口が回るし、上気していた。ほのかに好い匂いがしていたけど、あんなシャンプーやボディーソープ、家にはないはずだし、一体何処で付けて来たのか・・・》
夫の慎二には決して感じたことのない疑念。息子のこととは言え、いやある意味夫以上に理想の男性である息子だからこそか? 晶子は疑念が具体化し、胸騒ぎが次第に大きくなって行くことに戸惑っていた。
夫より息子に理想垣間見て
まだ見ぬ彼女妬けて来るかも